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にんじんと読む「フッサール現象学の理路」🥕 第一章のみ

第一章 現象学の理念と方法

 根本的に新たな始まりを求めるデカルトの指導理念は、デカルトにおいては主観へと転じられた哲学において達成されなければならない。なぜか。第一に、哲学の全面改革は個人の中に生じるしかないから。もし共同研究をしているにしても、共有する真理はあらゆる段階で自己自身の洞察によって確認し続けるべきであろう。『まして新たな哲学をうち立てようとするにあたってはまず自己の洞察以外のどこに立脚できようか』。第二に、このような孤独な始まりを選ぶものは必然的に究極的な根拠づけをなす絶対的洞察をめざし、懐疑の方法によって遂には不可疑なるエゴに到達する。

 だが、第一段階である理論的自律性を求めることになったものが、すべてエゴへの道を進みだすわけではないだろう。だというのになぜデカルトフッサールの徹底した思考はエゴへと至ることになったのか。なぜ主観主義をそれほどまでに徹底することになったのか。この点にフッサールに対する批判が集中するのであるが、この成否はエゴというものをどう理解するかに懸かっている。

 

 デカルトを引き継いで新たな歩みを始めようとしたとき、まず疑われるのは彼が目指した一般的理念である。つまり、根拠づけられた学問、普遍的学問という理念である。なぜこれを問題視するのかというと、デカルト幾何学を理想とした演繹体系を真の学問の例と前提して話をしてしまったがために、公理主義的な構造を無批判に取り入れてしまったからである。私たちは新たな歩みを始めるにあたってあらゆる学問を保留することにする。とはいえ、実際の学問の妥当性はどうであれ、『その学問的努力や取り扱いの中に入り込み、それが本来狙うものを明晰判明にすることは何の差し支えもない』と言われる。つまり、一般的理念は正しいものとして前提はしないが、ともかくその方向に歩いてみようというわけだ。そうしているうち、『曖昧な一般性のなかで念頭に浮かんでいただけの指導的理念を、明瞭にする』(デカルト的省察 (岩波文庫 青 643-3))ことができるだろう。

 さて、そもそも「根拠づける」ということに関して考えよう。「判断」というのは『他の判断を含み指示している間接判断と他との連関を含まぬ直接判断があるが、前者の真理性は、その中に指示される他の判断の真理性を前提にしており、最終的な前提を後者の中にのみもつ』と考えられる。判断を「根拠づけられた」ものにするためには直接判断にさかのぼり、さらにこの直接判断の正当さを確認させるような事態を明示しなければならない。このような事態を意識にもつことが「明証」と呼ばれ、かくして、根拠づけとは『あらゆる判断において最終的に明証に到達すること』なのである。もちろんこの「明証」は命題的な内容をもたないから、命題の内容を持つ判断を他人に示してみることなどできようはずもない。とはいえ、『明証から、すなわち該当する事象や事態がそれ自身として私に現在的であるような経験から汲みとっていないいかなる判断も下したり妥当させたりしてはならない』だろう。これが第一の方法的原理となる。

 明証からはじめることがわかったとしても、明証であればなんでもいいわけではない。それは単純に「不可疑」というわけではない。たとえばサイコロを知覚するときに、わたしたちはすべての面を同時に見ることはできない。このように、私たちがものごとの一部しか捉えることができないということによって、そこに疑いの余地が入り込む。明証はいつも「非十全的」なのである。だが私たちが求める「不可疑」というのは、非十全的であるがゆえに疑おうと思えば疑えるにしても、仮に疑ったところで疑うことになんの甲斐もないようなものである。これが私たちの求める「必当然的明証」である。では、その必当然的明証とはどのような内容をもつものなのか。

 世界の存在はどうだろう。私たちがいつもたしかに実感しているこの世界の存在は必当然的明証なのか。だがこれはデカルトとともに、留保される。なぜなら『そのつど統一的に見渡しうる経験連関全体もまた脈絡ある夢という名のもとに仮象と判明することがある』からである。*1ではどうするのか。

ここでいまや我々は、デカルトに従って、正しく遂行されれば超越論的主観性へと至る大きな転換を行う。すなわち、あらゆる根本的哲学がそこで根拠づけられるべき地盤、必当然的に確実な究極的な判断地盤としてのエゴ・コギトへの転回である。

デカルト的省察 (岩波文庫 青 643-3)

 世界は失ってしまった。だが『すべてが現象としてそっくり残されている』。「存在」は失ったが、目の前にそのように立ち現れる「現象」は残っている。ここで得られる現象は「純粋」と呼ばれる。純粋な現象とは、それが存在するとか、仮象だとか、そうかもしれない、そのように思われるとか、そんな決定に先立つ意識されたままの現象を意味している。それがエゴという地盤に導かれるのは、そのような現象、世界のすべてが、『私にとってある、すなわち私にとって、しかも、私が経験する、知覚する、想起する、何らかの仕方でそのことを考える、判断する、評価する、欲する、等のことによって、妥当している』からである。世界は、『私に妥当するもの以外のまったく何ものでもない』。

 

 ここでは、

  •  二分法的枠組みが破壊されている フッサールが「内」に閉じこもったように誤解するのは、外部世界と内部世界という二区分を前提しているからである。フッサールの現象は純粋現象であり、そもそも何かが何かとして現れるということそのものである。これは心理的内部世界や感覚与件と混同されがちであるが、「それは私の感覚だ」とかそういう定立をする以前の段階なのだ。外界とか内界とかいう区分、実在なのか仮象なのかという区分、そうしたものが初めて意味を持つことになるような意味の地盤こそ純粋現象であり、そこには未だどのような判断も挟まれてはいないのである。二分法を差し控えること、心の内か外か、現実に存在するかしないかといった判断を停止することで純粋現象を省察の手段とすることが「超越論的現象学的還元」と呼ばれるものだ。

 

 

 

 

*1:ところでデカルトは、感覚から数学へと懐疑を進めたが、これは数学が感覚よりもたしかなものとして受け取られていたからである。一方フッサールはまず学問を疑い、次に経験世界を疑う。「悪しき霊」がわれわれを騙して1+1=2だと思い込ませていると考える必要はない。