存在に対する誤解
「存在の意味とはなにか」という問いは、アリストテレスなどの哲学者以来、まったく問われることがなかった。
その理由は、存在というものが最も普遍的な概念であると考えられたことによる。
たとえば、人間は動物である。このとき、人間を種、動物を類と呼ぶ。動物は生物である。このときは、動物が種であり、生物が類となる。……このような類の系列の頂点に置かれるという意味で、存在は普遍的な概念だと言われているのである。
この誤解から、(1)存在は定義不能、(2)存在は自明の概念、という考えが出てくる。以下このことを説明してみよう―――――――。
(1)一般に、種というものはある類の中で他の種との違い(種差)をもとに定義される。 たとえば人間を定義するとき、人間は理性ある(種差)動物(類)である、と言われる。つまり種は、一段上のステージ(類)の中にある他のものと比べて定義される。しかし、上の誤解によれば、存在とは最上位の類であってそれ以上の類はないのであるから、定義することができない。
(2)そして定義できないがゆえに、それは自明なものとみなされる。ヘーゲルは存在というものを「無規定な直接的なもの」とした。これは数学における「公理」のような扱いである。数学における「点」あるいは「集合」のように、未定義述語として扱われる。
しかし、先述するようにこれらのことは誤解である。存在は類ではない。
すべての存在者に述語される「ある」という述語は、すべての存在者に等しく述語される共通なものである。すべての存在本質がある一定の類のうちに限定されるのに対して、「ある」という述語は類という限定を越える。したがって、これは厳密な意味では類ではなく、類を越えるもの、「超越者」である
この世のありとあらゆるものは「存在する」といえる。存在という述語はどんなものにもつけることができる。普通はどんな類であろうとも、何かの類に含まれ、その類のうちで他の種と区別される。アリストテレスはこのような性質をもつ存在を、類と分け、超越者と呼んだ。「これを、類と種差で定義しましょう」というようなごく普通のやり方がまったく通用しない、それが超越者である。
これは単に(1)の議論を見直しているようだが、そうではない。(1)(2)は存在を単なる類とみなし、特別なものだとはまったく考えていない。アリストテレスはこれを超越者と呼んで区別し、さてこれをどうしようかと考えた。自明だとはまったく思っていないし、定義不能だとも言っていない。存在への問いは、問われなければならない。
なぜ問われなければならないか
存在の問いは何故問われなければならないのか? 上述したのはあくまで問題視ができるということであって、積極的理由にはなっていない。この点に関して、ハイデガーは(1)存在の問いの存在論的優先性、(2)存在の問いの存在的優先性、という二つの観点から説明している。
(1)について、
これは存在の問いが「あらゆる実証的学問を究極的に根拠づける」問いである(ハイデガー『存在と時間』入門 (講談社現代新書))ということである。
あらゆる実証的学問は、それぞれ何らかの存在領域に関わっている。物理学なら物理的自然、生物学なら生物、歴史学なら歴史、言語学なら言語といったように。このようにそれぞれ自分固有の領域をもつ実証的学問は、ハイデガーによると、おのれの扱う事象が「何であるか」をあらかじめ規定しておかなければならない。このように、ある特定の領域に属する事象の「何であるか」を考察し、規定する営みが「領域的存在論」と呼ばれる。(略)
あらゆる学問分野は自分自身の基礎として、自分が対象とする事象に関する根本概念を備えており、またその根本概念によって形作られた領域的存在論をもっている。逆にそのような領域的存在論がなければ、学問は自分が何を探求するのかも決定できず、そもそも学問として成り立つことはない。(略)
実証的学問が取り扱う事象の本質を規定する領域的存在論は、さらに「存在一般の意味」への問いを前提するというのである。
(2)について、
ここは多少、議論が複雑であるが、結論をいえばこうなる。
「存在の問い」がわれわれの生の根拠をもっとも根本から照らし出す問いであること、したがってその問いを問うことが単に学問論的に重要だというだけでなく、われわれの生のあり方を規定する問いとして、もっとも優先されるべき課題であるということだ。
おおよそ(1)の時点で存在の問いの必要性に関する答えになっているから、今の時点では(2)について触れなくてもよいかもしれない。初見の場合は飛ばしたほうが筋道が追いやすいだろう。
つまり、こういうことになる。
現存在は存在者に関わっているとき、つねに何らかの仕方でその存在者の存在を了解している。この存在了解によって、存在者に対する現存在の関わり方も規定されている。そして存在了解は存在を了解することである以上、そのあり方は根本的には「存在一般の意味」をどう理解するかに依存している。
存在の意味を問うこと
いま問うている「存在」とは、存在者の存在のことである。その存在の意味を求めようというのであるから、その手掛かりは存在者から得られるだろう。だが存在者は数限りなく在り、どれを出発点として選べばよいのかは全く定かではない。最初に選ぶべき存在者とは何であり、なぜその存在者が他の存在者より優位なのか。それとも、どこから始めても同じなのか?
一般に、問うことについて考えてみる。
「Aとはなんですか」と問うとき、当たり前だが、われわれはAについて知らない。しかし完全に、まったく、何も知らないかといえばそうではない。本当に何も知らないなら問うことすらできないのだから。問いというものはその中に既に、問われているものを持っているのである。
また、問うということは手掛かりに問い合わせることでもある。金閣寺にどう行くんですかと誰かに問うとき、われわれはその誰かを手掛かりにしている。問いのうちにはそうした手掛かり――問いかけられるもの、が属している。
しかし金閣寺の道を訊いてもその人の記憶が正しいかは定かではない。示された道順通りに行って銀閣寺にたどり着いたら、われわれは「ここじゃない!」ということができるだろう。その意味で問うことには、もともと訊きたかったこと――問いたしかめられるもの、が属している。いわば問いの目標である。
問いには一般に、問いの手懸りとなるなんらかの「問いかけられるもの」があって、これに問い合わせながら、問いの対象である「問われているもの」をまさに問い尋ね、そして最終的には問いの目標である「問いたしかめられるもの」を目指す、という構造がある。
この節の冒頭のことと併せ考えれば、
(1)問われているもの=存在、
(2)問いたしかめられるもの=存在の意味、
(3)問いかけられるもの=存在者
ということになろう。そして先ほどは「どの存在者さんに訊けばいいの?」という所で行き詰ってしまったのである。
そこでポイントとなるのは(1)である。われわれは存在とは何かと問うているが、先述したように、もしわれわれが存在というものについて一切何も知らないのであるなら、問うことすらできない。われわれは既にこの存在というものについてある程度了解しているのである。
実際、「鳥は存在している」と言われて意味のわからないものはいないだろう。えさをついばんだり、空を飛んだり、木にとまったりしている、そういう様々な存在の仕方をしている存在者=鳥のことを言っているのだ。
だがもちろん、問うている以上完全にわかっているわけではない。われわれの持つこのような漠然とした存在に対する了解のことをハイデガーは存在了解と呼ぶ。この存在了解こそが、問うということを可能にしている。
だからこそ、存在の意味を問うということを明瞭に見て取るためには、この「存在について問う」ということができるわれわれのような存在者について明瞭に把握することを必然的に要求するのである。
存在問題を仕上げるとは、或る存在者を――問いを発する存在者を――その存在において見通しのきくものにすることである。存在問題を問うことは、或る存在者自身の存在様態であるのだから、この存在者において問いたずねられている当のもののほうから――すなわち存在によって、本質上規定されているのである。われわれ自身こそそのつどこの存在者であり、またこの存在者は問うことの存在可能性をとりわけもっているのだが、われわれはこうした存在者を、術語的に、現存在と表現する。
つまりどの存在者を出発点として選ぶかという答えは、存在の意味を問うことができるわれわれ=現存在だということだ。われわれはおぼろげとはいえ、存在というものについて何であるか了解=存在了解している。存在の意味を求めるにあたって、まず適切に説明しておかなければならないのは、現存在、つまりわれわれ自身のことである。
以上まとめると、こうなる。
存在の意味とはなにか。これを求めるにあたって、まずは一般に問うということを考えてみると(1)問われているもの、(2)問いたしかめられるもの、(3)問いかけられるもの、という三つが必要であるとわかる。これを存在を問うということに当てはめてみた場合、(1)存在、(2)存在の意味、(3)存在者、ということになるけれども、(3)の存在者というものはいったい誰のことだろうか。それは、そもそもこの存在の意味を問うということができる存在者=現存在のことである。現存在は漠然とではあれ、存在というものを了解しているのだ。
次にわれわれがしなければならないのは、この存在の意味を問うということを明確にするために(3)の要素、つまり現存在について分析することである。
循環論法?
存在者とは、存在するもののことである。しかし今「存在」の意味がわからないのに、存在者などというものを扱ってよいのだろうか。存在の意味がわからなければ存在者の意味も当然わからないはずである。この点についてハイデガーは上記述のあとにいち早く説明している。
存在者はおのれの存在において規定されうるのだが、そのさい存在の意味についての明示的な概念が既に意のままになっているには及ばないのである。
存在については既に了解している(存在了解)。しかしそれを明示的に「これです」と呼ぶには至っていない。
現象学=存在の意味を問う方法論
ハイデガーは探求を進めていくための方法として「現象学」を挙げる。現象学とはどういったものであるか、それをハイデガーは、
現象学(フェノメノロギー)=現象(フェノメン)+学(ロゴス)
という二種の要素に分解して説明する。
(1)現象(フェノメン)
現象という言葉の原義は「それ自身においておのれを示すもの」。つまり現象とは、白日のもとにあり、明るみに出されえ、あらわとなるものの総体のことである(p59, ハイデガー「存在と時間」入門)。おのれを示す、という部分が現象の本質である。現象から派生するいくつかの概念を区別することで、これを理解しよう。
①仮象
これは、「何かが、それ自身においてはそうではないのに、そうであるかのように、おのれを示すこと」である。ハイデガー自身は仮象について、こう説明している。
ところで存在者は、それへと近づく通路の様式に応じて、さまざまな仕方でおのれをおのれ自身のほうから示すことができる。それどころか、存在者がおのれ自身に即してそれでない当のものとして、おのれを示すという可能性すら成りたつのである。こうした自己示現において存在者は「何々であるように見える」。そうした自己示現をわれわれは仮象すると名づける。
②現れ
これは「おのれを示さない何かが、おのれを示すことを通じて、おのれを告げること」である。たとえば病気というものがこれにあたる。病根が、表面に現れた症状を通じて、おのれを告げているのだ。
現れとは、おのれを示さない。しかしこの現れという言葉を理解するためには、現象という言葉に基づかなければならないことを確認しよう。現象=おのれを示すという言葉が上述した現れの定義に盛り込まれていることからもそれがわかる。
「現象は現れではない。しかし現れは現象にもとづいて成り立つ」
現象はおのれを示すが、現れはおのれを示さない。この違いを把握し、ふたつを明確に区別しなければならない。
③単なる現れ
これは「告げるもの」によって暗示されるものが、本質的に決してあらわになりえぬものである場合である。このとき告げるものは、決してあらわになりえぬものを「常に覆い隠して示さない」のである。たとえばカントを知っている人ならば物自体がこれにあたる。
たとえば、現れと仮象が結合して、現れが単なる仮象になる場合も無論ある。たとえば、照明の具合で、頬が赤いように見え、その赤さは、熱の存在を告げ、熱の存在は体の故障を暗示する、といったように受け取られる場合がこれである。
(2)学(ロゴス)
ロゴスとは、
「あるものをそれがあるものと一緒になっているがままに見させる――あるものをあるものとして見させる」ことを意味する。
あるものをあるものとして見させる、のがロゴスである。
(1)(2)の考察により、
現象学というものは、「自分自身を示すものを、それが自分から自分自身を示すとおりにそれ自身から見えるようにさせる」ものであることが結論される。しかしともかく肝心なのは「話題になっているものを直接的にあらわにする研究」だということである。
この理解はおそろしく範囲が広い。現象とは「おのれを示すもの」であったが、これをたとえば存在者とみなせば(通俗的な現象概念)、ありとあらゆるものが現象学の対象になるだろう。
しかしハイデガーが扱うのはそのような通俗的な現象概念ではない。現象とは存在者ではなく、存在そのものなのである(現象学的な現象概念)。
※よくわからないひとのために
はっきり言って、語源に基づいて「解き明かしました」みたいな顔をされても困る。これが普通の感覚だと思う。少なくとも理論的には、この現象学の説明は説明というより「~という風に仮定します」と聞いておいたほうがスッキリするだろう。語源なんかいくら調べてもなんの証明にもならないんだから。
そして単なる仮定にしては嫌に長いし、我慢して話を聞いても「だからなんなんだ」という気がしてくる。存在の意味を知るための方法論だというから期待して聞いていたのに、これでは期待外れだといわれても仕方がない。そこでここでは、あらためてその方法論を説明しよう。方法論というよりも、方針だし、仮定である。こういう風に考えましょうよということだ。
まず、現象である。
現象とは「おのれを示すもの」である。ここで重要な点は、人間の認識活動とは一切関係がないということだ。現象のほうから、おのれを示してくるのだ。
次に、ロゴスである。
ロゴスとは「見えるようにすること」である。
存在とは現象である。つまり、存在はぴかぴかと光って自分自身を示している。そうだというのに、我々にはそれが見えない(存在の意味がわからない)。何らかの事情で隠蔽されているのだ。その隠蔽を、見えるようにする。それがロゴスであり、現象学である。
存在論が現象学の形をとるのは当たり前。なにしろ存在は自分自身を示しているはずなのだからそれをキャッチできないのは何か原因があるからだ。原因を取り除き見えるようにするのが現象学なのだから、存在論が現象学の形をとるのは当然だ。
「主体である私たちが自らの思考や知覚の形式に合わせて対象を認識するのであって、対象が私たちにアピールすることなどない」、という近代的な思考に慣れている普通の人にとっては、[デカルト→カント]の主体/客体図式を基本的に継承するフッサールのほうが遥かに論理的に見えるだろう。
つまり、ハイデガーは「対象のほうがぴかぴかアピールしてますよ」という点でこれまでの哲学とは一線を画している。さっきのよくわからない現象学の説明で肝心なのはこの点だと思われる。常識を揺さぶろうとしているわけだ。
だがはっきり言って、最初に述べたようにこれは仮定である。今の時点では「こう考えてみたらどうですか」というに過ぎない。語源をたどるのはハイデガー流だが、なんの証明にもならない。
方針:対象のほうが自分を示そうとしてるんだよ! だからそれを見よう!
ということだ。そして対象とはいま、存在である。
私たちはハイデガーのこの提案によって、「主観/客観図式」が乗り越えられなかったものを乗り越えられる地点まで高く山を登れるかもしれない。ハイデガー流現象学はフッサール流現象学では捉えられなかったものを捉えるかもしれないのだ。
フッサールが「現象学」を、「意識」そのものに即して、つまり、既成の知識による先入観を完全に排して、純粋に「意識」の内部で洞察し得る事物の「本質」を明らかにする学として性格付けたのに対し、ハイデガーは、「現象学」を「意識」に内在した探求として性格づけてはいない。
新しい哲学がこれからはじまろうとしているのである。
解釈学的現象学
これまで見てきた通り、存在の意味への問いに向かうためには「現象学」を用いるのが適当である。そして始まる存在の意味への問いにあたっては、われわれは現存在と呼ばれるものの分析を行わなければならないのだった。
現存在は存在了解を持っている。存在了解はもちろん、現存在の存在に対しても向けられている。われわれはわれわれ自身の存在をどう了解しているのかを、練り上げ形成していかなければならない。これが解釈と呼ばれる。現存在の分析にはわれわれ自身の解釈が問題になるのである。
存在の意味がわからないのは、それがあるがままに示されていないからである。つまり隠蔽されているからであるが、その隠蔽には二つの種類があるとハイデガーは言う。
(1)単に暴露されていないこと
――知られているのでも知られていないのでもない
(2)埋没していること
――以前あるときに暴露されたのだがふたたび隠蔽の状態に陥った
おおざっぱに言えば、『存在と時間』の第一篇と第二篇のそれぞれは、今述べた二種類の現象の隠蔽をそれぞれ問題にしている。第一篇は、明白ではあるが気づかれていない現象をあらわにする。第二篇は、変装させられた現象へと突破していかなければならない。
ここまでで序章の内容は終わる。
次に見ていくのが第一部第一篇である
(※存在と時間は第一部第一篇と第二篇しか出版されていない)。
参考
ハイデガーの「存在と時間」についてです。アリストテレスのいう、「類や種は、... - Yahoo!知恵袋