にんじんブログ

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にんじんと読む「だれもが偽善者になる本当の理由」🥕

 私たちの行動が一貫性を欠くのは、「心」の成り立ちそれ自体に原因がある。「心」は多くのアプリケーションから成り立っている。iphoneアプリに見られるように、それぞれは独自の論理に従って駆動する。人の行動はどのアプリを使うかによって変わるので一貫性がなく、しかも同じアプリでも時間が経てばアップデートされて変化していく。そうして残念なことに、私たちの意識はそうした働きに達することが、ほとんどの場合、できない。そのために、私たちは自分のなかに対立が起こっていることにすら気づかない。

 このようなアプリたちは進化の過程で生じて来たものだが、最初は微小なパーツがぶつかり合うなかでたまたま合体し、合体を維持できたものが次なる合体へ進んだ。その合体維持はある環境において成り立つ偶然的なものだが、私たちはそれがある程度の段階まで達すると「それが〇〇のためにそうした」と目的論的に語ることを許す。自然選択がなにかの問題に対処できるのは、その問題に規則性があるからであり、すなわち、解決の方法に規則性があるからである。それらの解決法歩のうち、直面した課題に十分効率的に対応できたものが、進化の次のステップへ進む。たとえば人体の各器官の役割が専門性を持っているのは、進化の過程で得た効率性の追求のためである。

『特殊化は効率を生み、効率は進化の過程のもとで優位性をもたらすので、生物の身体や脳には、相互作用する一連のモジュールの集まりという形態で、機能の特殊化が生じたのだ。』(p.59)

 カレンダーのアプリに予定を入れると、他のアプリにそれが反映されることがあるように、アプリとアプリのあいだにはつながりがある。しかしいつもそうであるわけではない。これは心にも同様に成り立つ。

 私たちは「アプリケーション」という言い方をしてきたが、機能にもそれを働かす機能があるのもたしかである。つまり、私たちが目の前にして、意識して使うことのできるアプリとそうでないアプリがあるということだ。そして一方、何らかの機能はいつも身体の内で場所を持たなければならないわけではない。脳にはさまざまな働きがあるが、その働きを司る部分がただひとつ、脳内に見出されるわけではない。脳もまたさまざまなシステムから成り立つ。

 さらに重要なのは、アプリケーションの「使い手」、iphoneの「持ち手」は心の場合には存在しないことである。脳の中に本当の私が存在して、それが身体を操縦しているわけではないのだ。『人間の脳は、意識を持ついくつかのモジュールと、意識を持たない多数のモジュールから構成される。また、意識を持たないモジュールの多くも、潜在的に重要な役割と持ち、感覚器官から入力された情報を処理したり、意思決定を下したりする』。

ならば、どれか一つの、もしくは一連のモジュールを、その他のモジュールに比べ、より「あなた(you)性」を持つものとして特定することは、こっけいに思われる。

だれもが偽善者になる本当の理由

 私たちは「自己」というものを語る時、いったいどこが自己なのかと問いたがる。どこの部分を自己と呼ぶことにしても構わないが、少なくとも、それは「操縦者」「責任者」「総括」という意味ではありえない。

 ではこれは? 私たちがいま感じている「私」はいったいなんなのか。日頃、ご飯を食べようとかいろいろ考えているこの「私」こそが「自己」ではないのか。しかし残念ながら、これも責任者ではありえない。リーダーではない。この意識も、さまざまな下位システムの総合によってもたらされる一つのアプリケーションに過ぎないのだ。そのアプリケーションに名前をつけるとすると、「大統領報道官」だろう。

 私たちというこの全体のなかには、他者とのコミュニケーションに役立つ機能を持つ。そしてコミュニケーションは他人の思考を誘導するのに役立つ。するとそれらシステムはこの目的に資するために設計されているはずである。報道官の役割は、ホワイトハウスや周辺で起こっているさまざまなできごとを外部に伝えることだ。だが、いつでも真実を語るわけではないし、いつでも真実を知らされるわけではない。

 

 このことは私たちの有する「信念」とやらが、いかに頼りないものであるかを明らかにする。残念ながら、私たちには私たち自身から何も知らされていないのである。このことを言い換えれば環境からの入力に対して、意識に知らされない信号がある。それは私たちの内側でシステムの役割に応じてせっせと働いているが、私たちに意識されることはない。通知がない―――「ジョンはXを信じている」という簡単な文にしても、問題がある。Xについての「ジョン」の信念! Xを処理するアプリはいくつかあるというのに、私たちは「信じる」という機能をもつシステムにだけ着目し、それを過大視している。システムAではXを「信じ」、システムBではXを「信じない」こともありうる。そして信じる信じないもなく、意識にさえのぼらないシステムCにおいては、ただ入力に応じて処理される。

 真理というものを求めることは人間にとって役に立ち得る。だが正しいことがいつだって役に立つわけではない。そこで人間には間違った信念を持つように働くモジュールがある。無知は長所となりうる。勘違いも力になりうる。