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(メモ)にんじん的物理の勉強④ 物理学

 砂川さんという人が書いている『物理入門』には、数学屋に対する、あるいは公理的に取り扱おうとする人々に対する、不満が述べられている。もちろん物理をやっている人も数学モデルは扱うが、やりすぎてはいけないということだ。あるいは、「法則」がどうしても天下り的に見えてしまう数学屋の事例もある(例題から展開する力学 (ライブラリ例題から展開する大学物理学 1))。

 二点目は完全に同感で、実験というものをしていないこともあって、ふつうに天下りにしか見えない。だいたい、物理をやってる人にしてもまさか全部実験してるわけじゃないでしょう。一点目については、熟練の社員が「仕事はねえ、マニュアルじゃないんですよ!」といっているようにしか見えない。この作業をしておかないと、どの点が改訂されどう波及するのかがわからないし、なによりも、マニュアルがないといつも知っている人にお伺いをたてないといけなくなる。入門者にやさしくない。また、物理学が基本的に仮説で徐々に変化していくことを認めながら、数学屋のやっているn次の微分方程式の解き方などを難解すぎ現実とかけ離れているかのように非難するのは間違っている。運動方程式もゆくゆくは二階微分で済まないかもしれないではないか。

 物理学は「世界」と「物理学的模型」と「数学的模型」を行ったり来たりする。物理学的模型は本当にTHE模型といった感じだが、ジオラマよりは精彩を欠く。なにせ四角と丸しか出てこない。そこになんか矢印やらなんやらつける。枠外に『床はつるつるです』と書いてある。ニュートン運動方程式に値を入れると二階の微分方程式があらわれ、この微分方程式が運動の数学的模型となっている。R^3×Rがどうだの、そもそもの空間的なことはあまり問題とされない。要は微分方程式が解けりゃなんでもいい。ただ数学屋としてはこれでは満足できない。そんなちまっとした部分じゃなくて、もっと広く落とし込めるでしょ、と思う。『理論』という以上はそれぐらいやれてほしい、とも思う。

 たとえば犬と散歩していて前からクマが来て追っ払ってもらったとしよう。この実際の出来事を物語にし、人びとに語り聞かせるのが物理である。そしてもちろん物語である以上、作者の物理に対する興味のみが働いている。見方によっては人間の心理が気になったり、犬やクマの生態が気になったりするだろう。一方、数学はその物語の構造を書きだす。たとえば「時系列順だな」とか「オープンエンディングだな」とか。想像してもらうと分かる通り、オタク同士でアニメの話をしているときに分析されるとちょっと面倒くさい(ぼくは面倒くさいタイプの人間だが)。でも構造がなければ物語が成り立たない。そしてうまい話というのは構造的にすっきりしている

 

 だいたいこういう風に理解すると、他の科学と数学の関係が見通しよくなるのでは? つまり物理は出来事を見、数学はお話を見てそれを分析する。見ている方向は同じでも焦点が違う。物理屋にうまくやってもらわないとその定式化も困難なのに、「こういうことか」「こういうことだな」と数学に詰められて「お前はわかってないなあ」では進歩がない。マッハから「力が定義されてませんよ」とプロットホールを突かれたからといって、彼が出した代案をいつまでも話のタネにするより、語り直すほうが先決だ。