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もう一度にんじんと読む「哲学的思考(西研)」🥕 第三章

第二章 〈生〉にとって学問とは何か

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

第三章 何のための〈還元〉か(1)

 これまでの経過をまとめておこう。フッサールデカルト的姿勢を受け継ごうとした。それは『哲学するための確実な疑い得ない地盤を求める姿勢』であり、そのとき彼は無自覚にも新たな前提をもった哲学を始めたのである。彼は万人に対して妥当する絶対的な体系を追い求めるため、それぞれに「我(コギト)」を認めながらそのそれぞれの「我」に従って互いの了解を確認し合う哲学を始めたのである。

 デカルトが何かを言い、それぞれの「我」に問うように促し、それぞれの「我」がそれを確かめることができる……このような人と人の意識のあいだの同型性を確かめ合う哲学は、『他我』の存在を明らかに前提している。多くの哲学者が「主観と客観が一致などするのか」という問題を考えてきたが、フッサールに言わせればそれは無意味なことなのである。『意識に定位した哲学』において、意識の外にあるものを考えたところで一体お互いに何をすり合わせろというのだろう。むしろ問題なのは、原理的に絶対に証明できない””超越的な””といってよい確信を、何に基づいてわたしたちが持っているのかということである。この点を解明するためには、やはり意識体験の反省という方法による外はない。フッサールの〈現象学〉はこの方法を徹底的に突き詰めたものである。

 

 〈現象学〉の核心は「現象学的還元」にある。まず、あらゆる種類の確信について判断停止する。客観的現実や他我の存在はもちろん、ありとあらゆるものを判断しないで脇においておくのである。しかしそうしたあらゆる確信を脇においても、私たちの「意識」は残る。この意識というのは、世界及び一切の諸対象の意味と存在を作り上げているものである。これこそが哲学的判断の地盤であり、フッサールは””純粋意識””や””超越論的主観性””という言葉で呼ぶ。このような純粋意識を露わにする作業が「現象学的還元」である。

 このアイディアは、フッサール独我論者だと人々を誤解させた。そこで哲学的現象学について一気に語るのでなく、予備的な前段階として世界の中の人間の心を研究する心理学的現象学からはじめることにしよう。

【純粋心理学】

 フッサールは「心」というものを研究するにあたって、物的で因果的な自然科学的説明という観点を選ばなかった。心を探求するためにはそんな方法では不十分だという立場をとったのである。「そもそも、心的なものはどういう種類の経験によってわたしたちに知られるのだろう?」と、フッサールは問うた。これに対してフッサールは「反省」と答える。人は何かを想起したり伝達したり激しい情動に襲われることによって自分の体験を見つめ体験を体験として意識する。心的体験を与えてくれるのは反省なのだから、この反省を駆使しなければ心的体験のあり方を探求することはできない。

 心的体験とは、なんらかの事象が私に現われてくるという出来事である。だから心的体験は〈現象〉とも言われる。現象の本質的性格は〈志向性〉である、とフッサールは言った。つまり現象とはいつも「~の現われ」である。現象はたとえば事物、思想、計画、決意、希望などについての現われである。現象学はそれらの事象が現れてくるところの体験=現象に目を向けるからこそ現象学と呼ばれるのだ。

 志向性という性格が示すことは、私たちの心的体験というものが受動的なものではなく注意を向けたものへの関心によって浮かび上がるものだということである。モザイクに焦点を合わせなにかを見出すように、色や形や周辺の様子などからそのもやもやと「リンゴとして」受け取る。私たちは「焦点を合わせる」ことによって体験するのである。

 この志向性には〈総合〉というはたらきがいつもついて回る。ひとつのサイコロがあったとして、それは不断に新たな局面を出現させるだろう。いろいろな方向から見たサイコロはすべて、ひとつのサイコロについての現象である。しかしこれは不思議なことではないか。多様な姿が次々に現れてくるのに、それは「同じサイコロ」についての現象としてまとめられていくのだから。

 これをいいかえれば、次々と新たな二与えられてくる感覚内容、つまり色や形の感覚が、すべて同じサイコロについての意識という仕方で「総合」されていく、ということになる。そしてその総合の過程において、同一対象であるという意識は保たれつつ、その意味内容の点では新たな情報が次々に付け加わって豊かになっていく(材質はプラスチックだなあ、色が少し剥げているところがあるぞ、全体に黄ばんでいるなあ……)。

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

  この〈総合〉は形や色などの材料から対象を組み立てるということではない。それはあくまでも同一の対照的意味をめがけ志向することによって行われる。「サイコロ」のもとに感覚内容が総合されていくという図式を理解しない限り、組み立て式のものだと誤解してしまう。

 

 志向性のこのようなはたらきを反省することでわかるのは、あらゆる対象が””思い描いたもの””””意味的なもの””であるということだ。そこでフッサールは想われたもの(意識対象)をノエマ、想うこと(注意を向けたり価値評価したりといった意識作用一般)をノエシスと呼び、「ノエシスノエマ連関」という構図に至った。

 サイコロ以外の事物についても考えておこう。たとえばこの記事を読みながら「つまりどういうことだろう」をいつも考えているだろう。この志向のもとで個々の文の意味が総合されていく。この総合””にんじんの言いたいこと””は記事を読んでいるあなたのノエマであるから、読み直すうちにイメージが変わったり、他の人とまったく違う感想を持つこともある。サイコロなどの事物と違ってテクストはたいへん多義的で、単語や文や段落単位でどんどん総合されておそろしく重層的である。

【心理学的ー現象学的還元(現象学的還元Ⅰ)】

 自然的態度をとっているとき(つまりふつうにしているとき)、机の上のサイコロは「私がそれを見なくてもそういうものとしてそこにあっただろう」と考えている。しかし体験を内在的に観察し記述するという立場を貫くためには《客観的に存在する世界》という考えは邪魔である。なぜなら私たちが見るべきなのは、””体験が志向しているかぎりでの事物や世界””であるからだ。

  •  たとえばあなたが道を歩いているとする。突き当たりにショーウィンドウがあってそこにマネキンが一体立っているのが見えた。服を売ってんのかなと思いつつ違和感なく歩いていくが、なんだかだんだん妙な気分がしてきた。なんか人形ぽくないのである。そして数メートルまで近づいたとき、はっとした。「人だ!」

 もしこれを第三者の立場から書けば、「あなたはそれをまちがってマネキンだと思っていたが、実際は人だった」ことになる。でもあなたにとってそれは最初から人間だったわけではない。それをマネキンの現われとして見ることは「動かないだろう」といったような暗々裏の予想も成り立っていただろう。だが予想は裏切られ、そこから人間の現われへと変化し把握され直す(妥当変更)。この結果として、「もともと人間だった」とされたのだ―――――――体験のあり方に沿おうとするなら、《客観的に存在する世界》は消しておかないといけない。体験のうちにあって志向される限りでの対象のあり方を見るのでなければならない。また、心的体験を自然科学や社会科学的に見ることもすべて退けなければならない。たとえば事物知覚を””反射された光が目に入り神経を通って脳に伝えられる””と記述することは内在的な反省という目的には沿っていない。

 《客観的に存在する世界》という信念(世界信念)を判断停止すること。これを《心理学的ー現象学的還元》という作業である。この還元によって「純粋な心」を手に入れることができる。次に目指すことは「事物の形は一挙に与えられず、ある側面からの見え方を通じて把握されるしかない」といったような、””一般的構造””を取り出すことである。この一般性の取り出しのことを〈形相的還元〉あるいは〈本質観取〉という。

  •  もちろん赤ん坊がどういう風に世界信念を獲得するかというのも問題であり、時間的な成育プロセスとして考察するのが発生的現象学である。ただ発生的現象学は本質観取と違ってだれも赤ん坊の頃を思い出して確認することなどできないため、仮説の域を出ることはない。

 理念的存在者(数や論理学的法則)と事物的存在者のちがいや、それらを認識する仕方のちがいなど色々探求することは多い。フッサールの純粋心理学が当時の若者たちを刺激したのは、「そういう色々なことが、私たちの体験の現場そのものをよく見ることによってはじめて答えられる」という部分だった。””純粋心理学的方法””はいろいろなものを考えていくための足場を与えてくれたのだ。

 

 それだけに、フッサールがここからさらに「純粋意識へ!」などと言い出したときは、「なぜ独我論者になったんだ?」と失望の声が多かった。では、次はそのフッサールの二段階目のステップを踏むことにしよう。

 

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

世界を知るための哲学的思考実験

現象学入門 (NHKブックス)