にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「生命と自由(斎藤慶典)」🥕 第一章③

基づけ関係による階層性

 基づけ関係は「こころ」と「もの」に対してだけではなく、広く成立する。たとえば「植物」と「物質」もそうである。たとえば二酸化炭素から酸素を作り出す物質変換過程は、物理的秩序だけからは説明できない。しかし一方で、植物的秩序を通じてこそ物質的秩序が姿を現わす。

 ところで一方、「こころ」もまたひとつの現象に過ぎない。このことは、「こころⅡ」とでもいうべき超越論的領野があることを示唆している。これがフッサールのいう超越論的主観性であるが、それは当然、心や意識といったようなものではなく「世界」と呼ぶにふさわしい場所である。これをスピノザは「神」とも呼んだ。彼にとって超越論的領野は見ることはできないがたしかな実体(モノ)だったのに対して、「超越論的領野」はものやこころがそのようなものとして現れる「場所」なのである。

 

 「世界」という場所のなかに「こころ」があり、そこに「有機的秩序」が現れる。そして有機的秩序は「無機的秩序」によって支えられている。これが『世界→こころ→有機的秩序→無機的秩序』という階層性である。

 物的次元を記述するためには心的次元における出来事の同定を行わなければならない。心的次元の出来事は物的に選び出され重ね描きされる。つまり心的次元を語ろうとすることはいかなる記述にも先立っていて「自由」なのである。もちろん予測することはできるし的中させることもしているのだが、現象がこころにおいて現れる以上、いかなる法則にも先行するという関係に変わりはない。次元が違う話なのだ。目の前にとんでもなく魅力的なものが現れても、それは行為を動機づけるものになりこそすれ、決定的なものにはなりえない。いつでも人はそれを斥けることができる。そんなことするか? という選択をすることができる。

 だがこの「自由」は決して証明されない。あらゆる記述に先立っているせいだ。自由にやった行為を、本当に自由だったのかと疑うことができる。なぜなら少なくとも部分的にはその意図は物的記述に書き直すことができることができるからだ。だが記述が常に後追いであるから、「自由」の可能性は消え失せない。この可能性を自らのものとして引き受けることで、私たちは自由でありうる。

 

 

 

にんじんと読む「生命と自由(斎藤慶典)」🥕 第一章②

デイヴィッドソンの非法則的一元論

 

 デイヴィッドソンは、こころとものの関係について「自由」を得る方法はないかと考えていた。これまで行われてきた多くの議論は以下の三つの原理からくみ上げられたものであると指摘する。

  1.  (因果的相互作用の原理)少なくともいくつかの心的出来事は、物的出来事と因果的に相互作用しあう。
  2.  (因果性の法則論的性格の原理)因果性が存在するところには法則が存在しなければならない。すなわち原因および結果として記述される出来事は、厳格な決定論的法則によって関連づけられている。
  3.  (心的なものの非法則性の原理)心的出来事を予測したり説明したりするための根拠となる厳格な決定論的法則は存在しない。

 つまり、(1)あなたの殴りたいという気持ちが握りこぶしを作らせる。(2)物事には原因があり、決定論的な法則がある。条件さえ整えば完璧にその法則に従って推移する。(3)厳格な決定論的法則に服するのは物的出来事だけ。注意すべきことは因果関係はあっても法則的関係はない場合がある、ということだろう。あなたが決心したからこそ握りこぶしができるのだが、そこに法則的関係はない。ただ「殴る決心」というのは「握りこぶしを作り、構える」とかそういう風に、物的にも記述されることはある。

 デイヴィドソンの議論はこの「物的にも」という点に疑問がある。彼は心的出来事と物的出来事が同一、つまり因果的に結びつけられたときに二つは翻訳可能であるという。これはたとえば心が物で説明できるとかそういう還元主義ではなく、二種類の異なる記述が同じ場を占めているという意味だ。これはペンですとThis is a penは同じだが日本語と英語で違うようなものだ。日本語と英語の文法で共通なものはない。

 だが心と物を翻訳関係で考えることはできない。そもそも、なぜその二つの記述が同じだといえるのか、保証することなどできないからだ。だからむしろ事情は真逆である。「決心」ということが””そのようなもの””として記述されたあとで、対応しそうな物理状態(たとえば脳状態)を選び出すのである

 したがって、そこで行われているのは心的出来事から出発しての物理記述への書き換えなのだ。日本語と英語のように、ふたつはまったく対等ではない。逆に、もし適当に「脳のしかじかの状態」を指定したとしよう。だがその状態が心的出来事とどこかで対応をもたないかぎり、そんな状態にはなんの価値もない。その状態が「コレ!」というものになるためには心的次元が関与していなければならない。私たちは原因不明の精神疾患について悩みその物的探求を行うことはある。あくまで、心的次元こそがすべての基準なのである。

 このことから見えてくるのは、心的出来事のうえに物的出来事を「重ね描き」するという関係である。心の上に物を重ねる。デイヴィッドソンの議論はこの点を捉え損なった。

 

 

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

  • 作者:古田徹也
  • 発売日: 2013/08/05
  • メディア: 単行本
 

 

にんじんと読む「生命と自由(斎藤慶典)」🥕 第一章①

 今回はこの本です。

 

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

  • 作者:斎藤 慶典
  • 発売日: 2014/06/24
  • メディア: 単行本
 

 

 

 何ものかに対して何ものかが何ものかとして現れること、即ち現象。

 これを「現実」を考える上での出発点に選んだこの本ですが、まず出発点が明確に据えられている点がとても刺激的です。というのも、すべての哲学理論にとって一番肝心な問題は、どこからはじめるか、であるからです。といっても、現象からはじめるということ自体はフッサール現象学そのままですが、たとえ『デカルト省察』を読むにしろ、哲学者の書く本にありがちな回りくどさと難解さのせいで、彼の出発点はわかりづらくなってしまっています。

 現われを受ける何ものかはふつう「自己」と呼ばれるものですが、これが極めて不安定な存在であることがよくわかります。というのも、自己という存在者もまた現象に過ぎないからです。しかし自己という存在者が現象するとき、そこにもやはり自己が背後に隠れている。そっちを見てみると、また背後に回ってしまう。そんな奇妙なものです。自己はふつうの意味で「何か」とは言えないものなのです。

 自己はまた、「こころ」とも呼ばれます。これが「もの」とどのようなかかわりを持つか、という伝統的な問題に対してこの本では『基つけ関係』というメルロ=ポンティによって定式化された術語を当てはめます。これは一方的なものではなく、双方向の関係です。たとえば植物というものはしかじかの物質によって成り立っている。けれどもその物質を全部かき集めても植物にはならない。そこにはたとえば二酸化炭素を酸素に変換するという、ふつう物質をかき集めただけでは説明のつかない物質的過程が生じています。植物は物質に基つけられていますが、さりとて、物質だけで説明し尽くされるものではないのです。これが、ココロとモノに対してもいうことができます。

 

第一章 脳と心

 私たちが直接的になにかを捉えることを直観といいます。カントが直観することを認めたのは感性、つまり五感でした。しかしフッサールは範疇的直観という概念を打ち立て、直観が感性的直観に限られないと主張しました。

 たとえば目の前で青々と茂っている芝生があるとします。カントによれば「芝生」「緑色」というものが感性によって把握されそれが繋ぎ合わされるのですが、フッサールによれば「芝生が緑色である」という事態をも、私たちは直接に捉えているはずだというのです。事態とは命題の形であらわすことができます。範疇的直観は感性的直観に支えられてはいますが、それよりも高次の秩序を形作っているのです。これが〈基づけ関係〉というものにつながりました。

〈基づけるもの〉としてはたらく項は、〈基づけられるもの〉が〈基づけるもの〉の一規定ないし一顕在態として現れるという意味では確かに最初のものであり、このことは〈基づけられるもの〉による〈基づけるもの〉の吸収を不可能にしている所以であるが、しかし〈基づけるもの〉は経験的な意味で最初のものだというわけではなく、〈基づけられるもの〉を通してこそ〈基づけるもの〉が姿を現わす以上、〈基づけられるもの〉は〈基づけるもの〉の単なる派生態であるわけではないのである。

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

  こころはものによって基づけられます。こころというものはたとえば脳という物的なものによって基づけられてはじめて存立することができます。しかしこころは脳以上の次元にあります。

 

リベットの実験

 

 皮膚をつまんだときの物理的刺激は脳に達するまでには最低でも0.5秒かかります。逆に言えば、0.5秒までは私たちはつままれたことに気づかないのです。つまり、私たちはいつも0.5秒ほど常に遅れて現実を受け取っているわけです。しかし、私たちはふだんそのような遅れを感じることなく、ふつうに生活しています。そこでリベットは皮膚刺戟を感じたときの「気づき」を被験者に報告させました。すると驚くことに、被験者は皮膚刺戟を0.5秒前に起こったものと感じていることがわかりました。意識の遅れを主観的に補正しているのです。

 私たちは意識してどうにかするのではなく、無意識で何かをやってしまうことがあります。先ほどまでの話はあくまで「意識する」「気づく」までの時間です。だからこんなことも起こります。

  •  車を運転していると子どもが飛び出してきた! ありがたいことに無意識が0.15秒でブレーキを踏みました。車は止まります。0.5秒後に気づきます。ブレーキを踏んだ時点では子どものことなんて気づいてはいないのに、「子どもが出てきたからブレーキを踏んだ」と報告できます。本当の順序はブレーキを踏み、子どもが出てきたことに気づいたのですが。

 そしてなんと、私たちが「よし、こうしよう」と決める場合にもこれが言えます。つまり、私たちが自分の意図を意識するのもちょっと遅れているのです。つまり、自発的過程は無意識のうちに起動している……。

 

 

 この実験結果を受けてリベットは結論します。:『自由意志がもしあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているわけではない』

 

 

 意識の役割といえば、無意識に起動した意図をブロックすることだ。そうリベットはいいます。しかしそれではどうも話がおかしいようです。なぜなら、拒否することを意図するためにも、時間がかかるのですから。とはいえ、リベットは拒否することについては時間差を認めません。その理由は簡単です。もしそうでないなら、人は自分の行動を制御できないということになってしまうから!

 そうとはいえ、拒否に時間差がない説明は必要です。そこでリベットが考えたのは「創発」でした。たとえば炭素原子や水素原子それら自体からC6H6のベンゼンの特性を導くことができないように、組み合わさることによって新たな次元が創り出されたと考えるのです。ここでいう「気づき」つまり、意識というものがまさにそれでした。このことを示すため、リベットは分離脳に着目します。分離脳とは右脳と左脳を完全に断ち切ってしまうことです。もしも右脳と左脳を断ち切ってしまったのに、二つの意識が成立せず、なおもひとつしか意識がないのならば創発した新たな次元を立証することができると考えたのです―――しかし、これは恐ろしく困難な実験であり、彼も提案しただけで議論を終えています。

 

 

 ですが、なぜリベットは「起動」に関しては自由を認めず、「停止」に関しては自由を認めたのでしょう。これは実に奇妙な議論です。そもそも、まず起動について考えましょう。行為意図に気づく前には無意識的過程が存在しています。そしておそらく、無意識的過程には脳内でなんらかの物的反応が対応しているでしょう。しかしその無意識的過程は、物理的なことを原因とするでしょうか?

 たとえば歩いているとする。進行方向にポールが現れる。私たちは右か左かに避ける。なぜかというと、そこにポールがあるからです。そのとき脳内ではなんらかの過程が生じているはずですが、それが生じれば、因果的に右に逸れることを必ず意図するわけではないはずです。ポールといっても無限にちかいほどの現れ方があります。私たちは脳に映し出される灰色のそれではなく、まさに「ポール」という言葉の意味に反応しているといえないでしょうか。これは物理的因果関係とは区別しなければなりません。

 意味に反応するとき、私たちはそれに気づいている必要はどこにもありません。そのことが逆に、私たちがその「意味」に気づき、ある行為の由来が自分以外にほかならないことを認めた時そこに「自由」が生じてきます。「自発性」はポールを避けるようにしてきますが、あなたの「自由」がそのままぶつかることを受け入れる選択肢を用意するのです。

リベットの議論で評価すべきは、何ごとかが意識に明示的に気づかれたときにはじめて、自由の成立する余地が生まれるとした点にある。

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

 

 

存在と時間 全4冊セット (岩波文庫)

存在と時間 全4冊セット (岩波文庫)

 

 

 

 

にんじんと読む「ストレス「善玉」論(中沢正夫)」🥕

今回読んだのはこの本です。

ストレス「善玉」論 (岩波現代文庫)

 

ストレス「善玉」論 (岩波現代文庫)

ストレス「善玉」論 (岩波現代文庫)

  • 作者:中沢 正夫
  • 発売日: 2008/02/15
  • メディア: 文庫
 

 

 社会というものは本当にわずらわしい。

 もし誰もいない山のなかで転んでも「イテテ」で済むのに、町で転んだら「恥ずかしい」。自分が縛られているのを非常に感じるし、どうでもいいと頭では思いながら、どうにもならないのがくやしい。日常的ににんじんたちをボコってくるのは社会ストレスである。もちろん、山でクマに出くわしたらストレスが大きすぎてそれだけで心臓が爆発しそうだが、どうも社会におけるストレスほどには悪い影響はなさそうだ。

 ストレスと聞いてまっさきに浮かぶのは社会で受けるストレスだ。対人関係のものだ。やはり胃腸にダメージがあるらしい。『胃腸ばかりではない。円形脱毛症、偏頭痛、過換気症候群(急に呼吸が深く早くなり、手足にしびれがでてくる状態)、発作性の頻脈、高血圧、肩こり、筋肉痛、不感症、めまい、頻尿、などなどあげればきりがない』(ストレス「善玉」論 (岩波現代文庫))。

 ストレスはたいてい、他者からの期待とプライドである。著者の中沢さんは『一切のストレスを回避すれば、それは楽であろうが、その人は成長もまたあきらめることになるのである』と書いている。新世紀エヴァンゲリオンの「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ……」をほうふつとさせるストレス善玉論だ。まぁ一理あるのはみんな認めるところではあるが、「ストレスに潰れたら成長はできないよ」と暗に言うことにもなり、ストレスに負けてはいけないと余計に思わせるのではないかという不安がある。ストレス反応は体の自然な反応で恥ずかしい(なさけない)ものではないのだが、受けたくて受けるストレスはないように、恥ずかしいと思いたくて恥ずかしがっているわけではない。

 

 もう少し逃げなければならないのではないか。少なくとも、逃げる準備はすべきではないか。結局「息抜き」「逃げ場」という退避がストレスに対して有効だとわかる。無論大切なことなら立ち向かう必要もあろうが、立ち向かうためのリフレッシュがいる――こんなところが結論だろうか。映画を見て別の空気を入れてみるとか。

 

 あんまり成功とかなんとか言わないでもいいんじゃないだろうか……、とにんじんは思うが、あまり社会適合的な考え方ではない。社会は私たちに争えと言っている。「席はこれだけしか空いてないよ」と囁いているようにも思える。ストレスは多種多様なので、たとえば嫌いな奴が職場にいるとか、そういうのだったら逃避するのはなんか悔しい。

 

  逃げてもいいんじゃないかな。

 

One Last Kiss (通常盤) (特典なし)

One Last Kiss (通常盤) (特典なし)

 

  

 

にんじんと読む「生まれてきたことが苦しいあなたに(大谷崇)」🥕 ③

「生まれたこと」から考える

 生まれてきてしまった。こういうとネガティブな感じがして性に合わなければ、ともかく生まれた。生まれている。このことは間違いない。そして私たちは自殺しようと思わない。いくら厭世的であろうが、生きたいと思っている。

 大事なことは、「(別に死んでもいいのに)生きたいと思っている」ということである。私たちは誰一人世界にとって特別ではなく、生きるのになんの目的も用意されてはいない。「なぜ生きなければならないのか、それはあなたが死なないからです」そして逆に、それこそが生きることのたったひとつの理由になっている。もしも外的に生きる目的などというものが与えられていたら、存在意義が与えられていたら、私たちはこう言われることになるだろう。「あなたは生きる目的をまだ10%しか達成していませんね……ダメ人間です。もう死んでください……」生きるのに目的がないからこそ、私たちは好きに生きることができる。

 

『生にはなんの意味もないという事実は生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる』告白と呪詛

 

 しかし生きていく以上、私たちには「苦しみ」が襲い掛かる。

 人生はむなしい。何をしても最後には死ぬからだ。病気に苦しみ、社会に苦しみ、そうして、そのような世界を変えることは決してできない。病気にかかったことがない人もいるかもしれない。でも嫌なことはたくさんあると思う。どうも人間は、他の動物と比べて、傷つきやすいように見える。

シオランは苦しみとは「距離の産出者」であると言っている。(『時間への失墜』114頁)。病気にかかっていないとき、苦しみが存在しないとき、私たちは周りの事物や世界にもなんの障害も感じず、事物や世界との連続性のなかに生きている。苦しみがこの連続性に亀裂を入れる。シオランが苦しみは私たちの存在の「原因」であるというのはこの意味においてだ。ひとたび亀裂が入れば、私たちは「意識」を持つようになる。「精神と世界の乖離」がそこで起こる。

生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想 (星海社新書)

  人間特有の苦悩は強い「意識」によって始まる。この意識のために、対象と一歩距離を取ることによって、私たちはいろいろなものを作り出してきた。私たちに確実なものとして迫るのはいつも苦しみのほうである。成功・勝利・達成はいつもどこか嘘くさい。成功者よりも敗北者のほうが複雑な人格を持ち、成功者は薄っぺらい。だからこそ、成功者は快活なのであるが。

 社会は私たちが生きる舞台となる。社会は自らの再生産のために私たちに何らかの役割を求める。行動せよと迫る。これを拒否しようとするのが「怠惰」であったが、はっきり言って怠惰のままでは生きてはいけない。結局、私たちは欲求しそれを達成しようと企図する。しかし、ここにも困難がある。

 

『本当に生きるということは、他者を拒絶することなのです。』歴史とユートピア)。

 

 この社会には多様な人間が住まっている。だから対立が生じる。対立の調整として社会はルールを作る。その枠内で競争させ、時には私たちを勝者に、時には私たちを敗者し、延々とそれを繰り返させる。この錯乱した世界で必要なのは悪徳だ。私たちは自らの意志の正しさを「確信し」、敵対感情を培養する。憎悪は私たちを強くする。自分の意志をはっきりと示さない中立的な態度などというものは私たちを弱くするだけだ。衰弱した人間は自らの正当性を押し付けてくる連中に潰される。

 人間の集まりである国家もそうだ。みんな同じ、人それぞれ、などと言っている国より、これが正しいんだこれをやれと言う核を持っているほうが強い。自由にさせると、人間は自分自身と向き合う以外やることがなくなる。だがそれなりにやれているので、誰も本当には向き合わない。仕事が嫌だといいながら無職にならないように。何かを信じることをためらうことは、希望さえ遠ざける。ユートピアが消えることは、進むべき方向を見失うことだ。

 望まれるアポカリプス。絶望的でむなしさを感じている彼らの最後の手段は「終末」である。「隕石でも落ちて来てめちゃくちゃになってくれねえかな~」というにんじんのタイムラインでよく聞く嘆きはその種のものだろう。人は自由に疲れ、誰かに命令されたくなる。Amazonでおすすめを表示されるほうが楽になる。思う存分検討などしたくない。鬱陶しいからだ。無気力になった人間たちはそのような態度で自由を謳歌するようになる。

 

 

自由な社会とは、必ず一定量の他者に対する無関心を必要とする。

生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想 (星海社新書)

 

 これがいいよ、と強要し支配しようとしてくるやつがたくさんの社会に自由はない。自由な社会における政治は自らの党の考え方を強制しようとはしない。別の考え方がいてもけっこうですと言う。政治は信念を失い腐敗しているが、そうでなければ声をあげる自由もない。

 

 

 衰弱すれば寛容になれるが成功はしない。成功したければ悪徳を発揮しろ。

 

 人生はむなしい。

 

  釈迦が追い求めた「悟り」は、自我を捨てること、すなわち何かを欲求することを捨て、何かを欲求しないように欲求することをも捨てる。だがシオランはこの解脱が、人間にはほぼ不可能だと言う。人は苦痛を求めてしまう。苦痛を憎んでいたはずなのに、憎んでいる自分に執着する。「私はこんなにも厭世家です」と言ってしまうのである。

 

絶望のきわみで〈新装版〉

絶望のきわみで〈新装版〉

 

 

にんじんと読む「生まれてきたことが苦しいあなたに(大谷崇)」🥕 ②

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

自殺

 厭世主義者はもっとも受ける批判が「自殺しないの?」だろう。

 しかし当たり前だが、「生まれなきゃよかった」からといって「自殺しなければならない」は帰結しない。とはいえ、彼らが漠然と自殺に惹かれているのはたしかだ。なぜかというと、自殺したらそれでもう終わりだから。人生が即座に終了し、二度と行為することもない。二度と苦しむこともない。

 また、次のことも確認しよう。「自殺したい」からといって「死んだら無だ」を信じているわけではない場合もあり得る。簡単な話で、「あぁ現世キッツ……死のう……」という場合だ。だが、「死んだら無だ」と合わさったとき、自殺はペシミストにとってパーフェクトプランになる。人生からの解放だ。

 ここで注意しなければならないのは「自殺が解放」であって「死が解放」ではない点である。シオランも、自殺については解放を認めていても、死については認めていない。死が必ずしも解放ではなく残酷なものでありうる、というのは私たちにとって非常に身近な感覚であると思う。特に成功者などはそうだろう。どれだけ積み重ねても死んだら終わり。この残酷さ。

 だが、生まれなきゃよかった人間たちにとって、死は生まれないことに次いで良いものである。永遠の命が最悪なのは言うまでもない。自殺というものが優れているのは、自分の意志だけで一切を無にしてやるという、絶対的な権力を持っているからだ。これが私たちに「解放」の感覚を与える。シオランにとって自殺は世界に対する抵抗であり、不条理に対する反逆であり、報復である。

 それに自殺という考えは、それだけで私たちに癒しをもたらす。それはあとの人生が余生になるからだ。生誕もいつの間にか来た、死もいつの間にか来る。私たちは生存を真面目なものとみなさないことによってお気楽に過ごすことができる。シオラン『人生は自殺の遅延だと考えている』と言った。自殺の考えは、人生から自由に生きる確かな綱だ。

 

私は生きているが、たまたま自殺していないだけにすぎない。

生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想 (星海社新書)

 L・Bは、いつも引退のことを考え、充分な生活費があるかどうかといったようなことをあれこれ考えている。そこで私は彼に、そんな先のことまで考える必要はないよ、まあ、せいぜい一年を想定して、自分の生活の予定を立てるべきで、絶えず将来のことを考えて気をもんだりせず、将来のことなど放っておくべきだよと言う。[中略]一番いいのは、あんまり気をもまないこと、そして窮地におちいったときにそなえて、多少とも〈みごとな〉自殺の可能性を考えておくことだよと。

カイエ: 1957-1972

 

 「生まれて来なきゃよかった派」の人々からはいつも、「でも死にたくない」という生存の欲求を感じる。「苦しいから」というのはよく聞くが、自殺を遅延させるほうが苦しい目に遭うかもしれないではないか。安楽死が制度化されたとしても、にんじんはみんな(特にいつも死にたいといってる層)ほとんど利用しないのではないかと考えている。ほんの小さななにかが、自殺を踏みとどまらせているのだ。

 自殺はいけないことだ、とは思わない。自殺者が増えたのが問題なのは、「本当は生きたかったのに」がつくとみんなが考えるからだ。だがユートピアを実現しても、自殺者は出るだろう。まぁユートピアなど実現しないので、仮にそういうものがあるとしたときに、それを受け入れる準備が、誰かできているのだろうか。自殺の問題を考えなければならないワケは、そういう部分にあるだろうと思う。

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com