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にんじんと読む「存在と共同(轟孝夫)第一章」🥕 第二節まで

 要約というか、にんじんが理解する限り、という内容です。

 にんじんと読むシリーズでは一貫して、そうです。

 

第一章 「存在の問い」の導入

現象学から「存在の問い」へ

 現象学においては、意識は器のようなものではない。そこに何かが盛り付けられているのではなく、意識は常に何かについての意識なのである(意識の「志向性」)。たとえば、あなたが最寄りの駅について想像するとき、あなたはまさに駅そのものを志向している。駅はその部分的な側面(射影)でしかあらわれてこないが、あなたは駅の見えていない部分がまったく存在していないなどとは考えない。その意味で、駅全体を志向しているといえる。想像だけでなく知覚といった意識作用もみなすべて志向性を持つ。

 志向的作用は「われわれが~のもとで存在する」という性格を持っている、とハイデガーは言う。この性格は「~のもとでの存在」と呼ばれる。この記述は少々わかりづらい。このことを理解するためには、『机がドアのもとにある』ということがない(!)と彼が言った意味を理解する必要がある。下記のような事情で、「~のもとでの存在」という性格を持つことができるのである。

  •  われわれはドアと隣り合うことができるが、机はドアと隣り合うことはできない。というのも、机にはドアがドアとして現れてくることなどないからである。ドアという意味を拾ってくるのは現存在(人間)*1だからできることであって、机にはそんなことはできない。*2

 この「~のもとでの存在」という性格は、わたしたちが関わっている、ということを示唆している。ドアがあっても、それがドアとして存在しているのは、わたしたちが絡んでいるからなのだ。『したがって、われわれは経験された世界をその現存在という観点において問う可能性を獲得している』とハイデガーがいうのはそのためである。

 同じ存在者であっても志向的作用のあり方に応じてその存在の仕方が異なることを意味する。はい存在者、はい終わり……というわけにはいかない。それがわたしたちが絡むということである。つまり、『そこにおいて現れている存在者をその存在において捉える』ということが問題となり、ここに「存在の問い」が生まれてくる。今までは「存在者です。はい終わり」だったのが、わたしたちが絡むことがわかって大変複雑になったのだ。

 現存在(わたしたち)は、ドアをドアとして現れさせたりするやつらである。『現-存在とはまさにおのれ自身と世界の開示という出来事そのものである』といわれるのはこのためであり、ハイデガーはずばり『現存在はおのれの開示性である』といって、現存在には開示性以上の本質などないとさえ言っている。

 

<まとめ>

 意識って~についての意識だよね。

 ドアがドアとして現れてるのはおれらのおかげだよね。

 おれら、世界を現れさせててワロタ(終)

内-存在の三つの契機

【情態性】

 ハイデガーは情態性、つまり気分というものを世界との関係のうちで捉える。怖いとか、嬉しいとか、楽しいとか、そういう気分は自分だけの問題ではなくて、さらに、世界というものの現われも示している――このことに関するこの本の説明は極めて分かりづらい*3ので、コイファーとチェメロによる『現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために』に頼ることにしよう。

 ハイデガーは私たちの技能的行動の二つの面を分析する。一方で、私たちは能動的に空間を進んだり、身近な道具を取り扱ったりする。しかし、それと同時に、私たちは技能的活動が自分の周囲の道具から引き出されるのを経験する。言い換えると、私たちは能動的に関与していると同時に、誘引(solicitation)に応答している。この二つのうち最初の面は技能によって構成されている。【略】二つ目のほうは「情態性(disposedness, 独 Befindlichkeit)」と呼ぶ。

現象学入門: 新しい心の科学と哲学のために

  つまり、気分とは技能的行動というカードの一側面なのである。人ごみのなかを進もうとするとき、適当な空間を見つけ、それに誘引される。そして歩行という技能的活動をする。また逆に、歩行できるからこそ、そういう空間を見つけたときに行ってみる気分になる―――これが裏表で一体の関係にあるという意味である。

 さて、世界のあらわれには我々が関与しているというのは前節でみた。そのことからすると我々がいつも嬉しかったり、悲しんでたり、退屈だったり、虚無ってたり、様々な気分の中にあることが世界のあらわれと関係しているというのは見やすい。しかし、ハイデガー以前にはそのような見方はされていなかった。現象学は事物のあらわれ方として心的現象にももちろん重きを置いていたけれども、気分というものを作り出すのは表象とか判断とか理性的なことであり、二次的な地位にあったのである。ハイデガーが言ったのは、気分というものもそれ自身でその事物に関係しているということで、さらにいえば、理性的なそういう判断とかのほうこそ二次的だということだった。

 

【了解】

  了解とは情態性の裏面である。

 それは「いかになすかを知ること」であるが、ふつうは前認知的である。わたしたちは歩行の際に複雑な体重移動を行っているが、それを説明することはできない。歩行できるというのは、足の筋肉や骨がどうとか、それらがどのような手続きで動くかとか、そういう命題のリストではないのである。この「いかになすかを知ること」によって技能的に対処することが可能になるのだから、『了解はあらゆる種類のふるまいにとっての可能性の条件』と言われる。*4

 了解はある行為を行為可能なもの、意味をなすものとしてあらわにする。

 

【語り】

 情態的な了解によって、われわれと世界があらわになる。それがペンとしてあらわになっているということは、ペンがペンとして区切られているということを意味するだろう。この分節化されたものを「意味」と呼び、「語り」とは了解可能性の分節化である。

 道具というのはその手段性、指示、意義などの連関全体によって定められていることがハイデガーの道具論であった。この全体性はすでに分節された構造を有しているが(ハンマー、釘……)、それを表明するために語りが用いられる。ハンマーで釘を打つのはそのハンマーがもつ様々な意義のうちのひとつである。もしハンマーを使って窓ガラスをたたき割るなら、このときは別の意義を分節化していることになるだろう。

とはいえこのことは、ある技能領域にかかわる諸結合が必ず名称を持たねばならないということではない。むしろ名称など持っていない方が普通なのである。(中略)チェスの名手にしても、自分が識別しうる駒の配置のパターンすべてに関して、また自分が応じ手としてなす駒の動きのすべてにわたって、それらを表す言葉を持ち合わせているわけではないのである。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

  とはいえ、語りはもう少し事情が複雑であろう。単に「名づけた」とか「言いあらわした」以上のことがある。

 

 根源的な了解が、認知的なものではなく認知を可能にするものであるのとまったく同様に、存在論的な意味における語りは、言語的なものではなく、提示し語るべき何かをわれわれに与えることにより、言語を可能にするものなのである。(中略)語りは、そのつどの全体的な状況が何らかの対処によって分節化され言語的に表現可能となるその仕方を指す。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

 

 言語によって語るというか、語ることによって言語が可能になっているといっている。

 語りとは、道具を用いる過程のなかで道具全体性への諸結合を取り上げることである。これが分節化である。

世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学

 

 語りについての説明は言語理解のためにもどうしても把握しておきたいが、今のところはこれ以上わからない。

 

<まとめ>

 ペンをあらわにするっていうのは「ペン」に誘われて(情態性)、実際に「ペン」を使うことができて(了解)、ペンに関するたくさんの意義の中から文字を書くっていうのを取りだす(分節化、語り)ってことなんだね。

 それが開示性の三つの構成要素なんだね。

 

 

*1:まぁだいたい人間と同じ意味だが、正確にはある程度社会化された人間のこと

*2:ハイデガーは人間以外の生物、たとえばペンギンなどにもこれができないと言っている。これについては少々文句が浮かぶことだろうが、彼は人間中心主義的なのでこういうのはよくある

*3:『そのつど出会ってくる存在者はつねに何らかの気分性の内で現れてくる』

*4:同じように「父親である」「教授である」ということもどうすればよいか知っている。情状性とともに了解が実存論的な諸構造のひとつといわれるのはそのため。