さあ物理学をはじめようと宣言して「まず慣性の法則だ」などと言われても意味がまったくわからない。力が何かまずわからないし、しかも、後になって「実は慣性系っていう特別な座標系の存在を主張してるんだよね」と囁いてくる。本当に学ばせる気があるのだろうか。
物理というのは物の理なのだから、むしろ、『物体』から話を始めるべきではないのか。たとえばこのボール。鉛筆。机。さしあたって、光などは物体といっていいかわからない。「物体を明確に定義しろ」と迫ってきて決して先に進もうとしない人は生物学だって取り組めないことになるだろう。このよくわからない物体について取り扱う。そしてその物体はそれぞれ固有の質量mを持っている(原理Ⅰ)。これは日常的な「重い」「軽い」としてよく知っている。物体の重さを測定するにはなにかの基準を決め、その基準の何個分かとして数値化される。実はこの質量というのは条件によってビュンビュン変わるものかもしれず、慎重にいくならば、m(t)という風に時間依存にすべきだろう。時間を決めたのだから、今度は物体が空間的にどこにあるのかを指定する。用意する箱はR^3である。これによって観測者の位置を原点において、物体の位置を相対的に決めることができる。
物体の位置というのはその物体についてのひとつの情報である。ボールが机の上に置かれているのはボールについての情報である。だから興味はあるのだが、位置はボールにとって本質的なものではない。また、野球ボールが野球ボールであるためには野球に適した縫い方や作りになっている必要があるだろうが、それは物理的に関心のあることではない。といっても、手に持っていたボールから徐々にそうしたものをはぎ取って単なる数学的な球になったとき「やりすぎた!」と気づくだろう。もはやそのボールは動くことがないからだ。物体は動く。
動くとはなにか。それは位置を変えることだ。
- なぜ動くのか。同時に、なぜ動かなくなるのか?
- どのように動くのか。同時に、どのように動かなくなるのか?