「気持ちを整理する」という。
部屋の乱れは心の乱れ、と思い、気持ちが落ち着かないときは整理整頓することにしている。この記事『気持ちが落ち着かないとき』では、その整理整頓をテーマに、思いついたことを適当に書き連ねて来た。今回はそろそろ気持ちの整理に話を移そう。
ぐちゃぐちゃの部屋を片付ける時、「さぁ、どこからやるか……」となる。この答えの出し方は人それぞれで、でかいもんからやったり、とりあえず手が届くところからやったり、ゴミ袋に放り込めば済むやつを先に片づけたり、さまざまだろう。にんじんがまさにその三番目であって、とにかくいらないものを捨ててしまう。袋にいれて終わりなら楽だし……。とはいえ、いらないと明らかにわかっているものに困る人は誰もいない。捨てればいいのだから。問題は、どうしていいかわからないもので、途方に暮れるということが起きる。気持ちも同じである。
どっから手をつけりゃええねん……。
そういう感覚は、気持ちが荒んでいるときのあの感覚と似ている。こまごまと色んなことが書いてあるノート、メモ……あれを一枚捨てるために中身を読んで必要かどうかチェックしなければならず、必要なら電子化したりファイルしたりしなければならない……めんどうくさくてたまらない。かといって投げ出すわけにもいかない。ただ部屋の真ん中で立ち尽くす。とりあえず部屋の隅に固めてみたりするが、そうしている人には「悪い虫」が寄りつくようになる。「祈れば部屋が片付きますよ」と言ってくるが、常識的に考えてありえない。「死後は部屋が片付きます」ともいう。「汚れていてもいいのだ。ありのままのあなた」「掃除テク! 今なら一万円!」などなど。お布施するならハウスクリーニングでも呼ぶのがよさそうだ。
ハウスクリーニングにはお金がかかるが、お気持ちの場合は購入時点で特典としてくっついていることをご存知か。そのハウスクリーニング業者従業員の代表のおばさんは「忘却」という。彼女はずっと使っていないものや使いそうにないものを問答無用で捨てていく。こいつのせいでたまに困ることもある。しかしこの人のおかげで、部屋はある程度まできれいで、ゴミ屋敷にならずにいる。この観点でいえば、あなたの部屋は雑然としているが、ゴミ屋敷ではなさそうだ。ゴミ屋敷であるということは、捨てることができないということだから。
でも忘却おばさんは、あなたが大事にしている遊戯王カードは捨てない。なぜかって、大事にしているからだ。大事にしていなくても、たまに触るものは捨てないし、何度も触るものはもっと捨てない。それが彼女の仕事。ちょっと不愛想で、こっちとコミュニケーションはまったくとらないが、見ているところは見ているおばさんだ。たいてい寝ている間に仕事をする。気色が悪いが、絶対に姿を見られないババアだ。
コミュニケーションをとってくるおばさんもいる。この人はなんて名前をつければいいかわからない。「理性」「知性」「思想」なんていったら高尚すぎて鬱陶しいしそれほど適当でもないから「山田」でいいだろう。この山田さんは、ひとつひとつ手に取って「どうする?」と聞いてくれる。相談しながら着々と片づけていくタイプのババアである。「どう思う?」と訊きかえすと一応意見もくれる。あなたはフムと考えて、捨てるかどうか決める。でもたいていの場合、あなたのなかの答えは決まっていて、その背中を押してくれるのが山田さんでもある。「でもそれを捨てたら〇〇さんにどう思われるかわかんなくて」「向こうだって大人なんだから、わかってくれるわよ」それで捨てられる。
忘却おばさんはサンタ並の仕事量をこなしているが、山田は一家に一人である。隣のあの人は佐藤さんで、向こうのあの人は鈴木さんというクリーナーがいる。たまにたちの悪いのもいるが、コミュニケーションをとるのが仕事だから向こうだって話せばわかってくれる。そこを向こうに流されてしまうと、とんでもないことになったりする。捨てちゃ駄目なものを捨てたりする。ちゃんと話し合いを重ねて、お互いに成長しなくちゃいけない。それに、さっきから山田さんをおばさん扱いしているが、彼女もあなたが小学生のときは小学生だった。彼女はあなたと一緒に成長し、一緒に死ぬ。
山田さんがいる限り、あなたの部屋は「時間」と共に確実に片付く。生活していく以上、毎日ごみも増えていくけれど、着々と部屋はきれいになる。忘却おばさんも手伝ってくれるし。
ところが問題なのが、あなた自身がゴミを持ち込み始めることだ。もちろんあなた自身はゴミとは思っていないのだが、アルコール中毒が酒を必要なものだと思っているようなもので、たいして当てにならない。あなたは完全にまいってしまって、何かに頼らざるを得ない。山田さんは舌打ちするが、一応仕事はしてくれる。だが毎日溜まっていくのでさすがに追いつかなくなっていく。忘却おばさんのおかげでゴミ屋敷にはならないが、新陳代謝がいい(ゴミの入れ替わりが激しい)だけのゴミ部屋が出来上がっている。
- 話はそれるが、単なるたとえ話以上に、「モノ」に頼るのは「まいってしまっている」ことの証拠だったりする。なにかにハードに依存しているひとや、ソフトに依存しているひとの、どのどちらもが「信頼障害」とでもいうような状態にあると考える説がある(人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション)。依存と聞くと、まずは薬物から思いつくが、あれがハードな部類で、日常生活を完璧に破壊される。ソフトというのは、アルコールとか、いろいろなありふれたモノで、一見したところ問題にはならないのだけど、いったん問題を起こすと「なんでそんなことを……」と呆れられる。表面的な問題が起きないので、本人は依存症ではないと思っているが、確実に日常生活に支障をきたしはじめているものである。彼らは他人に頼ることができず、他に対処の仕方もしらないので、それで発散してしまう。それを繰り返し、依存する。「依存性がある」と言われる物質も、確実に依存してしまうわけではなく「信頼障害でないだろうひとたち」には効きづらい。彼らはそんなものに頼らなくてもいいからだ。
あなたがこさえてくるゴミは「考え」である。ああなったらどうしようという「不安」でもある。人は不安を感じやすくできている、と言われる。それぞれが、一人では生きていけない弱い個体だからだ。しかしこれが行き過ぎると、あっという間に汚部屋ができあがる。
問題は、この不安をどう消すかである。
正攻法でいけば、ひとつひとつ不安を消していくことだろう。はっきりいって、この作業は絶対にやらなければならない。哲学はそのためにあるのではないかと思えるぐらいだ。しかし一方で、「あの人は俺のことを好きなんだろうか……?」とかいう回答不能で解決不能な問題は、手に余る。いくら貢ごうが優しくしようが、「お前の発音が気色悪い」と言われてフラれることもある。相手の気持ちはどうにもならない。だから色々な幸福論では「どうしようもないことはあきらめろ」と言っている。
だがあきらめろと言われて、ハァイと言えるだろうか。「あなたは将来的に絶対死にます。しかし死は体験しませんので心配しないでください」と哲学者エピクロスに言われて、誰が「なるほど。恐怖が消えました」となるのだろう。そこまで簡単なら全員悟りをひらいている。ならどうすればいいのか。
ここで紹介したいのが、仏教の「数息観」である。にんじんは仏教徒ではないし勧誘でもないので安心して欲しい。これは特定の対象に意識を集中するサマタ瞑想の一種で、「安那般那念(あんなぱんなねん)」とも呼ばれる。瞑想するうえでの準備体操みたいなもので、座禅を組むときにもまず教えられることが多いそうだ。これは「利用」できる。考えない方法として、適している。
具体的にどうやるのかというと、呼吸をする。スー、ハー、で「1」、スー、ハーで「2」、スー、ハーで「3」……数をずっと数えていく。スー、ハーで1セットなので、「いー…ちぃー……」という感じになる。空気が入っていくのを感じながら、出ていくのを感じながら、数を数えていく。途中で数がわからなくなったり、間違えたら最初からやり直して、これを100まで続ける。①数を数える、②出入りを意識する、このふたつだけで考え事がギュッと減る。