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にんじんと読む「心の進化を解明する(ダニエル・C・デネット)」🥕 第二章+第三章

第二章 バクテリアとバッハの間に

 最初期の生命形態でさえ、それは既に複雑で秀逸きわまる自己維持システムであった―――と書くと、ちょっと妙な気がするかもしれない。

 問われているのは非生命から生命への道筋、つまり、

可能な出来事がいかに配列されれば、奇跡なしで、漸進的に、必要な諸部分が問題の作業(自己複製)を達成するための、正しい配置へと集められるに至るのか?

心の進化を解明する ―バクテリアからバッハへ―

  である。私たちが選ぶ道はリバース・エンジニアリングしかない。つまり、「生命ある自己複製的な事物」の最小の条件を突き止め、その時にある素材の在庫(〈前生物化学供給源諸分子〉と呼ばれる)からそこへ至るための出来事を並べていくのである。

 

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)
 

 

第三章 理由の起源

 

 

 

 

  ところで、そのような配列には「理由」があるだろうか。自然選択による進化はまるで、デザイナーが「こうするともっとうまくいくな」と思ってそう決めたかのように作用する。注意すべきなのは、理由という言葉は文脈によっては原因を意味することがある。それはいかにしてそうなったかという過程記述を求めるものだ。

  私たちが出発する最初の世界には、理由も目的も一切存在せず、ただいろいろな過程が生じるだけなのだろうか。そうしていつかの時点で理由が生じてくるのか。私たちは理由を問い合うゲームを、常にではないものの、日々営んでいる。どうしてそうしたのと訊かれて応答を返せるということが責任能力というものの根源であろう。答えられない人は法的に、通常とは異なった処遇を受けることになってしまう。私たちはこの理由確認のゲームをイルカ、オオカミ、チンパンジーなどのヒト以外の種が行わないので、一体どうやって協力行動を行うのかわからなくなるほどである。

 ウィルフリッド・セラーズは、お互いに理由づけし合うというこの活動を、理由の論理空間の設立であると述べた。この空間に満ちているのはゲームプレイのためのさまざまな規範である。ゆえに理由あるところにはなんらかの種類の正当化と、間違っていた場合の修正の余地、およびそれらの必要性が存在している。このような規範性が倫理というものの基礎であろう。すなわち、理由の提供がいかになされるべきかを見極める能力なしに、どう生きるべきかを見定めるのは無理だ。

 さて、このような営みはいかにして今ある通りになったのか。今までずっとそれはなかったはずなのに! 哲学者たちはそう問わなかったがために、ある2つの規範の区別を失ってしまったように思える。つまり社会的規範性と道具的規範性である。この二つの違いは、よい行いとよい道具について考えてみればいい。よい行いは不器用だろうが目的達成に失敗しようがよい行いである。一方、よい道具の中には効率よく人をぶっ殺す道具が含まれていても全く構わない。それぞれの〈よさ〉の否定は、不品行と愚かである。

自然の中のさまざまな理由を識別できるようにする視点を創り出すためには、このいずれの規範性も必要なのである。

心の進化を解明する ―バクテリアからバッハへ―

  理由はよい理由であることが常に想定されている。よい理由とは該当する特徴を正当化する理由である。いかに生じるかという疑問においては、必ずしもこの正当化は必要とされていない。目の前になにかがあるとしよう。構造は大体わかってきたのだが、謎のツマミがある。謎だというのはつまり、何の有用性も見いだせないということであり、私たちはふつう、そこにツマミがあることでなにか「よい理由」があるはずだと思う。

 私たちが進化を見るとき、つまりリバースエンジニアリングによってこれはどうしてこうなったんだろうと考える時も、この営みの中にある。「どうして自然選択(あるいは神的なもの)はこれをここにつけたのだろう」といいたくなる。

 

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※ ここから先の記述がよくわからない。デネットは、「理由表象者が存在するずっと以前から理由は存在していた」という。潜在する「理由」は、浮遊理由と呼ばれ、私たちによって見つけられる。シロアリが蟻塚をどうしてそう建築するのかを理由を知らないように、まだ知られていない理由があるというのである。たとえば立方体の角がいくつかというのは人間が見つける前から決まっており、たとえるなら浮遊理由は「数字」ではなく「数」に類するものだという。

 どの生命体にも知られていないような「理由」という概念に関わる問題である。にんじんはそんなものがあるとは到底思えない。とはいえ、この点については慎重にならなければならない。というのも、言語的に指示されなければ理由などないというのは、言語を持たないヒト以外の動物を一気に〈機械化〉しかねないからである

 

~~~~~~~一応、途中まで書いたものを下に載せる。~~~~~~~~~~~

 

 

 

 まず考えられるのは、理由を求めることが前科学的思考から持ち越された時代遅れのものなので気にする必要はない、というものだろう。しかし別の可能性もある。そして本書としてはその可能性を擁護する―――「理由は理由表象者が存在するずっと以前から存在していたのであり、その理由は進化によって明らかにされてきた」

つまり世界の中には、〈一定の実在的パターンが存在するための理由〉と呼ぶにふさわしい実在的パターンがあって、〈自然〉はこの実在的パターンの理由という実在的パターンを発見するために、そのような思考道具を私たちに与えていた、という可能性である。

心の進化を解明する ―バクテリアからバッハへ―

 これを理解するためには進化そのものがいかにして始まることができたのかに目を向けて見なければならない。前生命的な世界は完全にカオスであったわけではなく、数多くのサイクルがあった(四季、夜と昼、あるいは原資と分子のレベルに見いだされる化学サイクル)。そのサイクルは始まり、また始まるその間に、何かを積んだり・動かしたり・ふるい分けたりなどの何かを成し遂げる。これをずっと繰り返し少しずつ世界を変化させていく。これらのサイクルの周期はそれぞれに異なり、並列に処理されていく。まるで工場において、こちらではこの部品を作り、ここでは一か所に集め、運ぶなどの大量生産に似ている。ただ無生命界においてはここに計画も動機もない。時折、違う部分と違う部分が結合する。その結合体はやはり同じようにサイクルの影響を受け、たいていは壊れてしまうが、時にはたまたま、もちろん傷だらけになりながらも、しばらく存続することがある。そしてその存続によってそれはひとつのものとして、またべつのものと結合する。そうしてこれがあるときから、存続の特殊例としての自己複製へと至るのだ。存続するための壁や膜ができ、といったような過程もあっただろう。

 つまり、私たちは自己複製体を得る前に、既にある程度有能な存続体を手に入れることができる。もしそこに立ち会うことができたなら、私たちはサイクルによって非機能的なものが削ぎ落されていくのを目にするだろう。この時代をしばらく行くと、遂にバクテリアに到達する。そのバクテリアはそれまでに培ってきたいろいろの機能を有していることだろう。これを換言すれば、バクテリアの諸部分がそのようにある理由が存在するということである。もちろんバクテリア自身はそんなことは知らないが。この意味で、『自然選択とは自動化された理由発見器だということになる』。

 

 「理由? それは原因なのでは?」

 

 ここに突然変異体が数多くいるカブトムシの個体群を考えよう。一部の個体は繁殖にあたってうまくやるが、他の大多数はそうはならない。ではうまくいった個体群のほうに目を向けよう。なぜそいつらが平均よりうまくいったのか? そこには大抵のばあい、理由などないのだ。それは単に運が良かったにすぎない。ここで私たちが手に入れることができるのはいかにしてその個体群がうまくやったかという過程記述だ。理由が手に入るのは、