にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

教育について(リライト)

2018年10月25日の記事。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

表題の夢の話はどうでもいい内容なので割愛。

 

 教職というのは、教育するという仕事のことであって、とりわけ義務教育・高等教育のことをさす。大学で社会学の先生が語ったことは今でもはっきりとぼくの頭のなかに残っている。

「特定地区にいる同年齢の人を無作為に選んでクラスという共同体を作り出しこれから秩序を守って一緒に生活せよと指示するのは一種の暴力だ」

 まさしくそう思う。これに対していわゆる教職志望の面々から非難ごうごう。ぼくは単に食い扶持を確保しようというつもりで免許取得を目指したふまじめな学生であったため、彼らの感覚にはついていけないことが多かった。誰もかれもが学校という組織に対して肯定的で、なるほど、教師になりたいというだけの思想の持ち主だと感心した。なかにはいじめを受けていたという経験を持つものまでいて、いったい彼のどこに、学校への信頼が生れるのか理解できなかった。いじめに対して、学校は何の役にも立たないではなかったのではないのか? あの場で行われていることは徹底的な「社会化」にしか見えない。もちろん道徳的な価値も教えてくれるが、深い挫折や潜在的な社会階層まで教えてくれる。

  •  ぼくは基本的には学校という場所に否定的である。この点はまったく変わらないし、おそらく、終生変わることはないだろう。だが嫌な奴にもいいところがある以上には、学校にもいいところがある(はずだ)。ゆえに学校というものを仮に自分の子ども(いない)が利用する前には、いったいどのような目的でこの制度を積極的に利用するのであるかを検討しておかなければならない。
  •  自分が子どもにとって教師たりうるか、教えるということはなんであるか、という考え方や哲学が、学校というものの理解も変えるだろう。現時点で、ぼくには教育に関してこれといってなんの考えもない。これを社会化と言い換えてみたところで、学校を指していうほどには、意味は明確ではないだろう。
  •  ただ、少なくとも子どもに一定の理解が得られるまでは、「理屈」などによって教えるということが可能になるとは思えない。その意味で、発達段階に応じて教えるということにも区分があると考える。怒鳴ったり叩いたりすることも、学者が御大層にやっちゃだめだと言うほどには、いけないことだとは思えない。
  •  教えることは自分の子どもに対してだけにあるものではない。友達に対してもそういうことはある。このとき、教える者と教えられる者には上下関係があるだろう。友達という関係ならば、教えたあとにこの上下を適切にケアする必要がある。『関係』の中で教えるということがあるという意味で、教える者は教えられる者に縛られている。

 

適応について(リライト)

2018年10月8日の記事

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

【要約】

 アニメ『SHIROBAKO』は、やりたいことを仕事にした子たちの苦労と成長の物語である。夢に生きるその様子は本当にうらやましいが、苦労している身近な友達の例もあわせて、絶対に代わりたくない。なんだかんだといいつつ、自分の現在の状況は、今の環境において可能な限りで自分の理想を反映したものなのである。

 

 自分の現在のライフスタイルが最適地だというのはぼくが変わりなく持ち続けている思想のようだ。ただし勘違いしてもらいたくないのは、「選んでそうなった」わけでも、「固定された場所」でもないということだろう。

  •  ぼくは選択ということをあまり重んじない。それは一個の条件である。それは複数の変数のうちのひとつにすぎない。
  •  状況は日々移り変わる。肉体は滅びつつある。この世は無常であると教える仏教は、少なくともその点では徹底的に正しかった。なにひとつたしかなものがないなかで、たしかなものを求めようという原動力は恐怖である。それは神かもしれない。哲学かもしれない。科学かもしれない。いずれにせよ、私たちは恐怖に常に突き動かされている。脅威が去れば安心する動物たちとはちがって、人間はいつも必要以上に心配している。
  •  ライフスタイルだなんていうと、いかにも自分で選択するもののように感じられる。それは「スタイル」だからだ。ライフスタイルだなんていうと、いかにも形の定まったもののように感じられる。それは「スタイル」だからだ。これをもっと適切にいうなら「適応」だろう。私たちは状況に適応する。話はそれで終わる。
  •  状況だけ取り出せば、適応にはいろいろな可能性が考えられる。単に適当するだけなので、勝ち負けはない。勝ち負けを決めるためにはルールが必要になる。社会も環境の、つまり適応されるもののひとつである。ルールは合意のうえで、あるいは暗黙のうちに、内面化されていることがある。それは「勝つ」ことによって有利になったり、「負ける」ことによって不利になることによって強化される。だがその価値が有効なのは、その利が、そもそも生きる条件がそれぞれ違う各々にとって価値を持つ場合だけである。

 

 

文章について(リライト)

2018年10月2日の記事。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

【要約】

たまに見かける読みにくい文。

出版社から出ていて複数人の目が通っているのに、文を整えていないのはなぜ?

無駄に長く書くことの素地は、学校の読書感想文や、社会で求められるいろいろな書類からも見てとれる。

 

 四年経ったいまでもおおまかな内容は納得できる。とはいえ、それを伝える自分の文章はいま読んでみて幼稚だなと思う。なんとか読者に振り向いてもらおうとしている。子どものようだ。

  •  今はそれほど神経質でない。というのも、多少ごたごたした文であろうが、著者にとってそう表現するのが自然だっただろうからだ。たとえば、「そうでないということはない」と「そうである」ことが同じ意味だが文字数が少ないので後者に書き直せ、というのは暴論だろう。まずそもそもこの二つは同じ意味(=言いたいこと)ではない。「好きです」と「好きでないことはないです」と言われるのとで同じ意味だという人はいないはずだ。もちろん同じつもりで口にする変わり者もいるだろうが、一般的には言い方が異なればニュアンスが異なるものだ。
  •  そうとはいえ、どうでもいいところで小難しくしている場合もあるだろう。読ませる気があるのかと思うことすらある。しかしそもそもそういう本は途中で捨てるので、続きは読まない。どれだけありがたいことが書いてあろうが、少なくとも今の自分には必要ないだろう。そしてたいていの場合、必要になることはほとんどない。
  •  文章を読むことで得られるものは、ジャンルに応じていろいろある。何も得られないのに長々とした文章を読むほど、ぼくは活字中毒ではない。もしツイッターで400字を延々と繋げて同じ話をしている人がいたら、よっぽど興味がない限り読まないだろう――人は感動だとか知識だとかなんだとかを得るために文章を読むのである。文章は道具だ。
  •  感動は動機付けやら気晴らしやらなんやらになり、知識は必要を満たす。知識は増大する。気晴らしは退屈を忘れる。人は知識を増大させるために本をたくさん読もうとする。気晴らしは自然、遅読になる。

 

 

 

幻想

2022.08.13記

 幻想のうち、もっとも根源的なものは進歩である。
 しかし、いつまでもは歩けない。だからできるだけはっきりとした目的地を探索しようとする。これを幸福とか、聖者とかいう。だがそれは幻想の上に成り立つ妄想にすぎない。妄想だからはっきりとした輪郭を持たない。あれこそはと目指した先にたどり着き、ぐるりとまわりを見てみると、向こうのほうに今此処よりも豊かそうなオアシスが見える。それはたしかになんらかの場所であるし蜃気楼とは違うのであるが、オアシスという各々の判断に限っては間違いなく蜃気楼なのである。われわれはそこに歩き出し、たどり着き、また同じことを繰り返す――ああ、向こうのほうからこちらを目指してやって来る一団が見える。

 

にんじんと読む「怒りの心理学」

過去記事のまとめ

 

 

第一章 怒りの理論

 基本感情: 驚き・喜び・恐れ・嫌悪・悲しみ・怒り

 これを4つの側面から眺め、その定義を検討する。:「認知」「生理」「進化」「社会」。怒りは単に血圧が上がるとか呼吸数が上がるとかいう生理的・身体的変化だけではなく、故意性や不当性の認知と関連する感情である。私たちが怒るのはそれによって自然淘汰上の有利さを獲得してきたからであり、防衛上の機能を持つ。それは自己防衛の準備である。そして怒ることには社会的な意味があり、自分の住む社会や文化において形成されている。つまり何に怒りを感じるか、それをどう認知するかの背景であり、怒るとはそれが脅かされていると感じている、そして秩序を取り戻そうとしているということでもある。

【定義】

怒りとは、自己もしくは社会への、不当なもしくは故意によると認知される、物理的もしくは心理的な侵害に対する、自己防衛もしくは社会維持のために喚起された、心身の準備状態である。

 怒りによってただちに攻撃行動を意味するわけではないし、それによってとりうる行動は他にも数多く存在する(交渉・相談・忘却・逃避…)。怒ってもいないのに手段として攻撃行動を用い相手を傷つけることが最終的な目的ではない場合、「道具的攻撃」と呼び、相手が憎くて傷つけることを「敵意的攻撃」と呼ぶ。だからもちろん、怒りながら道具的攻撃を行うこともできる。たとえばバスの列に割り込んできた人に怒って注意する人は、別にその人自体を攻撃している訳ではなく別の目的がある。

 怒り自体に性差はなく、怒りの表出には性差がみられる。男は女に比べて身体的攻撃が多い一方、女は男に比べて関係性攻撃(心理的あるいは社会的損害を生む攻撃)が多い。

 

第二章 怒りの認知

 人が怒りを感じるときには「被害にあった感覚」と「責任が相手にあるという感覚」が必要である。嫌な思いをしたんだぞ・大切なものだったのに&お前がやったんだ・避けることができたはずだ……という下位要素をそれぞれ含む。責任というものの捉え方は人それぞれであり、被害や責任性を感じやすいことで知られるパラノイド認知とは、他者の言動の背後に悪意や敵意を推測する傾向のことをいう。こうした性格傾向を持つと、当然、怒りを感じやすい。一方、私たちの怒りの多くは、被害感とか責任感とかそういった判断によって起こるというよりも、衝動的なものであることも事実である。判断か衝動かといった問題は議論されているが、両方のプロセスがつねに同時進行的に関わっていると考えるのが適切だろう。

 怒りを感じることがそのままその表出に至るわけではない。怒り表出の積極性には「自己効力」と「結果予期」と「反応評価」が挙げられる。自己効力とは、行動を首尾よく遂行できる信念で、結果予期は行動後に何が起きるかについての予期、反応評価とはそれが良い反応か悪い反応かという評価軸であり他の条件が同じなら人は良いとされる行動をとるとされる。当たり前のように、結果がよければその行動は促される。自己効力が高いと首尾よく行動がやり遂げられるのでより確実にその結果が起こることになるので、ネガティブな結果を予期している場合は、行動が抑制される。逆に自己効力が低いと結果のネガティビティは抑制材料にならない。

 また、ふつう怒りをぶつけるというのは悪い反応だと評価されるのだが、これが正当化される場合もある。誰が何といおうが怒って当然だと思う場合もあれば、怒るのも当然だよというスジの通ったものもあろう。また、「激情神話」といって、怒りを制御不可能で受動的なものととらえる社会信念がある場合は、怒って、それを表出することは当然とされる。

  •  以上のことから「自己効力が高く、結果予期をポジティブに捉えるやつ」「自己愛傾向が強く、自分の怒りを正当と評価しやすいやつ」はキレやすい。

※ 本ではキレやすいと書いているが、「怒りやすい」という感じがする。上のふたつの例はもちろん深刻なケースも含むだろうが、「何をやってんだよ」とか「ちゃんとやれよ」とかそういう””軽い””表出の場合でよく納得できる。にんじん的には……。

※「パワーがないと怒れない」という研究は、よくわかる。注意すべきだと思うのは、ここでいう自己効力というのが行動遂行信念のことで、いわゆる「自信」とは異なるということである。文句や注意を口にすることぐらい自信がなかろうが可能である。

 怒りを表出しない場合がほとんどだが、怒りの表出を我慢するのは苦痛である。その収め方としては「被害・責任の再評価」を行い、加害者に怒る必要がないとみなおすなどがある。

※ 抑え込まれて抑え込まれて、遂に爆発するのを「キレる」と言う感じなのだが、それはどう説明されるのだろう?

 

第三章 怒りの表出

 怒りに伴う反応には2種類ある。生理的兆候を含む「表出的反応」と「道具的反応」である。前者は顔が赤らんだり声が震えたりするもので、後者は社会化の程度を反映したものでコントロールの余地が大きい。道具的反応は4群に大別される(Averill)。

  1.  直接的攻撃行動群 ボコる 言語的攻撃 利益停止
  2.  間接的攻撃行動群 告げ口 宝物クラッシュ
  3.  攻撃転化行動群 八つ当たり
  4.  非攻撃行動群 話し合い 相談 心を静める

 日本人は怒りの表出を抑制するところがある。その怒り表出を分類したところ、大きく7種類に分けられる。感情的攻撃・嫌み・表情口調・無視・遠まわし・理性的説得・いつもどおり(気にしてないふり)。最初の二つは言語的な攻撃にあたり、無視は利益停止に該当するだろう。表情口調も怒りの表現も含む言語的攻撃とみてよいだろうし、理性的説得やいつもどおりは非攻撃行動と呼べよう。ただひとつ、「遠回し」(自分が怒っていることをさりげなく伝える。「なんでそういうことする?」)だけはどこにも当てはまらず、日本人の怒り表出の重要な側面である。怒り表出を怒らせた側に対する行動という点に縛られずに考えると、「捉え方を変える」とか「先手を打って対応する」「やり返す」「第三者へ訴える」というさまざまな対処があり得る。

 7種のうち最も用いられやすいのは「遠まわし」「表情・口調」「いつもどおり」である。一方で最も適切だと考えられているのは「理性的説得」だった。「遠まわし」がそれに続く。

 日本人は基本的に抑制的であるが、これは対人関係を配慮したものである。しかし怒り表出の意義についても検討しなければならないだろう。意義には集団に関わるものもあるが、ここではまず個人について見よう。怒り表出がないということ自体が否定的な結果をもたらすこともある。「否定的な言動を抑制されている」ということ自体が不満のひとつになりうるし、そうであれば、怒りを感じているであろうときに怒りを表出させないのは受け手にむしろ不信感を与えることとなるだろう。肯定的な意義としては、怒りが自分の権限範囲が侵害されていることを示す警告になったり、怒ることが関係を強化するということもある。

 

第四章 怒りの鎮静化

 怒りの鎮静化プロセスを三段階に分け、それぞれの段階で「感情」「認知」「行動」がどうなっていくのかを見てみよう。

 まず第一段階においては、怒りはもちろん強く、怒りを肥大化させる考えであり、人や物にそれをぶつけようとする。怒りを感じるのと同時に悲しみや落ち込みを感じるのは不思議なようでいて、実は怒りと落ち込みは同じような状況で感じられやすいことがわかっている。第二段階では、怒りが中程度に和らぎ出し、客観的に物事を見ることができ、行動としても誰かに話したり社会的共有が見られる。第三段階ではさらに時間が経過し、怒りは弱く、その経験自体を過去のことや解決したことと捉えるようになる。ただ怒りが完全に消えたわけではなく、誰かに怒りの経験の話をすることが多い。

  •  第一段階が最も凶暴で、怒り感情自体が余計に自分を怒らせるような考え方を増幅させている。そこで抑制要因として働いているのは、人間関係への配慮や自己像・損得・規範などである。だから第一段階において重要なのは、「自分の怒りへの注目」だといえる。怒りを意識すると増幅して、抑制要因を越えると攻撃行動に出たりするのだから、まずは注意を逸らすことが肝心なのだ。たとえば本を読んだり、運動したり、別のことに集中するのがよい。
  •  第二段階においては、怒りの経験を認知的に再評価することが鍵となる。つまり第一段階と異なり、冷静に経験と向かい合うことが大事なのだ。
  •  第三段階ではくすぶっている火を完全に消し去ることが肝要となる。その方法は人に話すなどの社会的共有や、筆記による開示などがある。

 

第五章 怒りの健康への影響

 人間の健康を害するとされる感情には「怒り」と「不安」がある。怒りの持続は自律神経系に影響し副交感神経系の活動を鈍らせ心臓病につながったり、逆に、怒りの抑制は免疫系に影響を与え心臓病に繋がるという結果がある。怒りの表現スタイルとしてあまり表に出さない性格傾向と癌との関連や、慢性の痛みと怒りの表現スタイルの関連なども指摘されている。ただ、これらの健康状態に怒りが与える影響はものすごく小さいのではないかともされており、決着を見ていない。

第六章 怒りのコントロール

 怒りは出し過ぎても我慢しすぎても良くない。そこでコントロールが必要になるわけだが、このコントロールの目標としては二段階想定される。まず第一に行動面のコントール、第二に認知面のコントールである。このそれぞれに対応するのが「リラクセーション」と「自己教示」である。前者は怒りの鎮静化、後者は怒りのメカニズムを理解し、冷静な対処を促す。短期的にみれば、行動面からは怒りの対象から目をそむける「気晴らし」や、何もしないことを決め込むのが有効であるが、根本的な解決には結びつかない。

 

 

 

 

 

 

にんじんと読む論文「フッサールにおける本質認識とアプリオリ性」 アプリオリについてのカント的な考え方

cir.nii.ac.jp

アプリオリについてのカント的な考え方

 カントのいう「アプリオリ」という概念は、認識論的な概念であり知り方を特徴づけるものである。だからある命題がアプリオリであるというのは「その命題はアプリオリに認識される」の省略形として理解されなければならない。このアプリオリな認識とは「端的にあらゆる経験に依存せず生じるような認識」と定義されるが、当たり前のように、いかなる経験もしたことがない者でも持つことができるとは言っていない。

 それどころかカントは、なんらかの認識をもつことができるためにはなんらかの経験をもっている必要がある、と考えている(『我々のあらゆる認識が経験でもって始まるということには全く疑いの余地がない』)。さらに、アプリオリな命題といえども、そこに含まれる概念が経験を通じてのみ獲得されうるようなものであってよい、とも認めている。ここでカントが経験に認めているのは、我々に概念を獲得させることでそれを含む概念を理解できるようにするという役割=「能力付与的な役割」である。

 ではアプリオリな認識とは、どのような意味で経験に依存しないのか。カントは『だからといって、我々のあらゆる認識が経験から生じるわけではない』と続けるが、このこにおいて彼は経験というものの「正当化的な役割」に触れており、アプリオリな認識とはつまり正当化的な役割に関して経験に依存しないような認識だということである。どのようにすることが正当化になっているのかはひとつの問題だが、いずれにせよ、そうした正当化が経験に依存するならばアプリオリな認識とはいえないのである。

カントの功績は、この「経験へのある意味での非依存性」とはどのような意味での非依存性なのか、という問いにかかわるある重要な区別を示唆した点にある。

フッサールにおける本質認識とそのアプリオリ性 | CiNii Research

おわりに

 デカルトとロックにおける生得的な観念についての対立を以前見た。そこにおいてどうやら生得観念というものは「対象」としてはありそうもなく、しかし、観念を得るための「能力」といったものはありそうだと確認した。だがそこで指摘されたのは、経験だけだと認識がすべてアポステリオリになるのではないか、ということだった。

『観念は経験からしかできないとすると,アプリオリな知識はロックには認められないということになってしまう』

 だがもはやこの点は心配しなくてもよい。経験は能力を付与するだけであって、正当化に関して経験に依存していなければアプリオリな認識がありうるのである。