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にんじんと読む「生まれてきたことが苦しいあなたに(大谷崇)」🥕 ①

 今回読んだ本はこちら。

 

生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想 (星海社新書)

 

 残念! 生まれてきてしまいました!

 

 まずこれが基本的な前提となる。というか、これを共有していない人はペシミストたるシオランの思想にあまり触れたいと思わないだろう。ペシミストとは厭世主義者であり、この世界を「マジで最悪」あるいは「生まれなきゃよかった」と思っている人間である。反出生主義とも親和性が高く、実際、シオランは子どもを作ることの害悪についてたびたび書いている。

 生まれてきた以上、親がいるわけだ。反出生主義者でなくても、ペシミストである以上は親に向かって「なんで産んだの?」と文句を言うことになる。ふつうに考えて、(一応良好といっていい家庭環境なら)親に泣かれてしまう。しかし、誰でも一度は考えたことがあるのではないか。人間関係のいざこざときたら面倒なことこの上ないし、病気して苦しいし、何をやってもどうせ死ぬし……。一応気持ちいいことは思いつくのだが一過性のもので、人生のうち2:8か1:9ぐらいしかいいことがない。

 誰でも一度は考えてしまうことだ、というつもりでいま話をしているのだが、世の中にはそんなこと考えたこともないという人もいるらしい。このあたりも厭世的になる事情のひとつである。

 

怠惰と疲労

 さて、本に沿っていこう。

一般に人間は労働過剰であって、この上さらに人間であり続けることなど不可能だ。労働、すなわち人間が快楽に変えた呪詛。もっぱら労働への愛のために全力をあげて働き、つまらぬ成果しかもたらさぬ努力に喜びを見出し、絶えざる労苦によってしか自己実現はできぬと考える――これは理解に苦しむ言語道断のことだ。『絶望のきわみで』

絶望のきわみで〈新装版〉

「ああ、また一日が始まった、またこの日に耐え、この日を終えなければならないのか」と考えねばならない苦しみにまさる苦しみはないでしょう。

シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)

 シオランは「労働拒否」「怠惰礼賛」をする。怠惰とは行為を拒否することだ。生まれなきゃよかったと思う人間にとって、そもそも毎朝の覚醒ほどダルいことはない。何もしたくない。””たとえ自己実現のためのやりがいのある仕事””であったとしても、そんなことはやりたくないのである。生活のためにやる労働など嫌に決まってる。行為自体したくない。

 怠惰は開始することの拒否であり、自らの存在の重荷を引き受けることへの拒否である。朝起きて顔を洗い何かをする。人は何かとして存在する。それが嫌だ。だが社会がそれを許さない。社会は怠惰に厳しい。

 

『世間の人は、あらゆる行為から解放された精神に対してより、人殺しに対するほうが寛大である』E.M.シオラン選集〈1〉崩壊概論 (1975年)

 

 なぜなら人殺しは「動機をもち、計画し、実行する」という他の活動と共通のものを持っているから。しかし怠惰な人間はそんなことを考えるのすら億劫なので、ムカつくやつを殺すよりはベッドにいるほうを選ぶ。人々は人殺しのほうを理解するが、怠惰な人間を理解することが出来ない。

 怠惰な人間は泥棒や人殺しなど絶対にしない。なぜって、めんどうくさいからだ。怠惰な人間にとって、努力したり、計画したり、ベストを尽くしたり、何かを実現したりするのはめんどうくさい。むしろなんでこれらが美徳として扱われているのだろう。怠惰は『あらゆる美徳より高貴な悪徳』だとシオランは言っている。

 私たちのいる社会は、何よりもまず自らを維持することを求める。社会はその再生産のために私たちに何らかの役割を押し付ける。社会からすると怠惰なやつは最悪で、何の役にも立たない。だがその社会ときたら、みなが生きることを人質にされ逃げることもできず、誰かが支配者・誰かが奴隷になるような、そして、みんなが一生懸命に奴隷と暴君を交替しあう錯乱した世界である。怠惰は参加しないことを選ぶ。社会はいつもなにか行動するように促し、私たちも「これをやろう!」と言われたら何かをやることばかり考えてしまう。しかし怠惰な人間は困難な問題に直面するとベッドに入る。そして待つ。怠惰な人間は「行動が至上である」という前提を持ってはいない。実際、余計なことをするやつは大抵やる気がある。「この世に生まれた以上なにかしないといけない」と考える。「何か生産しないと」と考える。本当にそうか?

 

『私たちの屈従は、すべて、飢え死にするだけの決心ができないことから由来する』

E.M.シオラン選集〈1〉崩壊概論 (1975年)

 

 私たちは飢え死にしないために、悪を生む行為を開始し、災厄をこしらえ続ける。このむなしさと来たら!

 残念なことに私たちは到底死ぬ気にはなれない。行為の拒否は呼吸することも含むが、まさかそんなレベルで怠惰でありたいわけではない。だが呼吸するためにはエネルギーが必要であり、エネルギーのためにはある程度妥協しなければならない。生きている以上、退屈してくる。退屈には気晴らしが必要だ。幻影がなければ人は生きることもできない。

 

 

生誕の災厄

生誕の災厄