〈子ども〉という概念・〈大人〉という概念
大人に対立する子どもという概念は近代的なものである(〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活)。フィリップ・アリエスはその書籍のなかでさまざまな文献調査を通じ、中世においては「子ども」という枠組み自体がなかったことを指摘した。ではなんであったのか。それは「小さな大人」だった。
子どもの死亡率は非常に高く、モンテーニュは《私はまだ乳呑み児であった子供を二、三人亡くした。痛恨の思いがなかったわけではないが、不満は感じなかった》と言っている。つまり子どもは亡くなるほうが当たり前であり、数にすら入れられなかった。無事生存できた子どもはそのまま「数」に入れられ、大人と同様の扱いを受けた。いま、子どもはそう扱われてはいない。保護されるべき期間があり、教育されるべき期間を持っている。
誕生したばかりのこの〈子ども〉という概念を、われわれはうまく扱えていないように見える。小林幸子さんと女優・井端珠里さんは《もいちど こどもに もどってみたい もいちど こどもに もどってみたいの いちにちだけでもなれないかな》と歌ったが(ポケットにファンタジー さち&じゅり)、これに共感すると同時に、われわれは「いつまでも子どものままではいられない」という覚悟と諦念が入り混じった言葉を述べることもある。
上記の二例には違いがある。それは前者は自分自身のことを「子どもではない(むかしのこども)」と考えており、後者は「子どもだ」と考えている点である。
前者と後者の〈子ども〉観には明確な違いがあるように見える。前者の〈子ども〉は時間の経過とともにその資格を失効するが、後者の〈子ども〉はそうではない。「いくら時間が経っても子どものままでいる人もいる」のを受け入れるのは後者である。歌詞だけから類推するのは不可能に近いが、そもそも前者の歌い手がなぜ自分を子どもでないと思っているのかわからない―――この歌を聞くたびにあなたが戻りたいのは「子ども」ではなく「子ども時代」なのではないかと言いたくなるときがある。われわれは子ども時代のことを、自然に子どもという言葉で表すことがある。
このような理路を通じて、われわれの関心は〈大人とはなにか〉に移る。というより、〈子ども〉という概念の形成時点で主たる関心はそこにあったはずだ。彼らは大人になるために保護され、教育されるのだから。「はやく おとなになりたいの」と歌われる通り、子どもはふつう大人になりたいと思っている。大人は目的地なのだ―――しかしちょっと待て。われわれは「子どもに戻りたい」のではなかったか?
混乱してはいけない。そんなことは謎でもなんでもないように見える。
われわれは〈子ども〉という概念を二種に区別した。:①人生の時間的区間、②時間以外の条件を満たしていない存在として。すなわち、われわれは子ども時代、「時間以外の条件」を満たし大人になろうとする。その条件を手放して子ども(②)に戻ろうとは思わないが、訂正したい過ちは未熟な子ども時代に集中しているので思わず子ども(①)に戻りたいと言ってしまう。
大人になりたいのに子どもに戻りたいというのは、①と②の用法を区別し損ねるから起きる神秘である。……と結論づけても良いのではないか?
席巻するピーター・パン症候群
それにしても、なぜ子ども時代に戻りたいのだろうか。「過ちを正すため」だというのは、そこまでありふれた動機なのだろうか。そうではないだろう。むしろ「失われたものを取り戻したい」という気持ちのほうが強いように思える。
第一のケースとして、時間を経ることによって生物学的に(あるいは生理学的に)失われていくものがある。たとえば肌にシワができて「昔はこうじゃなかったのに」と嘆いたり、病気しがちになって子どもの頃はこうじゃなかったと思ったりする。余命わずかな人が通り過ぎてきた過去を振り返って「子どもの頃に戻って生きる時間を増やしたい」と考えることもありうる。もちろん、「失われていく」というのは解釈の問題であって、シワがいくら増えようが木が年輪を作るようにそれは生きてきた証なのだとポジティブに捉えることもできる。たとえば声変わりすることによって過去の声が失われることもあるだろうが、一般にはこれを嘆くことは少ない。しかし幼い頃から歌うことを習慣にしてきた人にとっては大きな喪失に感じることもあろう。
このケースは非常にわかりやすい。ここにおいて〈子ども〉と〈大人〉は時間的な用法で用いられている。時間というツマミを動かすことで生じるさまざまな生理学的変化をネガティブに解釈することによって、失われる前に戻ることを志向している。このとき、②の用法は隠れているが、基本的には志向され続けている。
しかし一方で、生理学的にではないにせよ時間を経るに従って失われていくと考えられているものがある。たとえば童話のピーター・パンは大人によい感情をもってはいない。それどころか、ネバーランドには呼吸をするたびに大人が一人死ぬという言い伝えがあり、ピーター・パンは大人を殺すために一秒に何度も早く呼吸をすることもあった*1。なぜ彼は大人にならないのかについて、彼自身が次のように語っている。
「ぼくは生まれた日に家出しちゃったんだ。父さんと母さんが、ぼくが大人になったら何にしたらいいだろうって話してたから。だから、ぼくは大人になんかなりたくない。いつまでも子どもでいて楽しく遊びたいんだ。」
ピーターパンは明らかに身体的特徴を指して大人になりたくないといっているのではない。精神的に変わってしまうことを恐れている。そしてその精神的な変化はネガティブなものとして解され、子ども自体の状態のほうに重きが置かれている。子どもが純粋だというのもそうした言説のひとつの表現であろう。
われわれは〈子ども〉というものを〈未熟な大人〉としては捉えていない。むしろそこにある種の厚みを見ており、だからこそ戻りたいと考えている。注意が必要なのは、これは子ども時代の保護された環境に戻りたいという思いとは異なる。それは生理学的なものでないにしても、子ども時代には受けざるをえないことであるから、第一の例に属するものである(実際上はもう少し分類を練り直さなければならないだろう)。むしろここで問題にしているものは世界との関わり方であり、出会い方である。たとえばきれいに澄んだ川を見たとき、服が汚れようがなんだろうがそこに飛び込むような姿勢。楽しむというただそれだけのためにすべてを賭けられた時代……。
この種の議論をするとき、ついうっかり子どもの側に価値を置きすぎてしまいがちである。つまり〈子ども〉を未熟だとみる視点を逆転し、次は正反対に、〈大人〉を未熟なものと見るという別の極端に走りたがる。しかしこの価値観は人生というものに彩りを与えない。なぜならこの思想においては人生は衰退していく一途であり、それ以外に道など無いからだ。きらきら輝いていた少年時代は終わり、あとは仕事をして死ぬだけだというわけである。特に大学生の終わりにはこのように考えがちである。大学を終えるとそれまでのように明確な区切りもなくただ仕事だけがあり、政治的ないざこざがあり、病気の苦しみだけが待っている、という。
なすべき仕事は、
- 大人になるとはどのような変化であるか
- その変化はどのように解釈しなおせるか
という問いに答えることである。現状、(1)については純粋なものを失うことであり、人生は失っていく過程なのだと解されている。だがにんじんはそうは思わない。大人になるということはやはり世界とのうまい関わり方を見つけることである。だが、〈子ども〉を〈未熟な大人〉にすぎないとする見解に戻るつもりもない。
これを体系的にまとめておくことは有用だろうが、まだにんじんには材料が足りない。言えるのは、恐らく〈大人〉には〈大人①〉〈大人②〉……があるということであり、明白に子どもとの対立を構築する〈大人〉はないだろうということ。そして「〈子ども〉に戻りたい」というのは子ども時代が一種の参照枠だということだ。
もしあなたが大工で、うまく作品が作れるようになったとしても、昔の作品を見て「あ~今の技術全部捨てて子どもの頃に戻りたいな」とは思わない。われわれは完全に子どもに戻ることを望んでいるのではなく、今の不完全さを解消する鍵を、子ども時代に見出しているのだ。
最後に、では肉体的に昔に戻りたいというのは叶わない悲しき夢というだけなのか。肉体的に衰えることは、にんじんもすごく悲しいし、目が悪くなったときなどはほとほと嫌気がさした。しかしこれも、本当のところ、悲しむべきことではないように思われる。というのも、そもそも全分野で「完全体」だった時期など、人生には恐らく存在しないからだ。「この部分が、ある活動をするにあたって、相対的にあの時期よりも、悪い」ということはできるだろうが、すべてを失ってしまうことはあまりない。
昔、死を悲しまない人がいたという。彼の妻が死んだときも、周りには悲しんでいないように見えた。そこで友人が訪ねて行って「妻が死んでも相変わらずあなたはその様子なのはどういうことか。あまりにひどいではないか」と文句を言った。すると彼はこう反論した。
彼女が最初に死んだとき、私が他の人たちのように深く悲しまなかったとでもお思いか。しかし私は彼女が生まれた頃まで、そして彼女が生まれる前の時代まで回顧した。そして彼女が生まれる前の時代に留まらず、彼女が体を持つ前の時代まで回顧した。それから、彼女が体を持つ前までだけじゃなく、彼女が精神を持つ前まで回顧してみた。別の変化が起こって、彼女は体を手に入れ、そして死んだのだ。これは季節の巡りみたいなものだ。春が来て、夏が来る。そして秋が来て、冬が来るのと同じだ。彼女は今、とっても大きな部屋で穏やかに横になっている。もし私が大声で泣き叫び、彼女の後を追うならば、それは私が死について何ひとつわかっていない証拠になるだろう。だから私はそうするのをやめたのです。