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にんじんと読む「ふわふわする漱石」

第一章

 夏目漱石の『文学論』と、ウィリアム・ジェイムズの心理学とはきわめて深いかかわりをもつ。『文学論』はそもそも「組織だったどっしりした研究」、つまり文学とは何かという根本原理を探ろうとする科学的、実証的な、普遍を志向する探求だった。

凡そ文学的形式は(F+f)となることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものと云ひ得べし。

 実証的な心理学を特に重視して、ここでは上のような公式が定められている。「焦点的印象又は観念」というものを理解するためには、「意識の波」という心理学説を見る必要がある。それは簡単に、意識には常に「焦点」と「識末」部分が存在する、といえる。たとえばドレミを鳴らす。レが鳴っているとき(レが焦点に来た時)、ドは記憶であり、ミは予期される。私たちの意識経験は全てこうした流れの連続である。この焦点的部分が「F」である。

 

※振り返ってみれば、この説のもととなったジェイムズの「意識の波」は、心というものの従来の扱いへの批判から生まれたものだった。それまでは感覚などといった単純なブロックの積み重ねが徐々に統合されていくことで複雑になっていくと考えられていたが、しかし、単純とされる感覚であってもそれは波の一部にすぎない。単純な、いつも一定な、いつも同じような感覚なんてあるだろうか? いや、ないのだ。

 「F」というものはいわば、流れから切りはなされて言語や概念によって固定化されたものである。本来的には流れているはずのものをプツリと切断してしまうのが言語や概念である。だからこそ、Fというものには解釈の余地が生まれる。同じ言葉だからといって、そこで言われていることが同じだとは限らない。漱石はこれを「解釈の差異」と呼ぶ。そしてこれをもとに、Fを捉える一刻の意識を長い期間に応用し、社会全体すなわち文明の「F」というものも考えた。

 

 さて、漱石の最初の主張に戻ろう。文学的内容とは「F+f」である。たとえば「花」という観念には、情緒が伴うといったようなことである。しかしたとえば、ニュートンの運動法則や数学の公式といったものには情緒がない。もちろん発明の喜びを感じることはあろうが、必然の附属物ではない。だが、逆に言えば、彼は花を見れば情緒が伴うのを必然とみなしていた。もちろん、たいていの場合、という留保がつくだろう。F+fは、この程度に普遍的なものとして想定されていたのである。

 とはいえ、漱石のこの想定は意識の波説とは微妙な関係にある。なぜならどんな「F」も前後の識末によってそれぞれが微妙に異なるはずだからだ。それを一押しに、このfが生ずるとするのは、彼独自の一歩だろう。もちろん漱石も、情緒が人によることや時によることも考慮に入れている。しかしそれでも「同一の境遇、歴史、職業に従事するものには同種の」心的状態がもたらされるという普遍性は保たれたままだ。

 F+fには三つの形式がある。

  1.  単にF+fとして作品に表れる場合
  2.  作者が作品にfを表現し、Fが読者によって補足される場合
  3.  作者が作品にFを記し、fは読者によって引き受けられる場合

 この当然視されるFとfのつながりは、『文学論』を独特なものにしている。いったいそれが誰の情緒fなのかといわれれば、だいたいすべての人、なのだろう。

 さて、ここまでで『文学論』は第一篇第二章が終わり、下のように続く。

  •  第一篇第三章 文学の諸内容の分類(1)感覚F、(2)人事F、(3)超自然F、(4)知識F ——それぞれの情緒fの強弱に関する普遍的法則
  •  第二編第一章 文学的内容の数量的変化「経験を積むことでFが増大する」
  •  第二編第二章 fの変化。(1)感情転置法 … 時計自体は本来fを引き起こすものでないとしても、亡くなった母に対する情緒が転置された遺物としての時計には情緒を覚える。(2)感情の拡大 … 進化論というFを17世紀の読者はもたないが、これが普及すると次第になんらかのfが伴うようになる。(3)感情の固執 … 約束により生じる感情はその相手が亡くなったら消滅してよいはずなのに残り続ける。
  •  第二編第三章第四章 日常生活では忌むべきものとされても文学に描かれると情緒を引き起こしうることについて
  •  第三編 Fが人により時により違うこと、しかし同一の境遇、歴史、職業に従事するものには同種のFが主宰すること
  •  第四編 文学者はいかに読者の情緒を動かすか(修辞学)
  •  第五編 集合的F。FからF'への移り行きは「倦厭」による。それは進歩ではなく、進化。日本には日本の趣味があり、英国には英国の趣味がある。自分とkとなる趣味を標準とするのは幼稚。四種の文学内容はそのそれぞれの分野における理想があり、その理想がそれぞれ同等の権利を有した文学の標準である。

第二章 『文学論』における「文芸上の真」

 「科学上の真」と対置される「文芸上の真」は、当時盛んに議論されていた。これについての記述は『文学論』第三編からはじまる。彼が定義した「文芸上の真」が成立するのは、「作物が読者の情緒を動かす」時、「描写せられたる事物の感が真」である感じをもたらす時である。すなわち、この真理は文学の受容者に依存し、またそれのみに依存している。すると当然、時代によって「文芸上の真」の標準も変化する。実は漱石のこの定義は、当時他の多くの論者たちの真理観とは異なっているのだ(受け取り方以外も要求するのが普通だった)。

 

 むしろここで参照すべきはウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』である。彼はこの本の中で、科学では明かされることのない「宗教上の真」について語ろうとしており、また、漱石もこの『諸相』を読み多くのコメントを残している。

 そもそもジェイムズは、「真理」というものが時間も空間も越えて成り立つ最高次の価値であるというような思潮をよしとしなかった。真理とは人間的な観点を離れて存在するものではない。そうしてここでいう人間とは、まさしく個々の人間のことであり、ジェイムズの関心はつねに「主観的現象」にあった。

 しかし一方で、ジェイムズは宗教によってのみ明らかにされる真の事実が存在するとも考えていた。宗教的感情には真の実在の様相が提示されている、とみていたのである。この彼の態度については、厳しい批判にさらされている。ここにはプラグマティストと、神秘主義者としての二人のジェイムズがいるのだ―――とはいえ、いまここで重要なのは、漱石がこのどちらのジェイムズにも関心をもっていたことだ。『文学論』のスタンスはあくまでも前者のジェイムズと軌を一にするのだが、漱石は真に実在するものはなんなのかという問いにも、関心があったのだ。

 

ふわふわする漱石 その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ [ 岩下 弘史 ]

第三章 「文芸の哲学的基礎」と「真に」存在するもの

 漱石は「文芸の哲学的基礎」において、まずこう確認する。

この世界には私と云うものがありまして、あなたがたと云うものがありまして、そうして広い空間の中におりまして、この空間の中で御互に芝居をしまして、この芝居が時間の経過で推移して、この推移が因果の法則でまとめられている。

 しかしこの常識的見方は甚だ怪しいという。「私」というものからして、怪しい。これは客観的な仕方で世の中に実在するわけではなく、便宜のためにそう名付けられた意識現象に過ぎない。私というものの便宜は、物我の区別がつくことである……。

 漱石にとって「真の事実」は、「意識の連続」。つまり「真にあるものは、ただ意識ばかり」である。そして次に問題とするのは、どんな内容の意識をどんなふうに連続させるかということであり、ここに必要とされるのがその選択の標準となる「理想」であり、それこそが特殊を生む。意識の連続の方向を定めたあとは、そこから次第に空間、数、因果の法則が抽象される。しかしもちろん、こうしたことはその意識の連続のなかにおける「便宜上の仮定」にすぎない。時間や空間が製造されたあとは、物我の区別は容易であり、そこからどんどんと分化が進んでいく。それは意識の範囲の拡大である。

 たとえば一色しか見ないところに五十色を認めるものは、その点、非常に意識が拡大している。だが、いたずらに選択肢が増えても仕方がない。重要になってくるのは「理想」である。漱石にとって「理想」とは、単に意識を連続させる(生存する)ことのみを目的とする原初的状態から、人間が変化していく際に得られるものだ。いわば「いかに生きるか」である。

 意識の連続のなかから生まれた自己の関心、そしてそれにより形成される理想、そしてそれによる選択、そしてそのうち徐々に「私」の輪郭がはっきりしてくる。だから「理想」とはきわめて重要な概念であるが、漱石にとってもう一つ大事だったのが「開化」―――人間が世界を好ましい形に変形していくこと――だった。漱石は、文学がこの開化に関与しないのなら文学は廃すべきだとさえ言っている。だがもし、人々が理想だけを追求し、それぞれの関心に応じて世界を切り開いていけば、人々はだんだんと違う方向を向くようになることが予想される。

皆が皆、自身の関心事に専心するようになると、文学の存続も危うい。というのも、それぞれの文学作品に呼応する者がいなくなり、「文界」は「永久の寂寞」(略)に入ってしまうからである。文学者は読者に影響を及ぼすことで「開化」の経路を切り開くべきだとされていたが、もし文学者と読者がお互いに関心を異にするのであれば、いかにして「開化」を成し遂げることができるのだろうか。

ふわふわする漱石:その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ

  漱石はこう答える。

 文学者の理想に接する読者はもし「機縁が熟して」いれば、「還元的感化」を受けるのであると。この「還元的感化」という漱石独自の概念によって、文学者は異なる関心をもつ読者にも影響を及ぼすことができるのである。故に、これは開化への経路である。

 では「還元的感化」とはなにか。

 まず、文学作品とは文学者の「ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、其儘に写し出したもの」である。そこに読者の意識が一致することによって「享楽の境に達す」ることがある。この一致の極度において起こる現象が、「還元的感化」である。

 次に、その一致の極度とはなんであるか。それは、「真に」存在する誰のものでもない「意識の連続」、こうした全ての「元」にある意識の連続に「還」ることである。これは単に原初に戻ることではない。高度に分化が起こったあとでふたたび戻ることだ。*1そして原初的な意識の連続状態、つまり分化される前の基礎的状態を「oneness」という。還元的感化が起こると、読者は「oneness」の状態を再び訪れるが、読者はもはや高度に分化しており、文学作品を離れた後も読者の中にその「痕跡」が残るのだと漱石はいう。

 痕跡云々はまず脇において、そもそもonenessに戻ることなどありえるのだろうか。

 このことについては漱石も手厳しく批判されている。それに加えて、「ジェイムズさんだって個々人の意識は断絶しているといっていますよ」と駄目押しまで食らう。だが、個々の意識が「元」に戻るのは、それが無人格的な「意識の流れ」から生じきたったものだからというのが漱石の論であり、そこに本質的な断絶があるとまではいえない。実際、ジェイムズも意識が融合する可能性について追及しているのである。

 漱石は「還元的感化」によって達成されるところを「大悟する」ことにたとえている。つまり、悟りだ。詩や哲学を読んだり語ったりしたあとに起こる、静寂な状態、「ほとんど受動的な享受の状態にあり、実際に考えることなく、観念や心像や情緒がいわばひとりでに」心を通過していく、そんな意識……。

 

ふわふわする漱石 その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ [ 岩下 弘史 ]

第四章 「創作家の態度」と「ばらばら」な世界

 『創作家の態度』は『文芸の哲学的基礎』のおよそ十か月後に発表された。内容は「創作家」の「態度」、つまり「心の持ち方、物の観方」である。曰く、われわれの心のなかには焦点があって、入れ替わり立ち代わりしていくが、「態度」はこの焦点の取り具合と続き具合で決まる。焦点はわれわれの取捨によって決まり、取捨は注意に伴って決められるから、すなわち注意の向きや加減で「態度」が決まる。

 この「態度」の違いは十人十色のさまざまな世界観を生みだし、すなわち「世界」をも生みだすという。何がリアルな世界であるかは、それぞれの人が持つ注意の習慣によって決まるのだ。たとえば科学者と宗教家は世界についてまったく異なった見解を持つ。このような「世界」理解を踏まえれば、漱石の作品に出てくる「世界」という語彙にも違った見方が出てくるだろう。例えば『虞美人草』の小野さんは「色相世界に住する男」であり、小夜子は「古き世界」から「明かなる世界」へ移行する存在として描かれている。『三四郎』では、三四郎には三つの世界ができたと言われ、「一人の一生には百の世界がある」と『虞美人草』で書かれるとおりである。

 漱石は一人ひとりが異なる世界に生きていること、それを認め自身の道を切り開いていくこと(「西洋人のいふ事」に「盲従」しない、「私は私の意見を曲げ」るべきではない)によって、「自己本位」という思想に至ったと考えることもできよう。とはいえ、異なるバラバラの世界に住んでいるということに、漱石は淋しさも感じていた。そしてその「自己」であっても記憶が連続しているだけで本当はバラバラなものだとも感じていた。漱石は「自己本位」を唱えながらも、その裏面で、人と人とが、そして自分の心がばらばらになることの「淋しさ」があったのである。

 私たちは別々の世界に住んではいるが、たいていの場合、一致したものの見方をしている。漱石はその事実を確認しながらも、一方で、一致がいくらたくさんあっても違う世界に住んでいることには違いないという不安は感じていた。

各自の舌は他の奪ひがたき独立した感覚を各自に鳴らす自由を有つてゐるに相違ない。けれども各自は遂に各自勝手で終わるべきものであらうか。己れの文芸が己れだけの文芸で遂に天下のものとなり得ぬのであらうか。それでは情ない、心細い。散り散りばらばらである。何とかして各自の舌の底に一味の連絡をつけたい。さうして少しでも統一の感を得て落ち付きたい。

 どれがいいとか悪いとかいう評価をするのは自分だし、いいと思えばいいし悪いと思えば悪いのだが、それで話が終わってしまっていいんだろうか、と言っている。作品を書いても「天下のもの」にはならず「己れだけの文芸」で終わっていいのか。個人主義的な世界が確立されたあとの人と人とのつながりの問題だ。

 漱石は『道楽と職業』のなかで、公会堂のようなところで時々講演者を聘して知識上の啓発をはかったり、社交機関を利用するのも一案だが、特に「文学書」を読むことをすすめる。その理由は文学書が「多く一般の人間に共通な点に就て批評なり叙述なり試みたものであるから、職業の如何に拘はらず、階級の如何に拘らず赤裸々の人間を赤裸々に結び付けて、さうして凡ての他の障壁を打破する」からである。打破する文学は、「人間の窮屈を融かし合ふ」ようなものでなければならない、という。

 このことは「還元的感化」の議論と似ているが、まったく同じではない。私の意識を「oneness」に戻すのが還元的感化であったが、ここではさらに「融かし合ふ」必要があることがいわれている。これがジェイムズの『多元的宇宙』とつながってくるのである。

 

ふわふわする漱石 その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ [ 岩下 弘史 ]

第五章 『多元的宇宙』と漱石晩年の思想

 『多元的宇宙』はいわゆる「汎心論」(世界の全ての事柄には心的な側面がある)を仮定している。しかし普通の汎心論というのは、世界の絶対者の精神についてのことである。ジェイムズは神の存在を認める者であるが、その神は有限な存在であり、その有限な神の意識が混ざったり離れたりして世界を構成しているというのが彼の説である。

 伝統的哲学においては、実在というのは変化しない。だが「本当に実在するのは、できあがった事物ではなく、生成中の事物である」。実在は動的なものなのである。そのなかでは元来すべてが融け合っている。この世界や宇宙を構成するものは、本来その隣人と互いに「手を組み合って」いる。概念は変化するものを捉えるが、それはスナップショットに過ぎず、「いくら騎兵だって年が年中馬に乗りつづけに乗つて居る」わけではない。

 漱石の「則天去私」はこの思想の上に理解されるものであって、それは「私」を「去」り「天」=自然=融け合う意識=に「則」り流れのなかを漂うことである。概念を離れた実在=流れを漂うことは、概念によってそれを堰き止めるように流れを外側から観察するのではなく、人の内側の生に同情や共感をもって向き合うことである。

この点に関しては和辻哲郎の見解が正鵠を射ている。漱石の「超脱の要求は現実よりの逃避ではなくて現実の制服を目ざして」いた。「則天去私」とは、「現実の外に夢を築こうとするのではなくて現実の底に徹する力強いたじろがない態度を獲得しよう」とするものだったのだろう。

ふわふわする漱石:その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ

 

 

ふわふわする漱石 その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ [ 岩下 弘史 ]

*1:この考え方は老荘を思い出させる。