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にんじんと読む「〈つまずき〉のなかの哲学」🥕 第二章

第二章 ヴィトゲンシュタインの人生論

 ヴィトゲンシュタインは〈謎〉を、次の形式を持つものであると言った。

私が答えとして受け入れたくなるようなことをしなさい。ただし、私自身はそれがどのようなものであるか知らないが。

おとぎ話に出てくる王様がお姫様に向かって投げかけた、「裸でもなく服も着ないで参上せよ」という無理難題のようなものだ。お姫様は漁師の網を身にまとってやってきた。これでは裸であるとも服を着ているとも言えない。王様は実際のところ、彼女に何をしてほしいのか分かっていなかった。だが彼女がこのようななりでやってきたとき、王様は彼女がしたことを受け入れざるを得なかった。それは「私が『裸でもなく服も着ないで』と言いたくなるようなことをせよ」という形式の問題だった。それは数学的な問題と同じものである。「私が問題の解決として受け入れたくなるようなことをせよ。ただし私はさしあたりそれがどのようなものになるのか知らない」

 数学的な問題と同じもの、と言われている部分が妙な感じがするが、これは単に「~とは何か」というよくある問いかけと同じ見かけをしているという意味に解釈してよい。だが見かけは同じだけで、ちっともその内実(聞きたいこと)は同じではない。

 にんじんはよく「キャロランタンに行かないか?」と言うが、キャロランタンなどいくら検索しても地名としては出てこない。これは別種の問いなのである。つまり、それは事前に教えられた規則にしたがって答えを出すような営みではない。

 〈謎〉は、答えを与えられてはじめて、その〈謎〉自体をどのように理解すべきかを理解できる。つまり、〈謎〉において重要なのは答えであると同時に、それがなぜ答えになっているのかという理由を既に理解していることだ。これが意味するところは、私たちはいわば、〈謎〉の解決をすでに目の前に見ているにも関わらず、それが解決であるとまったく気づいていないのだ。

謎の解決において重要なのは、探し求められているのが解決だということを知っているだけでなく、どの点においてどのような仕方でそれが解決であるかをもしていなければならないということである。

『言うことと、なにも言わないこと』ジャック・ブーヴレス

 ヴィトゲンシュタインは、哲学者をこう例えている。「紙の上に鉛筆で色々書きなぐってから大人に「これ、何?」と訊く幼児」。彼にとって哲学的問題の解決とは、まさに、目の前に見えていた出口に気づかせ、なぞなぞが解けた後の「なんだ、そんなことか」という気分にさせてやることである。