コナトゥスと欲望
おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。
はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) エチカ、第三部定理七
ここでいう「努力」をコナトゥスconatusといい、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことである。スピノザはコナトゥスこそがその物の本質であると述べている。これは伝統的哲学が、牧場の馬と野生のシマウマが同じ””ウマ””だと考え、まったく生態の違うものを同じとして扱うのとは対照的である。どれほど””形””(見かけ、外見)が同じ(ウマ)であろうと、両者はまったく違う存在だと捉える。
たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。
ここで説明される情動とは、広い意味での感情のあり方のこと。そして「触発される力」とは、ある刺激を受けてそれに反応し応答する力のことである。どういう刺激に対してどう反応するかは、それぞれ違う。
異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができる。
はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) エチカ第三部定理五一
反応=刺激による変化のことを「変状」と呼ぶ。変状とは、ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることである。触発される力とは、変状する力のことであり、これはコナトゥスを言い換えたものでもある。そしてこの力は「欲望」ともいわれる。
真理の獲得と主体の変容
真理の基準というものがあるとすれば、それはその基準にあてはめればそれが真理であるかがわかるようなものであるに違いない。ではその基準を誰かが見つけたとしよう。だがそのとき、いったいその基準の正しさを何が証明してくれるのか―――こう考えすすめれば、真理の基準とは真理自身以外にありえないことに思い至る。つまり真理を獲得すれば、それが真理であるとわかる……。
ここにはデカルトなどのふつうの真理観とは違うものがある。
真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。
はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) 第二部定理四三
もちろんなんでもありというわけではなく、「真の観念」には条件があって、それは根本原理から演繹されたものではなければならないのだが、ここで触れたい問題はそこではない。スピノザは自分と真理の関係だけを問い、デカルトは説得を重んじた、ということだ。『真の観念を獲得していない人には、真の観念がどのようなものであるのかは分からない』。
何かを知るとはどういうことか。
それはその何かを認識するだけではない。それによって、確かさを知る。自らの認識する力を知る。自分のことを知る。それが、自分に何らかの変化をもたらす。主体に、変化をもたらす―――何かを認識することによって、私たち自身が変化する。スピノザにおいて認識は主体の変化と結び付けられている。
フーコーは『主体の解釈学』という講義録の中で、かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体の変容を被り、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。