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デスノートの倫理(日記)

 DEATH NOTEという作品をご存じだろうか。

 冒頭にこんな確認をしたことに自分自身おどろくのだが、しかし、この作品はなんと2003-2006年の作品であって、netflix版でさえ2017年なのでもう5年も経つ。とはいえ、2000年はじめの頃の作品が2017年になってさえ名前が挙がるのはなかなかの影響力である。それぐらい、この作品が「おもしろい」のは、二人の天才の頭脳戦ももちろんだが、悪い人間を容易にぶっ殺せることが大きい。しかもふつうの場合、誰にも悪事はバレない。このアイディア自体は水木しげるさんの書いた『不思議の手帖』*1に既にあったと言われているが、ノートの不思議さではなく、「裁く」という使い方のほうに目を向けたのは少年にとんでもない刺激となったことだろう―――もしかしたら正しいかも、なんて思ってしまうのだから。

 久しぶりにデスノートを見て思ったのは、ノートによる裁きが正当化されることは今後絶対にないだろう、ということだった。ノートによる裁きが夜神月のいう理想の世界になるためには、善悪の線引きができなければならないのだが、善悪という概念はその他の可変性のある曖昧な概念に支えられており、とても線引きなど望めない。また、何が善で、何が悪であるか、自分にはわからないことがある。また、たとえば医者のいう最善の身体は、相撲取りにとっての最善とは異なる。この二つの善は生物学的に、あるいは解剖学的に、そして社会的文脈に位置する役割として、という違う次元に属する善であり、質的に完全に異なる。なにが善かを定める倫理的判断は各種善を見定めたうえで(たいていの場合無意識的に)行われるひとつの跳躍であり、その跳躍が善と呼ばれるにふさわしいものかどうかは、少なくとも夜神月を含め、どんな個人も知るところではない。「知る」と呼ばれうるほど、なんらかの明確な形で真であるわけではない。

 

 だがなぜ夜神月は「新世界の神」になろうと思ったのか。法の裁きの限界を感じたからなのか。実際、そんなことは問題ではない。それは彼が、自分は他の人間とは違う特別な存在だと考えていたからだ。

「こんな奴の一人や二人死んでも誰も何も思わない」

「たとえばこのノートをだれかに渡してできる奴がいるか? そんな凄い奴いるわけない… …… そうとも… 僕にならできる…… いや… 僕にしかできないんだ やろう!」

「僕は日本一と言ってもいいくらいの真面目な優等生だよ」

 彼は死神の目の交換を拒否するときに、「翼だったら考えた」と「冗談」で言っている。こんなに自分のことが大好きな人間がいるだろうか。こんなにこじらせた人間、なかなかいないだろう。久しぶりに見てびっくりしたのだが、夜神月は第一話の段階で相当にこじらせている。期待され過ぎたこともあるのかもしれないし、実際賢すぎて周りが低俗に見えて仕方がなかったのかもしれない。こうなると、急に彼が「天才」よりも、「病んだ子ども」に見えてくる。デスノートによる裁きが正しいのかどうかなど、もはや議論する気も起こらないほどに。理想主義や、ある種の全能感も、厨二病の一言で片づけられそうなぐらい、あの年代特有のものだ。この理想主義は大学で学問をやってしばらく続くが、経験を積むほど「別にそういうわけでもない」ことに気づくものだ。彼はデスノートを手に入れてしまったので、手にした時点から一切成長しなかった。

 こんなことは再三指摘されてきたのかもしれないけれど、肌身に染みて、「ああ、この人はぜんぜん成熟したおとなではなかったのだな」と思った。……という話。