インダス文明の栄えたのち、アーリア人たちが進出してきた。そこでできたのが『リグ・ヴェーダ』などの「聖典」である。ここに生じた階層制度に現代のカースト制の起源を見ることができるそうだが、仏教の基礎にある「輪廻転生」の考え方もアーリア人との混交によって生じてきたものであるらしい(輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書))。
いわゆる「生まれ変わり」には3つの型がある。
- ひとつは、古来からある「再生型」の物語である。人間は自然の一部であり、雨が川に流れ、雲にのぼり、また雨になるように、循環するという思想だ。この思想は明文化されているというよりも生活のなかに深く織り込まれた民俗学的にいう基層文化であり、各地に再生の考え方が見られる。この場合の転生は親族や友達といったような近しい人間であると考えられることがほとんどで、また、儀式などの人間からの作用によって霊界に働きかけることができるとも素朴に信じられている。ちなみに、一人の人間が複数に転生することはふつうにありうる。そのため、生まれ変わったからといって霊界から祖先が全員消えるわけではない。
- ふたつめは「リインカネーション型」である。これはいわゆる西洋のもので、死んだら魂が天に行く。天は、まさに天国のような場所である。しかし彼らは生まれ変わりを望む。それは「次はもっとうまくやる」ためであり、霊は災難を引き受けそれを克服することによって「進歩」できると考えられている―――にんじんのフォロワーが間違いなく激怒するであろう「赤ちゃんはお母さんを選んで生まれてきた」という考え方の根元がここにある。これは災いが起きることの理由を説明する災因論の一種であり、その原因を霊界の私たちに課してくる。なぜ災いが起きるのか、それはあなたが望んだからだ、というわけだ。選んでねえよといっても、まったく効果がないところがマジでたちが悪い。母親を選ぶどころか、生まれることすら選んでいない。というか、この論法でいくと、親の出産に関する責任が過分に軽減されてしまう。にんじんは反出生主義に与するものではないが、産む以上は「生まれてきてよかった」と思ってもらえるように最大限親は努力する義務があると感ずる。 ……反論するだけ無駄だと感じさせるところも、この説を好意的に思わない理由のひとつだが。このことは中絶の問題とも絡む。もし生命を生みだすことに対する約束を、当の子に誓うことできないなら、やめたほうがいいだろう。「見たこともない子に誓えない」というのはわかるが、向こうは「見たこともない親」にすべてを委ねるのだから保護されるべきは子である。そしてこの責任は、親よりも弱いとしても、親以外の人間にも及ばざるを得ない、と考えるのは自然の展開ではないかとぼんやりと考える。とはいえ、この点は親から子に対する約束が永久的なものか、自立した実践者に至るまでなのか、そこで弱まるのか、などによって帰結はいくばくか変わらざるを得ない。いずれにしても、小学生に手を出す犯罪者などは許す理由がまったくないのは言うまでもない。これが「教師」などというものであるなら、なおさらである。それはとんでもない悪行で、よほどのことがない限り社会で生活していただくわけにはいかない、という運びになる。
- 話が逸れた。三つ目に登場するのが「輪廻型」である。これは「再生型」を改変したものだが、もはや輪廻にはポジティブな意味合いがない。人は転生することができるのではなく、「転生してしまう」。そしてここに、輪廻から逃れるということ、「解脱」という概念が生じる。
釈迦もまたこの輪廻型から出発したが、彼が達したのは無我であった。無我であるなら輪廻転生は維持できないのではないか? なぜなら、「輪廻転生するというなら、一体何が、輪廻するというのか?」という問いに答えられないから。だが釈迦はこれを維持したまま、無我を説いた。これについて、『空と無我 仏教の言語観 (講談社現代新書)』においては、「わたしは仏教から学ぶべきものとして、輪廻の思想は除外してよいのではないかと思う」として、「幼稚」とさえ評しており、当の循環するものがなんであるかについては「精神」であるとしてはいるが明確に答えていない。一方、『仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―』においては、輪廻するのは「業による現象の継起」そのものであるとしている。つまり輪廻するのはモノではなく、そのプロセス自体である、と。無我と調和することは間違いないが、少なくとも私たち個人とはなんの関係もなさそうに見える。釈迦は自殺しようとする少女を止める際に、比喩を用いて次の転生のことを持ち出しているが、これが少女自身となんの関係もないなら、止める理由になっていない。
釈迦によれば、私たちが自明視している「我」というものは五蘊、つまり五本の糸によって成り立っている。死とはこの糸がばらばらになることである。しかし一体となっていたことで、糸には「あと」がついている。これが業である。悪い行為によって糸の状態が悪くなり、次に糸が織られるときに悪い結果となるのだ。織られるのが転生であり、この場合、糸が輪廻している。そして糸はもちろん「我」ではない。……
しかしやはり、にんじんは前後の二つの姿に関係があるものとは思われない。だが「輪廻思想」は仏教の基盤であり、簡単に捨てることもできない。なぜなら輪廻がなければ、解脱する必要もないのだから。釈迦は一体何をやっていたのかという話になってしまう。
その後、仏教は釈迦のいった「五蘊」の研究にとりかかるが、それを実体視してはいけないと批判し、釈迦の真意を説明しようとしたのが””龍樹””である。