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にんじんと読む「生命と自由(斎藤慶典)」🥕 第一章②

デイヴィッドソンの非法則的一元論

 

 デイヴィッドソンは、こころとものの関係について「自由」を得る方法はないかと考えていた。これまで行われてきた多くの議論は以下の三つの原理からくみ上げられたものであると指摘する。

  1.  (因果的相互作用の原理)少なくともいくつかの心的出来事は、物的出来事と因果的に相互作用しあう。
  2.  (因果性の法則論的性格の原理)因果性が存在するところには法則が存在しなければならない。すなわち原因および結果として記述される出来事は、厳格な決定論的法則によって関連づけられている。
  3.  (心的なものの非法則性の原理)心的出来事を予測したり説明したりするための根拠となる厳格な決定論的法則は存在しない。

 つまり、(1)あなたの殴りたいという気持ちが握りこぶしを作らせる。(2)物事には原因があり、決定論的な法則がある。条件さえ整えば完璧にその法則に従って推移する。(3)厳格な決定論的法則に服するのは物的出来事だけ。注意すべきことは因果関係はあっても法則的関係はない場合がある、ということだろう。あなたが決心したからこそ握りこぶしができるのだが、そこに法則的関係はない。ただ「殴る決心」というのは「握りこぶしを作り、構える」とかそういう風に、物的にも記述されることはある。

 デイヴィドソンの議論はこの「物的にも」という点に疑問がある。彼は心的出来事と物的出来事が同一、つまり因果的に結びつけられたときに二つは翻訳可能であるという。これはたとえば心が物で説明できるとかそういう還元主義ではなく、二種類の異なる記述が同じ場を占めているという意味だ。これはペンですとThis is a penは同じだが日本語と英語で違うようなものだ。日本語と英語の文法で共通なものはない。

 だが心と物を翻訳関係で考えることはできない。そもそも、なぜその二つの記述が同じだといえるのか、保証することなどできないからだ。だからむしろ事情は真逆である。「決心」ということが””そのようなもの””として記述されたあとで、対応しそうな物理状態(たとえば脳状態)を選び出すのである

 したがって、そこで行われているのは心的出来事から出発しての物理記述への書き換えなのだ。日本語と英語のように、ふたつはまったく対等ではない。逆に、もし適当に「脳のしかじかの状態」を指定したとしよう。だがその状態が心的出来事とどこかで対応をもたないかぎり、そんな状態にはなんの価値もない。その状態が「コレ!」というものになるためには心的次元が関与していなければならない。私たちは原因不明の精神疾患について悩みその物的探求を行うことはある。あくまで、心的次元こそがすべての基準なのである。

 このことから見えてくるのは、心的出来事のうえに物的出来事を「重ね描き」するという関係である。心の上に物を重ねる。デイヴィッドソンの議論はこの点を捉え損なった。

 

 

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

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