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「徳」は技能と同じく、発達する【「徳は知なり」】

 エウダイモニア主義というのは、幸福Eudaimoniaあるいは開花Flourishingと徳を積極的に結びつけようとする考え方である。『依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)』においては、開花というものを、それが埋め込まれる社会関係を考慮することの必要性を説きながら、《それがその種のメンバーとして所有している特徴的な諸能力》として同定する。これをもとに《ある特定の種に属する個体ないしは集団が、特定の環境下で、特定の成長段階にある際に開花するために備えるべきさまざまな性質》について、少なくとも部分的には科学的文脈に即して答えが与えられる事実的なものであるとした。また、このような性質のことを「徳」と呼んでいた。

 

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 ここでの開花と徳のつながりは明確なものである。とはいえ、そもそも最初から開花に必要なものを徳と呼んでいるのだから、このこと自体は当たり前である。もちろんこのように徳を位置づけるなら、私たちの想像する一般的なイメージとしての「徳」と本当に一致しているのかどうかはやはり問題になるし、前掲書においてはそれらがすべて論証されたわけではないと感じる。なにしろ、ふつうに考えれば、徳と幸福に積極的なつながりがあることなど到底考えられないことで、《有徳な人は幸福であるという主張にはある種の無邪気な願望充足や過度の楽観主義が含まれているという考え》(p.199 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)のほうが優勢だろう。

 この記事では徳について考え、開花へ向かっていこう。

 

 

徳とはなにか

 徳とは、行為・感情・推論に対する、人に備わる変動的な持続的特性である

 正義の人は、正義の人らしく行為するし感じるし考える。また、不正義な行為をしてしまうことによってその傾向性は弱まるし、正義な行為によって発達するという意味で変動的である。だから正義の人がなぜ正義を遂行するのかという問いは的を外しており、それが彼にとって自然なことで、むしろ不正義は例外的なことなのである。

 私たちは生涯を通じて色々な状況に直面し、選択することによってもともと持っていた傾向性をはぐくむ。私たちが徳について考え始める以前に既に持っている傾向性のことを「自然的な徳(natural virtue)」というが、人はこれを発達させていくのである。

 徳はこの意味で、ピアノ演奏などの実践的技能と似ている。しかし、実践的技能のすべてと同じであるわけではない。二つが重なるのは、〈学習の必要性〉と〈駆り立てる向上心〉が繋がっているような技能である。言い換えれば、その技能は《容易に習得できるものでも、努力せずに習得できるものでもない》。たとえば、建築は人のまねをするだけではできるようにならない。それは単なる機械的反復以上のことを含んでいるからであり、学習者はその核心を捉えようとしなければならない。たとえば、ピアニストになるためにはブレンデルのものまねができるだけではいけない。本当の学習者はブレンデルと異なるやり方で演奏しつつ、ブレンデルの演奏の核心をつかんでいるような演奏法を習得するだろう。つまり「自分のものとして」習得しなければならない。向上心がなければ、技能は単に繰り返しや機械的反応になってしまう。

 このためには、学習者は、《手本のどの部分に従えばよいのか、別のやり方ではなくこのやり方で行うことにはどのような意味があるのか、教師が行っている一定のやり方にとって何が重要であり何がそうではないのかということを理解する必要がある》(p.31 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。つまり、言葉で説明することが何らかの程度まで必要とされるのである。

  •  〈学習の必要性〉は、徳が常に一定の組み込まれた文脈のなかで学習されるという事実を、そして私たちが十分に発達して理性的になり、徳について深く考えることができるようになるまでには、私たちはすでに学習者の立場で人格教育の過程を経ているという事実を正当に扱うものである。
  •  〈駆り立てる向上心〉は、学習していることを理解するようになるという側面を強調する者であり、また自立の段階に移行するという点と、常に徳を高めようとする(少なくとも維持しようとする)という点を強調するものである。学習者はこの向上心によって、教わったことを評価したり批判したりすることができるようになり、教師の誤りを正したり、教育の背景となる文脈と文化に含まれる欠陥を指摘することができるようになる。
  •  〈理由を与えること〉は、本来の徳と単なる自然的な徳を区別するなかでその重要性がわかるだろう。①自然的な徳しか持っていない人は、自分がすることに対して理由を要求することも与えることもできないので、新たな状況に対処することができない。たとえば、生まれつき勇猛な人は、人の言うことを真に受けてはならないと学習したことがなければ冗談にマジギレすることだろう。また、生まれつき共感しやすい人は詐欺被害に遭う。②倫理に関する意見の不一致に対して、理にかなった説明を与えることができない。もし徳を理性にもとづかないものと見るならば、対立した二人はお互いの育ちの悪さを永遠に罵り合うぐらいしかできない。

 徳を技能と似たものとすることによって、チクセントミハイの言う「フロー体験」と結びつけることができる(徳とよろこび)。

 

開花について

 ヒト以外の動物に特徴的なことは、彼らは開花するために、どのように生きるべきかについて議論する必要がないことである。だがヒトの場合は、なぜ自分がその行為ではなくあの行為をするべきなのかについて、考える必要が生じる。これは単にその行為をする理由を持っている、ということではない(ヒト以外の動物であっても、前言語的に行為の理由はもっている)。自らの行為の、その理由を比較衡量しなければならないということだ。

何かを善に帰するのには、少なくとも三種類のやり方がある。

  •  (手段としての善) まず第一に、『私たちが何かを一つの手段としてのみ評価することによって』、たとえばそれを食べるのはヒトとしてのあなたにとって善いことだという意味である。つまりそれは何か別の善を得ることを可能にするかぎりにおいて善である。
  •  (ある特定の実践において特定の役割を模範的に果たす者としての善)第二に、『誰かをある一定の役割を担う者として、あるいは、ある社会的に確立された実践の枠内である一定の役目を果たす者として善い』、たとえばアスリートとして、回復期の病人として、相撲取りとして、画家として、父親として善だという意味である。この善に特徴的なことは、一般に、その特定の活動について手ほどきを受けることによってしか学ばれえない。だが、この種の善は、「善い泥棒」という使い方もある。しかしそれは、泥棒としての技能を備えていること自体に対する評価であって、その技能を泥棒に使うことではない。
  •  (開花についての判断)第三に、『その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善か』、たとえば父親としての善と画家としての善が対立した時に何をなすべきなのかについて私たちは判断を下す。

 私たちはほとんどの場合、何が自分にとって善いか知らない。サッカー選手はサッカー選手として善い行為を学ぶために、たとえばコーチなどから教えを受けなければならない。「なぜ私は別の行為ではなくこの行為をしているのか」と常に問うことで入れ子状になった目標は、さらに大きな長期的目標に含まれていく。たとえば健康を維持することや、よい経歴をもつこと、円満な家庭生活を送ることなどがあるかもしれない。だがそのように組織された体系は、さらなる統一を求める。それが開花についての判断である。よい経歴をもつことと円満な家庭生活を送ることという二つの長期的な目標にしても、対立することがある。そのときに、私たちはなにかしら判断を下すのであるが、衝突する目標や破綻した目標などがあるときは特に、この問題が表面化し、どのようにしてそれらを調整・修正・再編成すればいいのかについて考えさせられることになる。

 それは人生全体を組織立てることでもある。開花(幸福)とは、「人生の全体的目標」を指し示す。だがそれは、自分の行うあらゆることがその目標に寄与している、という風に考えるならば誤りを犯すことになる―――人生の全体的目標は既に与えられており、どうやってそれを達成するかだけ考えればよい、というのは間違っている。一部の人々は芸術や政治や宗教上の使命感を持っており、自分の人生に対して明確な理解をしているが、ふつうはそこまではっきりしたものではなく、ぼんやりしたものであるだろう。だから幸福はふつう、人生の全体的目標としてそれぞれが持っている漠然とした考えであり、これをクリアにしていく手伝いをするのが倫理学の役割である。

  •  人生の全体的目標を幸福と呼んでしまうことは、早計だろうか。人にはさまざまな幸福観があり、必ずしも全体的目標とは一致しないように思われるからである。たとえば幸福をずばり快感だと呼ぶ人や、満足感のことだという人もいる。だがそれは《偏った幸福感》(p340 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)である。幸福には一時的な感覚や気分を表す用法もあるだろうが、「末永くお幸せに」というときは、必ずしも一時的なものではなく、長期的なものを想定している。幸福=人生の全体的目標と考える幸福観は「与えられた環境のなかでどのように生きることがよく生きることなのか」を問題にする。幸福とは何かについての意見は一致しないとしても、《誰もが幸福を目指しているという点では、人々の意見は一致している。それゆえ、幸福は、倫理学理論の出発点となる考えに人々の常識が一致する、そういう地点を形作っているのである》(p210 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。

開花と徳のつながり

 開花というものをその生涯にわたる全体的目標に据えるならば、徳というものが開花に資すると考えるのは、極めて常識的な直感である。というのも、ロザリンド・ハーストハウスも述べる通り、《私たちは、自分の子どもが狡猾な人や臆病な人ではなく、正直な人や勇敢な人に成長してほしいと思い、子どもを育てる時に、(できるかぎり)このような徳を身につけさせようとする。そうするのは単に自分のために、つまり親が自分の利益を追求するときに、子どもを当てにすることができるようにするためではなく、子ども自身のために、つまり狡猾な人や臆病な人であるよりも、正直な人や勇敢な人である方が、よりよい人生を歩むにちがいないと考えるからなのである》(p.244 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)。

 しかし常識的であるという以上に積極的な関係を認めるには、さらなる論証が必要である。いくつかの注意をする。

  •  (重要な区別)快い感覚とか満足感といった静的な幸福観は、徳とは結び付かない。徳は発達など「動きを伴うものである」や「私たちを前方へと駆り立てる」ような種類のものであることを後述するのだが、それゆえに、静的な幸福とは相容れないものとなっている。実際、どうして有徳な行為を為すことが、私たちに快い感情や満足感を「必ず」もたらすというのだろうか。静的な幸福というのが静的であるというのは、それが人生における受動的な側面であり、たとえばそれが欲求の充足をもたらすかどうかといったことは私次第で決まることではないからである。その感覚は、私の人生をとりまく環境の一部にすぎない。一方、有徳に生きることは、これまで歩んできたものをできる限り生かしながら、素材として与えられている環境に対処することである。「徳か、快楽か」といったように、二つを同じように並べて、選択は個人的な好みであると言いたくなるのは、〈生活の環境〉と〈生きることそれ自体〉、あるいは静的と動的の区別ができていないからである。後者は「実践」の問題なのだ。単なる素材が私たちを開花させるといったようなことが、どうしてありうるだろうか? お金さえあればよい、などといったことはありえない。それを人生のなかで適切に使用することができなければ、お金はわれわれを開花させない。幸福に生きることと有徳に生きることはともに動的な問題であり、単なる素材と混同してはならない。
  •  (徳の利己的手段性の否定)開花が不明確な全体的目標であり、これこそが開花(幸福)であると疑いなく考えるようなものは私たちが有徳になる前の時点では与えられていない。開花は性格を発達させるまさにその過程で作り上げられたものであり、徳に対して、すでに合意済みの明確に定まった目的に対する手段であるという評価を与えることはできない。

有徳な人は、徳の点で発達するときに幸福に関する考えをもっており、その考えは、性格が発達するのに応じて、その人の幸福概念をますます明確なものにする。(略)あなたがより有徳に(勇敢に、でも何でもよい)なるにつれて、幸福に関する考えはより明確になってくるが、それと同時に、その考えはあなたの熟慮のなかで明示的な役割を果たす必要が少なくなる。(略)幸福に関するあからさまな思考は、徳に関するあからさまな思考とともに、はっきりとした熟慮のなかでだんだんと姿を隠すようになるが、説明や教授のために必要となるときには、その思考を呼び戻し、再び活性化させることができる。

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 十分条件や必要条件といったより包括的な関係があるかは意見が分かれるところだが、少なくとも、有徳に生きることは幸福に生きることを部分的に構成しているのは間違いない。性格の発達が幸福をも発達させるように、二つは応答し合う。《徳は結局のところ、どのようにして世界のなかで上手に、あるいは下手に行為しうるのかの一例》(p278 徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学)であるから。