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にんじんと読む「フッサールにおける価値と実践」 第六章:有限性、愛、人生の意味

第六章 有限性、愛、人生の意味

 理性的に生きること、熟慮して選び取ること。そのように生きることがよく生きることと言い切ってしまってもよいのだろうか。こうした疑問が前章で残ったのだった。私たちがもしすべてをコントロールできるならきっとそうなのだろうが、人生は理性ではどうにもならない面がある。理性的ではいられなくするような危難に満ち溢れている。

 老いること、病むこと、死ぬこと。生まれながらの障害、貧困、社会的抑圧……。

 完全に合理的にコントロールされた生は、到達不可能な理想である。たとえそれに導かれて「可能なかぎり」を目指すとしても、自分にはどうにもならないことによって常に邪魔されてしまうだろう。よく生きようとすることはむなしいのではないのか。実現する見込みが絶対にないプロジェクト追及になんの意味があるのか―――道徳的に生きようとすることは意味のある企てなのか?

 フッサールはこれを可能にするためには、不可能なことを可能だと信じる決断「決死の跳躍」が必要なのだと論じる。つまり、理論的な信念ではまったくない。合理的な根拠もない。これは生を究極的に肯定することができないという意味である。とうとう私たちは「生の意味を信じること」「信仰」することに逢着したのだ。繰り返すが、この信仰は信仰であって、根拠はまったくない。

 この回答は次の二つの点で問題を含んでいる。

  1.  信仰は正当化できない これまで私たちはなにかを確証するものはなにか、正当化条件はなにか、と問うてきた。そして最後にはそれが正当化できない信仰によって支えられていると結論されてしまった。それは結局、すべてに根拠がないということではないのか。
  2.  信仰は何も保証しない 理性的な生という理想の実現可能性を信じたところで、実現など絶対しない。だから単に目をそらしているだけのように見える。

 問題を改めて確認しよう。それは次のようなものだった。

「私たちの人生は思い通りにならない。私たちの理性的な生は妨げられる。だからよく生きるということは実現不可能なプロジェクトであり、追及するのは無意味だ」

 だが考えてみれば、意のままにならないということはよく生きることの不可能性を本当に帰結するのだろうか。まず、倫理的な生き方とは、生全体を洞察的に正当化可能なものにしようと努める生き方である。熟慮し、選択する生き方である。次に、当たり前のように、人々の人生はさまざまであり、そのさまざまな人生がそれぞれ倫理的であることは可能である。

 だとすると、そもそもここで問題になっている「実現可能性」とはいったいなんのことなのか。人がどういう環境に生まれ何ができるかは変わってくるが、「倫理的生き方」という形式に従うならば、内容的な違いはまったく問題になっていない。誰もがつねに、倫理的に生きることができるのである。だからそもそも実現不可能性の問題は生じず、信仰に訴える必要もない。

 だがもちろん、私たちが生きる生は何らかの具体的内容を持った生である。ゆえに、もし「あらゆる人生が不可能」であるならばやはり以前として実現可能性が問題となってくるだろう。すなわち、たとえば個別の行為において、その目的が実現不可能な場合に実現しようとすることは不合理である。もし行為を人生全体に置き換えることが可能なら人生は無意味なものとなるだろう。

 だが、実はこれも見かけだけのことにすぎない。

 「行為の目的」と「人生の目的」は同じ目的という言葉を使っていながらまったく別物である。行為の目的は特定できるが、人生の目的は特定できるものではない。たとえばよい学者であろうとする人と、よい農夫であろうとする人の人生は大きく異なる。だが「よい学者になった!」「よい農夫になった!」という完遂はありえない。人生の目的とは、それに合致した生き方をしているかどうかがつねに問われうるという仕方で生を方向づけている。ある人生の目的をもつことが不合理になるのは、両立不可能な2つの目的を掲げているときであり、あらゆる目的の追求が不可能になることはありえない。

 

 以上をまとめておこう。

  1.  よく生きるとは理性的に生きることである。
  2.  しかし、人生思い通りにはいかないのだから、理性的に生きるのは不可能。
  3.  問題は「理性的に生きる」という生の形式であって、どんな人生であれいつでもよく生きることが可能である。
  4.  実現可能性は問題ではないと君は言うが、しかし、理性的な生き方とは熟慮した選択をすることだったではないか。人はある価値よりも他の価値を重視している。その価値の比較は、明示的/非明示的にせよ、その人が以前から持っていた人生の目的や人生観によってなされるものだろう。このように目指されている多くの人生の目的を考慮してもらいたい。目的が実現不可能ならばそれを目指すことは無意味である。だから、依然として実現可能性は問題となっているのだ。
  5.  個別の行為に対して「目的」という場合と、人生に対して「目的」という場合を区別しなければならない。前者の場合の目的は、その輪郭がはっきりしており、完遂したかどうかも含め特定することができる。しかし後者の場合の目的は完遂ということがありえない。明確な輪郭がなく何をもっていちおう実現したかもはっきりしない。だから実現不可能かどうかも明確に応えることができず、つまりそれを実現不可能だというとき実現不可能だと決めつけていることになる。人生の目的とは、それに合致した生き方をしているかどうかがつねに問われうるという仕方で生を方向づけている。それが不合理になる場合は両立不可能な2つの目的を掲げたときだけであろう。