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「物語論の位相」と読んでみた!🥕

 本日のテーマは物語論の位相」です。

 

物語論の位相―物語の形式と機能 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

物語論の位相―物語の形式と機能 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

 

 物語の定義

 物語とは、現実であれ虚構であれ、少なくとも二つの状況・事象の時間連鎖のかたちでの再現表象であり、さらに、その二つの状況・事象いずれも他の一方を前提としたり必然的に伴ってきたりしてはならない(物語論の位相―物語の形式と機能 (松柏社叢書―言語科学の冒険))。

 

 (1) 薔薇は青い → ×

 (2) ジョンはとても金持ちだった、その後、彼はギャンブルに走り、そしてとても貧乏になった → 〇

 (3) 人間はすべて死ぬ。ソクラテスは人間。ソクラテスは死ぬ。 → ×

 (4) ジョンは部屋から出た → ×

 (5) メアリーはオレンジ・ジュースを一杯飲み、それからミルクを一杯飲んだ。〇

 (6) ジョンは部屋の中にいた、その後部屋から外に出た、その結果部屋の中にはいない → ×

 

 

 物語で用いられる記号の集まりは、「物語るものの記号」と「物語られるものの記号」の二種に分けられる。前者は語りの行為や語りの行為自体の起源や目的を再現表象し、後者は報告される状況・事象を再現表象する。

  •  物語るものの記号の中には、たとえば語り手、聞き手、叙述(語る行為自体)についての記号が含まれる。
  •  物語られるものの記号の中には、作中人物、作中人物の行為に要する時間、行為が生起する空間などについての記号が含まれる。

 

物語るもの

語り手

 すべての物語には少なくとも一人語り手がいる。物語る「わたし」が、物語に現れることもあれば現れないこともある。そしてたとえ「わたしは冷蔵庫に行って、缶ビールを取りだして飲んだ」と言っても、語り手が事象を報告しながら、それについて考えていることや叙述に対する態度などはわからない。

 しかし、明示的に「わたし」と言わなくても、語り手を再現表象し物語中の語り手の存在を明示する記号が顕在する多くの物語が存在する。

 

 語り手の人となり、態度、語られている世界以外の他の世界についての知識、報告されている事象についての理解・評価を再現表象する物語中のあらゆる記号は、「わたし」の記号を構成しているのである。

物語論の位相―物語の形式と機能 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

  •  人間というものは実にすばらしい。ジョンは貧しく病気がちだった。だが、ジョンは自分の運命を変えようと努力を重ねた。そして、なんとか豊かで健康な身になったのだった。
  •  ブロードウェイでよく見かけるようなけばけばしいネクタイを彼はしていた。 

  「昨日」「多分」「明らかに」「ここで」といったような言葉も、語り手の時空間的状況・態度などを示すだろう。

 

<語り手の特徴>

 このような語り手の介入性には、程度の差がある。もっともわかりやすいのは「読者諸君」と呼びかけて始まる記述だが、わかりにくいのは「皇帝ナポレオンの誕生は、歓喜をもって迎えられた」という記述であろう。語り手はその新生児の運命を知っているのだから、ある程度語り手のいる時代は絞れるというわけだ。

 少々議論が分かれるのは「ジョンは優雅に歩いた」である。優雅だと評価しているのは語り手だろうというわけだが、ちょっと賛同しかねる。本当に語り手が優雅だと思っているとは限らない。

 

 この介入性を密接に絡むのが語り手の自意識性である。「読者諸君」などと呼びかける例では、自分が語っているのだということを他よりも意識していることだろう。そうとはいえ、「自意識的な語り手は常に介入的である」は正しいとしても、その逆は真ではない。たとえば『ブロードウェイでよく見かけるようなけばけばしいネクタイ』と言った語り手は介入してきているが自意識的ではない。

 

 このように考えてくると語り手の信頼性も問題になる。語り手が嘘つきで、言葉通りには受け取れないケースだと信頼性がまったくないといえる。そうとはいえ、信頼できる語り手だからといって読者と意見の一致をみるわけではないことには注意を要する。記述に信頼はできるが価値観が歪んでいる語り手もいるだろうし、まったく信頼はできないが読者にとって魅力的な語り手もいることだろう。

 

 最後に、語り手が物語られる事象や提示される作中人物および聞き手からどのぐらいの距離を持つかも重要な要素だろう。時間的な距離(「昔々」)、肉体的な距離(「小人」の話)、知的な距離(語り手の知能)、道徳的な距離(「非道徳的な語り手」など)、情緒的な語り手(語り手が全然心動かさない)等々。任意の距離は物語の進行に連れて変化することがある。

 

 介入性・自意識性・信頼性・距離は語り手を特徴づけ、また、物語に対する解釈や反応に影響を及ぼす。

 

<語り手ー作中人物>

 語り手が作中に参与する場合と参与しない場合がある。これに参与しているとき、その物語は一人称の物語と呼ばれる。たとえばフィッツジェラルドの『偉大なるギャツビー』はギャツビーとの関わりを回想した物語であり語り手が参与するし、夏目漱石の『坊っちゃん』も坊っちゃんがその半生、特に教師をしていた頃の自分を振り返るものでやはり語り手が参与しているといえるだろう。

 もし不参与としても、語り手の「わたし」は登場する余地があるわけで、語り手の一人称としてのワタシと、作中人物としてのワタシは区別される。これはたとえば芥川龍之介の『羅生門』では冒頭に

作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。

芥川龍之介 羅生門

  という記述が思い出される。これは恐らく、一人称としてのワタシに含まれる類だ。語り手不参与の物語は三人称の物語と呼ばれる。語り手が自分自身を作中人物の一人として三人称で指示することもある。たとえば田中太郎さんが自伝を書くのに、「太郎はこの年高等学校を卒業した」などと書くのがその例である。

 

 語り手が参与するからといって、重要な役割を負うかはわからない。シャーロック・ホームズの物語はワトソン博士の語りによるものだが、ホームズの活躍を描いており、ワトソン博士自身の活躍については二義的である。

 

 また、語り手が複数いる場合もある。語り手が違う語り手を連れて来て、以後彼が語るような場合である。さらにその語り手が違う語り手を連れてくることもある。たとえば夏目漱石の『こころ』などがその例だろう。登場人物の「私」は最後にはいなくなり、「先生」が自分の秘密を語り始める。

 そうしてそれぞれの語りにおいて、上述したような特徴づけはそれぞれに成り立ち、物語の進行に伴って変化するのだから、注意を要する。

 

 可能性としては、二人称の物語もあるだろう。これは、語り手が「あなた」として登場する物語である。

 

聞き手

 すべての物語に語り手のあるように、聞き手も存在する。しかし一見すると、聞き手の特徴を述べる物語はないように思える。しかしそうした記号が用いられる物語も存在する。

 たとえば「読者」「お聞きの方々」など、ミステリー小説では「読者への挑戦状」なる文章が載せられたりする。あるいは「われわれ」と書いて語り手や聞き手を含めた文を書くこともあれば、「彼はこのとき何をしていたのか?」と書いて聞き手に疑問を発することもある。聞き手の誤解を訂正したり、あるいは完全に否定することもある。または、語り手と聞き手が共有するであろうことを際立たせたりする(「〇〇らしいあの目つき」)。そして聞き手がある知識を持ち合わせていないということを示す文言もあったりする(「アフィシオンは情熱の意味である」「彼は黄色いジャケットを着ていたが、これは彼が貴族であることを示していたのである」)。

 つまり程度の差はあれど、聞き手は再現表象される。同様に、聞き手にも参与・不参与の区別がある。

 

 知識 … 聞き手は語り手をよく知っていれば知らないこともある。

 変化 … 自分に向けられた叙述に関わりを持ったり持たなかったり、影響を受けたり受けなかったりする。

 集団 … 聞き手は個人だったり、集団だったりする。たとえばゲーテの『若きウェルテルの悩み』においては「彼と同じような苦痛に苛まれている、穏やかな魂の持ち主たる諸君」という不特定多数に呼びかけている。

 階層性 … 聞き手にも一次的・二次的聞き手という区別がある。報告される事象全部を語りかけられる聞き手もあれば、限られた事象しか語られない聞き手もある。

 

 聞き手も、現実の読者と道徳的・知的・情緒的・肉体的・社会的ともかくなんであれ距離を持つ。たとえば『ゴリオ爺さん』の冒頭部で出てくる聞き手は「白い手にこの本を持って」いるが、読者が白い手かどうかはわからない。そうしてこの距離が、われわれの物語に対する解釈や反応をかなり規定してくる。

 

叙述

 叙述は、語る行為それ自体である。ここでは語る行為自体の時点・持続・空間的コンテクスト・程度などを見て行こう。

 

<時間的距離>

 たとえば「大分以前に、ジョンが楽しそうに通りを歩いていたら、ジョアンに会った」と書けば、この叙述が物語られるものよりも時間的に後続していることを示す(後置的叙述)。上の文を「大分以前」ではなく「10年後」などにして末尾を適切に直せば、叙述が時間的に先行するようにもできる(前置的叙述)。「今」なら叙述は物語られるものと同時的である(同時的叙述)。他にも1月1日の出来事が2日に語られ、次いで、3日の出来事が4日に語られるなどするような場合もある(挿入的叙述)。

 あとかさきかというのを理解するのは比較的容易だが、具体的にどれぐらい離れているかを探るのは容易ではない。明示されていることもあれば明示されていないこともある。叙述と物語られるものとの間の時間的距離は変化することがあり、例えば1950年の出来事を1951年から5年かけて語るということもある。挿入的叙述のように、何度かにわけて物語られることもあるだろう。

 物語られた行為がはっきりしていても、叙述自体はどれぐらい時間をかけたかは全くわからないことが多い。これを利用した作例も多く、たとえば『時間割』においては、自分が報告したい過去の事象が多くなりすぎて叙述では正しい事象を捉えられないことに気づいていく。

 

<空間>

 時間に比べて、空間は叙述されないことが多い。

 「ジョンは不幸でした。恋に落ちました。結果として彼は幸福になりました」といったとき、別に叙述の場所を特定する必要は起こらない。多くの物語においては叙述された場所は重要な役割を果たさず、言及されることすら稀である。しかし作例はある。『エドウィンカープの日記』においては「この項の筆跡が震えているのは、わたしの興奮のせいではない。その主な原因は、大西部鉄道会社の路盤がたいらではないからだ」と書いている。

 しかし叙述の場所は物語の主題に対して重要な装置になりうる。たとえば語っている場所が病院のベッドで今にも死にかけていたり、たとえば湖畔など落ち着いた状況で語っている場合に語り手の内面を示すかもしれない。

 

 空間と同じように、語り手にとって叙述してなんになるのか(起源)とか、どういう素材で叙述してるんだ(媒材)とかといったことはあまり語られない。もちろん作例はある。『おれは大きい文字で、しかも画筆で書いているので、きっと読み易いだろう』(狂人日記

 

おわりに

 以上で大まかに「物語るもの」について見てきたわけだが、物語はもちろんこれで終わらない。「物語られるもの」があるし、さらに書き手と読み手の話もあるだろう。何度か言及したが、ここでいう「聞き手」とは「読者」と異なる。

 

 具体的で詳細な内容はここまでにして、次回はにんじんなりに本の全体像を示すことにしよう。⇩(2019.12.28統合)

 

全体像

 話はまず物語から始まる。物語は「物語られるもの」だけではなく、「それを物語るもの」を暗に表現している。物語=物語るもの+物語られるものと分析される。そうして、その物語自体は何らかの文法によって表現され、読者たるわれわれがそれを読む。いわば書き手と読み手の問題である。

 しかしここまで分析しても、まだ議論することはある。

 まず根本的に、最初にする物語の定義が大変広義なので、いわゆる料理のハウツーであっても物語に該当する。しかしわれわれは普通それを物語と呼ばない。そこでいわゆる「物語性」が改めて問題となるのである。

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物語性

 良い物語には「要点」があるものだ。いくら構成が整っていても、要点がない物語は物語として完成度が高いとはいえない。

 要点は物語の構成的な素性によっては定義できないのである。当該物語の要点とはそのコンテクストの機能なのである。物語は分かり切ったことを語るのではなく、語るに足るものを語らなければならないのである。

物語論の位相―物語の形式と機能 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

  物語の要点は、実は受け手側の欲求なくしてありえない。もちろん書き手がそのように意図して書いたかはわからないわけだが、書き手のほうは書き手のほうで、自らの伝えたいことをそのまま伝えるために、事象をそのように配列したり、なんとかと表現したり苦心する。受け手はそれを察して、「語るに足るもの」を受け取ろうとするわけだ。これは一種の契約であり、

 物語の要点とは、まさにこの契約に依拠しているのである。

物語論の位相―物語の形式と機能 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

  というわけで、これを逆に見れば、物語の価値というのは受け手依存的である。書き手が意図して「価値あるもの」を書こうとすれば、想定される読み手の欲求を理解しなければならない。

 

 そういえばスタジオジブリは「今の時代に作るに値するか」ということ、つまり時代性をつかまえる作品を作ることにしているそうだ。それが時代に沿っているから、みんなそれを見たがったり、そこで何かに気づかされたりする。もちろんアニメーションが美的に満足させてくれるという要素もあるだろうが、1800円払って劇場に来てもらえるような、そういう『契約』を十全に果たそうとしているんだろう。