第四章 二つの奇妙な推理の逆転
ダーウィンがもたらしたものは神≒人間→その他というような創造理論(トリクル・ダウン理論)から、バクテリアなどの単純な生物から動物へと至る創造理論(バブル・アップ理論)への逆転であった。これを否定したい者たちは、進化によって生まれることが不可能な何か、名づけて「スカイフック」を探してきたが、それらは奇跡で生まれたものでもなんでもなく、むしろ次の段階へ進化を進める「クレーン」であることが発覚した。たとえば内共生、性などはクレーンの例である。
次に語りたいのは、チューリングによる逆転である。彼が示したことは、それ自体はなんにも知らない絶対的無知な存在でありながら、機械的な命令に従って算術的計算を完全に行うことができるような、無精神的な機械をデザインする可能性である。条件文気を含む単純な命令によって、目覚ましい有能性を得る! これは〈理解力なき有能性〉という発見である。私たちは理解力こそ有能性の源であると考えてしまっている。子どもには足し算や引き算ではなく、まず集合論などの数学の基礎を叩きこめばなんでもできるようになるだろうと思ってやり始めた試みは失敗した。それに比べて、軍隊はまず「叩き込む」。そうして彼らは平均的な高校生を有能な専門家に変える。
有能性は常に理解力に依存しているわけでゃなく、時には理解力に対する前提条件になることもある。
この逆転によって、「まず心ありき」から「心は最後に」というビジョンを据える。
存在論。この語はある人物が存在していると信じる「事物」の集合、または何らかの理論によって定義されあるいは仮定される事物の集合を指す。ホッキョクグマの存在論には休暇は含まれていないが、雪やアザラシは含まれている。あなたの存在論には幽霊は含まれるだろうか? 人間は多様な存在論を備えているが、そこには共通の核心があって、ウィルフリッド・セラーズは外見的イメージという名を与えた。他人や植物、動物、家具、家、車……これらは生活の中での相互の関りや会話をつなぎ止めるために用いる。これが『外見的』イメージと呼ばれるのは、誰にとっても明白であり、明白であることも誰もが知っており、誰もが知っていることをだれもが知っているからである。母国語を身に着けるとともに生じる私たちの世界であるが、これと対照させられるのが、科学的イメージである。生活のなかでクォークなんかに出会うことはない。物理学者ですら外見的イメージに基づいて生活している。
ヒト以外の動物は拡張されたイメージを持つだろうか。というかそもそも人間の外見的イメージとヒト以外の動物の外見的イメージは同じだろうか。
エレベーターの存在論を考えてみよう。エレベーターはいろいろなことを気にする。たとえば押されたボタンなど。
エレベーターと生物の間には共通点がある。
- エレベーターの動作はその環境に対して目覚ましく適切なものになっている。それはすべての動作を正しくこなす、優良なエレベーターである。
- このような卓越性はそのデザインが正しい存在論を備えている、という事実に基づいている。
- エレベーターは自らの存在論がいかなるものであり、あるいはなぜそうなっているのかについて知る必要がない。エレベーターはプログラムの理由など知らない。シロアリが蟻塚の建築をどうしてそうするのかを知らないように。
理解力とは、すべてのデザインがそこから流出してくる神のごとき才能などではまったくなく、むしろ理解力なき有能性を備えた諸々のシステム――一方にあるのは自然選択、他方にあるのは心を欠いたままなされる計算――からの創発的現象である。