「悟り」とはなんなのか
仏教の最終目的は「悟り」「解脱」「涅槃」である。だが、これがわからない。
釈迦の教える生活の基本条項は『労働の否定』『生殖の否定』であり、ブッダ本人もそれが「世の流れに逆らうこと」(『聖求経』偈)であり欲望に流され楽しむ人々には理解できないだろうと言っている。もちろん在家の信者にまでここまで厳しい教えを守れとは言っていないのだが、最終目的が悟りである以上、彼らも最終的には《異性とは目も合わせられないニート》(p.35 仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―)になることが求められる存在である。仏教はまず「人間として正しく生きる道」という誤解を取り去って、理解されなければならない。仏教の最終目的はこの悟りであるから、瞑想によって人格をよくしようとかいう意図はないし、いいことをしようとかは二次的な問題なのである。マインドフルネスの目的は、放っておけば対象への執著に流れていく煩悩のはたらきを気づきによってせき止め、智慧によって塞いでしまうことで、悟りに至ることだ。
仏教とは「転迷開悟」、つまり迷いを転じて悟りを開くのが目的の宗教である。これは一言でいえば、《衆生がその『癖』によって、盲目的に行為し続けることを止めること》(p.42)である。私たちはこれまでに多くの反応パターンを身に着けてきており、それに盲目的に従って喜んでいる。これはいわば自然選択によって得た我々の欲求のことだといえるだろう。その欲求には終わりがなく、常に、必ず、不満足に終わる。これが「苦」である。苦を避けるためには、そうした欲求を打ち捨てる必要がある。そうしてこの打ち捨ててしまうことを「悟り」と呼ぶのである。
煩悩の流れをせき止めることが悟るための唯一の道なのだが、当たり前のように、そこから悟るのはそれほど簡単なことではない。もしあなたが「よし今日から女に余計なイメージを持たずに単なる現象として見よう」などと思ったところで数日後にはPornHubである。ジブリ飯を見ておいしそうなどと思ってはいけないし、タランチュラが腕に這ってようが叫んではいけない。ゴキブリなんてただの現象だと思っても飛ばれるとキレるだろう。釈迦がマジで悟ってるとすると、どれだけヤバイ(すごい)ヤツかがわかる。多分拳銃突き付けられても平然としているし、アイアンメイデンに入れられても真顔だろう。
さて、事実として釈迦は病気になって死んだ。悟ったわりに普通の死であるが、彼は悟っているのだから、亡くなるときには生老病死というものが単なる現象の継起にすぎないことをはっきりと把握していたことだろう。
一番の問題は彼が死んだことではない。なぜ悟った時点で死を選ばなかったのかである。悟った時点で、釈迦は人間というものが単なる現象にすぎないことを理解した。ならなぜそんな人たちを教えてやらないといけないのか。それは少なくとも優しさではないし、愛情でもない。人々が哀れだったわけではない。ただ輪廻しているという、それだけのことで、良くも悪くもない。説法してやる意義も必要性もまったくない。
とすると、釈迦は「遊んでいた」ことになる。悟ったあとの世界を楽しんでいた。必要性など一切ない遊び。意味など無い。釈迦は悟る才能のあるものだけ説法してやり、悟らせてやることにした。別にいいことをしているつもりではない。
釈迦は世界で生きている人々を悟らせるためには、世界のことばで語ってやらなければならないと気づいていた。「物語」で人々を悟りまで少しずつ導いていく。原始仏教はその物語の一つに過ぎない。覚者によって物語は様々ありうるが、それが仏教の多様性に繋がっているのである。
carrot-lanthanum0812.hatenablog.com
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