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にんじんと読む「リズムの哲学ノート(山崎正和)」🥕 第二章+第三章

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

第二章 リズムと持続

 従来の哲学によれば、感覚は人間が外界に触れる第一歩であって、経験論者はその信憑性を論証することによって、観念論者はそれを錯覚として否定することによって、思索を始めてきた。だがベルクソンは感覚与件の存在を否定も肯定もせず、ただ認識にとって原点となるより直接的な能力と与件はほかにあると主張したのだった。その能力が彼のいう直観や反省であるが、その与件が純粋持続であるかどうかがかりにうたがわしいとしても、この発想の転換の重要性は変わらない。

 さらに画期的なのは、ベルクソンがその直接与件を純粋な運動として捉えたことであって、運動する物体や運動の媒体と区別したことであった。運動する物体は感覚の与件だから、この区別は当然ともいえるが、純粋な運動が観念の産物ではなく現実に実在すると考えたのは、やはり革命的というべきだろう。

リズムの哲学ノート (単行本)

  これまでの哲学においては「まず感覚あり、そして次に……」といったように話を進めてきた。だがベルクソンという哲学者は「感覚よりもっと基本的なもの(それを受け取る能力も)があるでしょ」と主張した。つまりそれが流れであり、それを受け取る能力のことである。

 さらに画期的なのは、私たちにまず与えられるのが純粋な運動そのものであって、つまり運動する物体や運動の媒体とは関係ないとしたことだった。純粋な流れは観念ではなく、しっかり現実にあるんだぞと言ったのである。

 

第三章 リズムと身体

 身体というものを大きなリズムの中の一単位として捉えたとき、それが「今」「ここに」あるというのはおかしな話になる。リズムは本来いつどこにあるともいえないものだからだ。それが物理的時空に位置をもつということは、身体というものを伝える媒体の物質性に頼っているわけだ。身体を支える媒体たる物質の個体性が消えるとき、身体もまた消え去る。

 身体にとって、生理的肉体は水のようなものである

 流れにとって水は不可欠だ。しかし生理的肉体は時々刻々と変化し続けており、身体の「いま」「ここ」であるとかはもちろん、習慣や記憶なども、それだけで支え続けることなどできない。それらは身体というリズムのなかにある幅をもった一単位としてそこにあるのだ。

  •  だから「今」というのは絶えず広がりを変える。たとえば航海士にとって「今」とは日時と分単位で刻まれる時刻であるし、「ここ」とは経度と緯度で示される。ピアニストにとって「今」は一瞬間を争う時間幅であり、「ここ」というのは鍵盤上の数センチ幅の空間である。
  •  空間とはたんに開かれた可能性の場所ではなく、疲れをもたらす負担でもある。空間は疲労などによって大きさを変えていく。衰弱した老人の100メートルは、若者より長い。

 空間とは身体というリズムの内部にある

 そして逆に空間は身体をかたちづくる媒体でもある

 

 モーリス・メルロ=ポンティは身体を哲学上の主要な主題に据えた。彼の哲学を単純化していえば、

身体を生理的肉体から引き離すところから出発し、むしろ哲学的な意識の働く場所として捉えた点にあった。彼は当時の生理学と心理学の成果を徹底的に検証し批判したうえで、科学が扱う機械的な肉体とは別に、人間に独特な身体という機構(organisation)があることを主張した。

リズムの哲学ノート (単行本)

  すなわち、世界との関わりはまず身体からはじまる。われ思うでもなく、われ感ずでもなく、「われなし能う」=「われ為すことができる」である。身体は意識と同じように世界の対象にかかわる。身体は志向性をもつ

 これゆえ、外界を知覚する仕方は従来の哲学とはちがってくる。

 伝統的には「主体と客体のいずれに優位があるか」という風に議論されてきた(観念論vs経験論)。そして双方ともに共通の前提を有していた。つまり『知覚の与件が意識の向かい側にあって、細分された感覚刺戟の一群として現れ、それが何らかの仕方で統合されたときに認識が成立する』。

 しかし身体を基本としてみれば、もはや外界とは地続きになる。これまで「統合」の作用を求められていた主体もその役目を終え、いわば自動的に起こる現象になる。

  •  自動的に起こるとはどういう意味か。それは主体が能動的に「統合」を行わないという意味である。たとえば、人は花畑を歩くとき、まず花に気づくのではない。花の群れが最初にまとまった絵柄として向こうから飛び込んでくる。花に気づくのは目を凝らしてからである。『すべて見ることは見えることから始まり、人は見えたものだけを見ることができる』。
  •  この過程は完全に受動的なものである。
  •  だが、主体が不要なわけではない。なぜなら、そのように受け取る主体がいなければ世界はそのように現象しないのだから。主体と客体は地続きなのである。
  •  まとまった絵柄として現れてくる全体をゲシュタルトと呼ぼう。ゲシュタルトとは、部分を単に足し合わせたものではないという意味である。
  •  たとえば、ルビンの壺を考えてみよう。これが横顔に見えるか、壺に見えるか。それぞれの見方は最初与えられた全体においてどちらも成立する。
  •  ルビンの壺は図地反転図形の一例であるが、なにを「図」とし、なにを「地」とするかということも、受動的である。私たちは初めてルビンの壺をみたとき、どちらの側面を先に見るかはわからない。五分五分である。けれども、しばらくすると、誰に言われずとも、もう片方の側面が現れてくるのだ。

 人が花畑を歩いている。彼の目には全体が飛び込んでくる。彼は注意することによって、そこに咲く一輪の花を見るだろう。そのとき彼は花畑を「地」とし、一輪の花を「図」として浮かび上がらせている。なにを「図」とするかは、人によって異なるだろう。もし彼がなにかから逃げているのならば、一輪の花などは図として現象しない。ただ「地」のなかに埋もれるだけだ。

 人が畑を耕している。浮かび上がるのは土や鋤である。このとき、たとえば彼の身体は「地」として隠れている。だが体が疲れてくると、図地は交替し、今度は身体が浮かび上がってくる。しばらく休めば、また元に戻る。疲労と回復は完全に受動的な現象である。

今やわかったことは身体が生のリズムの一単位であって、その内部にさらに小さな拍節を含みながらも、むしろそれゆえに一層、求心的で完結性の高い単位を形成しているということである。

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