第一章 リズムはどこにあるか
リズムという現象について。
- たとえば振り子。鹿威し。体内時計や心拍・呼吸。水面に落とした石を中心に広がっていく波。月の満ち欠け。天体の公転運動。
- リズムはどの文明においても広くみられる。リズムは言葉を知らない幼児にも理解される。リズムは共通語である。
リズム現象を観取する「特定の器官」は存在しない。
- 音楽は耳で聞く。点や線を目で見る。心臓の鼓動は内臓の触覚で感じ取る。またリズムというものは感覚だけでなく、知識も加わることがある。学ぶことで味わうことのできるリズムがある。
リズム現象は個人を越える。
- たとえばバレーボールの捕球、トス、アタックの連なり。このリズムはそれぞれの中だけにあるものではない。ましてや事前に取り決めていたものでもない。全員がそのリズムを捉えていなければ、連携は成功しない。
- たとえば指揮者とオーケストラの関係。
※人はコンサートを聞きながら、手拍子を叩くことが出来る。これは例えば「何分の何拍子」といったように表現される。だがこれ自体は、リズム現象の正体ではない。これは一種の素描であり、たとえば物体の運動がニュートン力学の通りに完全に言い尽くされるわけでないとの同様である。
リズム現象はどこにあるものともいえない。
リズム現象には「単位」がある。『リズムはその波動の切れ目ごとに独立した単位を形成し、それぞれの単位の完結性をめざす性質がある』
- 電車のガタンゴトン。時計のチクタク。運動のイチ・ニ等々。
- 短歌には内部に「5・7・5・7・7」の切れ目がある。舞台には「序破急」がある。
- その単位は、適当ではいけない。ただ区切ればいいというのではない。『全体はたんに部分の集合ではなく、部分の一つ一つのなかに全体が感じ取られるような生きた統一体』でなければならない。すなわち、『前の部分はたえず後の部分によって活性化され、新しく意味づけられて生き変わる』。
- 単純な歩行のなかにもリズム現象は見出される。踏み出しから着地のあいだに序破急を発見したのは世阿弥であった。世阿弥は森羅万象のなかにこうしたリズム現象をみる。
- しかし月の満ち欠けなど、自然のリズムのなかには単位の形成が弱い、完結性の弱いリズムが多くみられる。このことがあのアリストテレスにさえ創作の範囲においてしかリズムを捉えられなかったゆえんである。
リズムの本質はあくまでも一筋の流動(全体)に他ならない。しかし流動そのものはどこにもない。
- たとえば波が生じるのは水があるためであり、波がうねるのは水が質量をもつゆえである。流動そのものは物質とは異なる。
すべての流動には初めから何らかの抵抗が含まれている。一切の抵抗を欠いた空間において何かが流れることはない。リズムを起こすような流動をとりわけて純粋流動と呼びたいのは、純粋流動は媒体の変質によって途切れることもなく一貫して流れ続けるからである。こうした純粋流動の基本的な構造を「鹿おどし構造」と呼ぼう。
- 『鹿おどしに流れる媒体はまずは水であり、堰き止めるものは竹筒の一端に付けられた水受けである。水受けは水の力にしばし抵抗したうえで、やがて下に押し下げられて水をこぼすと、跳ねあがって竹筒の端を石に打ちつけて音をたてる。水の流れが続くかぎりこの運動が繰り返されて、鹿おどしはリズミカルな音を庭に響かせてくれる。純粋流動は樋を流れる水から水受けの水へと形を変え、そこで力を蓄えて爆発的に溢れると、最後は媒体を音に乗り換えて耳に届くのである。』(リズムの哲学ノート (単行本))。
- ここには序破急のリズムがある。
- 生物における個体は、生命全体の流れからみれば「堰き止め」といえる。進化においてはそこで一瞬、停滞が起きる。そして次の世代の誕生時に突然変異を起こし、個体の死と誕生の断絶において新たな進化の段階に進むのである。
こうしたリズムが人間の感覚の対象にならないのは見やすい。手拍子ならともかく、生命の進化史のリズムをいったいどうやって感覚しろというのか。川の流れならともかく、純粋流動は媒体を変えても一貫して流れ続ける。その流れをどうやって感覚するのか。リズムは特定の感覚器官によって捉えられることなく、突然に理解される。この伝動の仕方はきわめて独特である。もはや「リズムを感じる」という表現はミスリーディングなものとなってしまった。私たちはリズムを受け止める我々自身について改めて考え直さなければならない。