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にんじんと読む「ふわふわする漱石(岩下弘史)」🥕 第四章

第四章 「創作家の態度」と「ばらばら」な世界

 『創作家の態度』は『文芸の哲学的基礎』のおよそ十か月後に発表された。内容は「創作家」の「態度」、つまり「心の持ち方、物の観方」である。曰く、われわれの心のなかには焦点があって、入れ替わり立ち代わりしていくが、「態度」はこの焦点の取り具合と続き具合で決まる。焦点はわれわれの取捨によって決まり、取捨は注意に伴って決められるから、すなわち注意の向きや加減で「態度」が決まる。

 この「態度」の違いは十人十色のさまざまな世界観を生みだし、すなわち「世界」をも生みだすという。何がリアルな世界であるかは、それぞれの人が持つ注意の習慣によって決まるのだ。たとえば科学者と宗教家は世界についてまったく異なった見解を持つ。このような「世界」理解を踏まえれば、漱石の作品に出てくる「世界」という語彙にも違った見方が出てくるだろう。例えば『虞美人草』の小野さんは「色相世界に住する男」であり、小夜子は「古き世界」から「明かなる世界」へ移行する存在として描かれている。『三四郎』では、三四郎には三つの世界ができたと言われ、「一人の一生には百の世界がある」と『虞美人草』で書かれるとおりである。

 漱石は一人ひとりが異なる世界に生きていること、それを認め自身の道を切り開いていくこと(「西洋人のいふ事」に「盲従」しない、「私は私の意見を曲げ」るべきではない)によって、「自己本位」という思想に至ったと考えることもできよう。とはいえ、異なるバラバラの世界に住んでいるということに、漱石は淋しさも感じていた。そしてその「自己」であっても記憶が連続しているだけで本当はバラバラなものだとも感じていた。漱石は「自己本位」を唱えながらも、その裏面で、人と人とが、そして自分の心がばらばらになることの「淋しさ」があったのである。

 私たちは別々の世界に住んではいるが、たいていの場合、一致したものの見方をしている。漱石はその事実を確認しながらも、一方で、一致がいくらたくさんあっても違う世界に住んでいることには違いないという不安は感じていた。

各自の舌は他の奪ひがたき独立した感覚を各自に鳴らす自由を有つてゐるに相違ない。けれども各自は遂に各自勝手で終わるべきものであらうか。己れの文芸が己れだけの文芸で遂に天下のものとなり得ぬのであらうか。それでは情ない、心細い。散り散りばらばらである。何とかして各自の舌の底に一味の連絡をつけたい。さうして少しでも統一の感を得て落ち付きたい。

 どれがいいとか悪いとかいう評価をするのは自分だし、いいと思えばいいし悪いと思えば悪いのだが、それで話が終わってしまっていいんだろうか、と言っている。作品を書いても「天下のもの」にはならず「己れだけの文芸」で終わっていいのか。個人主義的な世界が確立されたあとの人と人とのつながりの問題だ。

 漱石は『道楽と職業』のなかで、公会堂のようなところで時々講演者を聘して知識上の啓発をはかったり、社交機関を利用するのも一案だが、特に「文学書」を読むことをすすめる。その理由は文学書が「多く一般の人間に共通な点に就て批評なり叙述なり試みたものであるから、職業の如何に拘はらず、階級の如何に拘らず赤裸々の人間を赤裸々に結び付けて、さうして凡ての他の障壁を打破する」からである。打破する文学は、「人間の窮屈を融かし合ふ」ようなものでなければならない、という。

 このことは「還元的感化」の議論と似ているが、まったく同じではない。私の意識を「oneness」に戻すのが還元的感化であったが、ここではさらに「融かし合ふ」必要があることがいわれている。これがジェイムズの『多元的宇宙』とつながってくるのである。