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【二回目】にんじんと読む「フッサール現象学の生成」🥕

 若きフッサールの探究の目が「意識の志向性」に向いたきっかけはいくつか考えられるが三点取り上げるなら、


    (1)数学者ヴァイアーシュトラースとクローネッカー
    (2)心理学者ブレンターノ
    (3)意味と対象との区別ならびにイデア性の承認


 ということになる。

 まず彼が学生時代、数学の基礎論が動揺していたことから彼の学んでいた数学者たちから「基礎づけへの徹底主義」を受け継ぎ、さらに"数"という根本的な概念を考えるために数えるという「心理的作用」に目を向けることにもなった。

 その後、フッサールを哲学に転向させたのはブレンターノの講義である。ブレンターノは物理現象を扱う他の自然諸科学に対して心理現象を扱う心理学を性格づけるにあたって、両者はともに経験にもとづくが、自然諸科学の諸現象が根本的には現実のものとして証明されえないのに対して、心理学は自分の内面を源泉としており間違いようがない。内的な知覚がこのような明証をもつのはなぜか。それは自然諸科学のように自分の心の中を観察してなにかを対象化するのではなく、まさに起こっている心理的作用を二次的に意識しているといういわば直接的な知だからである。つまりブレンターノは「内的意識に基づいて間違いようのない明証に支えられつつ、心理現象が有する一般的独自性を探究する」。
 ではそもそも心理現象と物理現象の区別とはなんであるか。それは、どんな心理現象(意識作用)といえども、どれにも必ず対象への関係がそなわっているということだ。たとえば想像するというのは何かを想像することであるし、表象するというのは何かを表象することだし、愛するというのは何かを愛することだし、欲求するというのは何かを欲求することである。これを〈対象との志向的関係〉という。フッサールはこの考え方に大きな影響を受けた。
 この「志向性」という概念をさらに洗練したのが三番目の契機である。
 たとえば数という概念は、いろいろの諸対象に心理的作用が向かうことによってそれらを結び付け包摂するという志向的関係においてその「総体」が成立する、と言った。だがこの総体、まとまりはいかなる身分のものなのか、その位置づけは明確ではない。というのも、たとえば数という総体・まとまりは、個別の諸対象をいくら見回しても出てきたりしない。結局、それはいったいなんなのか。フッサール心理的作用とそれを結び付けるが、単純にそれだけなら、私たちが数えるということをやめた途端に数という概念が文字通り消滅することになる。そんなことはありえない。ピタゴラスの定理はだれが考えていないときであれ、成立するはずだ―――ここに、個々の心理的作用の経験的実在性を超えたイデア性の承認が含まれている。だがこれが明確になるのは、『算術の哲学』刊行(1891年)後から1894年にかけてのことであったと推察される。この時期、フッサールは数学者のフレーゲから痛烈な批判を浴びせかけられている。とはいえ、フレーゲに影響されたとは言い難いのだが。
 フッサールは著書のなかで、論理学から数学を基礎づけようとする論理主義者フレーゲの試みを不毛であると批判している。フレーゲは一連の形式的諸定義から算術を構築しようとしているが、数学の根本諸概念や諸関係はそもそも「定義」などできようはずもない。それよりもそうした諸概念が形成される際の心理的プロセスを探究せよ、と彼は言う。これに対してフレーゲフッサールに手紙を寄越し、お互いの相違について「概念語がいかに対象に関わるか」という点にあるのではないかと診断している。

 

   「命題には、意味があり、それには指示対象である真理値がある。固有名には、意味があり、それには指示対象である対象がある。
     ところで概念語にも同じように意味があるが、その指示対象はその概念そのものだ。だが、概念に属する対象が存在しない場合もありうる。
     たとえば虚数について考えてみよ。虚数は意味をもち、虚数という概念を指示する。しかしどこを見回しても虚数が支持する対象などない。
     しかしだからといって、数学の体系のなかで虚数が無意味になるわけではない。学問的に使用不能にはならない。
     フッサールは、概念語→概念語の意味=概念→その概念に属する対象という三段階しか考えていない。
     君のように内在的にものを考えていると、対象は実在しないが客観的意味は有する概念語の存在を承認できなくなってしまう」


 つまり、フッサールが批判しているところの、根本的諸概念と諸関係の定義の不可能さはそれが具体的な指示対象を持たず、心理的作用を向けようがないところにある。
 だが、なにかを定義するのに具体的な対象など必要ではない。虚数を定義するのに、なにかを指差す必要はない。
 さらにフレーゲの追及は続く。

    「君はなにもかも表象に帰する。思想というものは多くの人々によって同一に捉えられうる客観的なものだが、
     それを表象に帰すると客観がどうだのとは言えなくなる。君のプランでは個別内容をかき集めて結び付けることで客観的な根本概念に至るつもりらしいが、
     私と君とでそれは同一のものなのかな? 同じ「数」という概念だといえるのかね?
     もしかして君は、月自身と君に見えている月をごっちゃにしてるのでは? 月は、君が何をどう思おうが、まして人間にどんな能力があろうが、関係ないよ」

 


 この2点の批判について、フッサールに考えがなかったわけではない。彼は「意味」と「対象」と「対象の表象」の区別はもちろんつけていた。
 だからフレーゲから来た手紙には、少なくともなんの影響も受けなかっただろう。
 また、フレーゲは表象を主観的なものとして徹底的に拒否する姿勢を見せており、私たちの能力を超えたところにある客観を重視している。先に見たように、フッサール心理的作用によってイデア的意味に達することを考えるようになるが、これはフレーゲの影響によるものだろうか。本書はこれに否定する立場である。ともかくフッサールは上のようなフレーゲの指摘を既に考えており、乗り越える準備はあったのである。

 

 「心理的作用が対象への思考的関係においてイデア的意味を構成し、この作用がイデア的意味を介して対象と志向的に関わっている」

 ここには説明されるべき内容が含まれる。まず、心理的な作用がいかにしてイデア的意味という客観性を構成できるのかよくわからない。これを克服するためにフッサールはひとつの転回を行わなければならなかった。それはこれまで彼が身を置いていた心理学主義=論理的なものの心理学的基礎づけからの決別であった。心理学主義的論理学において、たとえば矛盾律とは心理的諸事実からの一般化である。しかしだとすれば、心理的諸事実はどこまでいっても個別事例であり、黒いカラスを何羽見ようがこの世のカラスがすべて黒いことにはならないのと同様に、蓋然的である。もし論理学が心理学に基礎づけられるなら、矛盾律などの論理学的諸原理はすべて必然的ではなく蓋然的という身分にならざるをえない。
 彼は心理学主義にひそむ三つの先入見を批判することからはじめる。

  1. 考えるのは心。論理的諸法則が心理学に基づくのは自明。
  2. 論理的諸概念はすべて心理的活動による現象や形成物。
  3. ある判断を真だと確信するのは、その判断が明証感情、つまり明らかだと感じられるという心理的なものにもとづく。

 これに対してフッサールは次のような立場をとる。

  •      第一。論理的諸法則は論理的諸概念に基づいている。それゆえにそれらは経験から導出されるものではない。
  •   第二。論理的諸概念は単なる心理的形成物以上のものである。たとえば数は数えるというはたらきを起源にもつが、数自体はさまざまな個別事例から抽象によって把握された理念なのである。たとえば1は、車1台、鳥1羽……という個別事例を超えた、つまり数えるという単なるはたらき以上の中身をもつ。「車」という概念自体も、単なる個物ではない。
  •   第三。たしかに何かを確信するのには明証感情が伴うが、だからといって論理的諸法則・論理的諸概念・それらに基づくあらゆる判断自体は心理学的な命題ではない。

 つまり、こうだ。論理的諸法則は論理的諸概念にもとづき、論理的諸概念は個別事例を超えた中身を持つ心理的形成物以上のものである。
 するとフッサールが歩むべき「純粋論理学」の仕事は次のようになるだろう。

  ① 原初的な諸概念を確定し、それらの基本的結合形式を探究すること
  ② 原初的諸概念と基本的結合形式によって生み出される諸法則を探究すること
  ③ 本質的に可能な理論の種類(形式)を探究すること

 だがこの純粋論理学の体系的展開にフッサールは関わらない。それはむしろ数学者の仕事であるといい、自らの哲学者としての仕事に目を向ける。それは諸概念の「起源」を突き止めることである。論理学的諸概念は、何らかの諸体験にもとづく抽象によって生じなければならない。その構成の現場を、突き止めるのだ。フッサールはそのために、諸体験に還ろうとする。ただしその体験は純粋なものでなければならない。あらゆる理論的仮定を排し、原初的な「構成」の現場に立ち会うのだ。

 

 

 心理的体験を純粋に記述しようとしてその手続きを模索した結果、生まれたのが「現象学的還元」である。
 フッサールがそれを語ったのは、公刊された書物としては『イデーンⅠ』だった。現象学的還元とはまず、自然的態度の徹底的変更、自然的態度のなす一般定立の遮断である。自然的態度とはごく普通に生きている人間のごく普通の態度である。たとえば、私たちは目の前のパソコンがふつうに存在していると思っているし、それはひとつの財産であり、価値があり、いろいろな使い方を知っている。そしてそれは他の人間にとっても同じであるし、彼らは自分と同じように何かを考え行動している。自然的態度における私に意識されている世界にはそんな隣人たちであふれ、彼らと了解しあいながら共同で現実をつくりあげているのだ。そこになにかがある、なにかと同じ現実に私も属しているし、他の人も属している――――このように、現実を、現に存在するものとして眼前に見出し、それがおのれを与えてくるとおりに、現にそこに存在するものとして受け取ることを「自然的態度の一般定立」と呼ぶのだ。現象学的還元は、これを遮断しようとしているのである。
 だがそれは可能なのだろうか。そこでフッサールが取り出すのはデカルトである。デカルトは疑い得ないたしかなものを探すために、徹底的に懐疑を試みた。デカルトが求めたのは絶対不可疑の明証性である。だが疑うだけならなんでも疑うことができるし、ここでやりたいのは自然的態度の一般定立を遮断することであって全部を廃棄することではない。この狙いを定めた定立の遮断、括弧入れを「現象学的エポケー」「現象学的還元」といい、これによって得られるのが「純粋体験」である。

 

 

 直観とは、学問の対象区域にある諸対象がそのうちで意識に与えられ・現れてくる際の意識の働きであるとされる。
 たとえば机といった物理的事物を外的知覚によってとらえたとき、これは「そのもの」というありさまで与えられる。これもまた直観であり、特に「原本的に与える直観」と呼ばれる。これに対して机を想像したときの机は、原本的ではない。また、自分の意識状態について目を向けると、これは原本的であるが、他人の気持ちを考えるときは原本的ではない。『原本的にせよ、原本的でないにせよ、ごく普通に何らかの対象を意識に与え、意識に現象せしめるこれらの意識の働きが、まずもっと広く「[対象を]与える直観」として規定』された。
 そうしたごく普通の直観によって与えられるのは「事実」である。それは実在的で、個体的で時間的空間的に現に存在し、偶然的である。ところが注目すべきことに、そうした個体的対象は「本質」を蔵している。目の前に見えている「机」は、たしかに一回限りの個体的対象なのであるが、それだけにとどまらない「机」というものになりうる。それはたとえば他の机を見ることなどを通して、それらの共通なものとして取り出されてくるものである。こうして意識に与えられるものを、フッサールは「本質直観」と呼ぶ。
 すると本質直観の手続きはこうなる。①知覚や想像における範例から出発、②個別に、もしくは他の対象と比較、③諸々の対象に共通なものとしての本質を取り出す。ここで語られる「本質」というのは、形相的対象とも呼ばれる新たな「対象」である。机などの個体的対象と対照できるように、個体的対象は経験的直観によって与えられ、形相的対象は本質直観によって与えられる、とまとめておこう。

    個体的直観に原本的か原本的でないかの区別があったように、本質直観にも区別がある。本質が漠然と曖昧にしか与えられていないことがありえるからだ。そしてフッサールが学問的に重んじるのは原本的な本質直観=本質観取である。

    「本質」に与えられる区別は原本的か、そうでないかだけではない。たとえば犬は哺乳類であり、哺乳類もまた本質である。哺乳類は動物であり、動物もまた本質である。つまり本質にはこのような段階的な系列がある。またこの本質たちはそれを取り出したもともとの事象内容を含むものであるから、「質料的本質」であるといわれる。わたしたちはこれについての学問を打ち立てることもできるが、質料的諸本質の形式を捉えることもできるし、形式の形式を捉えることもできる。これは「形式的本質」とされる。質料的本質から形式的本質へと向かう本質直観は「形式化」と呼ばれ、一方、質料的本質を上方へと引き上げていく(犬→哺乳類→動物)本質直観を「類的普遍化」という。

 ところで、純粋体験という本質に向かう現象学的本質直観はどのようなものなのか。それはまず諸体験をもとにする以上、質料的本質である。ゆえに現象学は質料的本質学であるといえるが、質料的本質学にもいろいろ種類がある。たとえば植物学は感性的直観に与えられてくるものを範例として、「ギザギザ」「刻み目の入った」「レンズ型の」「散形花状の」といった類型的本質を直接に捉えようとする。これを「記述学」という。一方、幾何学も与えらえたものに基づきながらも、原理的にいかなる感性的直観にも見出されない立体とか平面とか点とか角とかいう「理念的本質」を確定し、これを用いて諸関係を演繹的に導出する。この本質直観を理念化と呼ぶ。これは一義的なものであり、植物学とはちがって精密なもので、自らの区域を隈なく広げていく「精密学」である。つまり質料的本質は類型的本質と理念的本質にわかれ、それに応じて本質直観も「端的な抽象による本質把握」と「理念化」にわける。このうえで記述学と精密学を区別するのだが、現象学は果たしてどちらに分類されるものだろうか。フッサールは言う。『現象学は、現象学的態度においてなされる、超越論的に純粋な諸体験の、記述的本質論であろうとする』。そもそもなにかを構成しているものを概念的に精密に確定することなどできようがないのだから、精密学の道筋などとりようがない。だが現象学は本質の系列を一層目を撫でるのではなく、徹底的に高めて、厳密に概念的に把握するのを目指す、という。