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にんじんの書棚「男たち/女たちの恋愛」

 明治維新による生活の激変は人々に生き方を考えさせた。西洋に並ぶ国家建設という目標から本当の自分へ、そして本当の自分を理解する真友を求めるところへ進み、遂には恋愛と結婚が接続される大正時代頃までの動きを追っている。何度も読んでしまうのは、「歴史」というか「時代の流れ」としか言えないものを感じられるからだろうか。

 そもそも他から独立した存在者としての「自己」をドスンと構えてしまうこと自体に問題を感じるのだが、そんなことは一切関係なく、「自分さがし」がなぜか異性愛に限定された「恋愛結婚」に至る。もはや伝言ゲームである。しかしそれが政治や文化などさまざまな影響にさらされたうえでの自然な流れとして現在がある。すると、今の自分たちもそのわけのわからない流れの中にいるわけだ。

 以下、過去記事をまとめる。内容の要約になっている。

 

巌本善治や北村透谷は、明治20年代初頭に、自分の愛する女性のことを恋人ではなく「真友/親友」とよんでいる。『現在では同性間のものとしてイメージされる友情と異性間のものとしてイメージされる愛情は、明治二〇年代においては地続きだったのである』。この真友という観念が、近代的な「自己」の観念と不可分であることを確認しよう。明治22年『国民之友』に掲載された「朋友」という記事を見ると、こうある。……人は誰しも仮面をかぶるものであり、礼儀の名の下に偽りの自分を演じる。そうした仮面の内側にいる本当の自分を理解してくれる存在こそ「知己」=真友と呼ぶにふさわしい。真友に対置され否定的に言及されるのは、職業や趣味などの共通点によってつながる人間関係である。そうした人々はその共通さの外では自然と情が薄くなる。だからこそ、何人もそういうおともだちができるよりは、たった一人の真友を持つことにはるかに高い価値があるのだ。

 ここにあるのは、行為や表現以前に「自己」なる本質を措定する心性である。福沢諭吉学問のすすめ』(明治9年)においても、表面の虚飾をしりぞけて心事を丸出しにすることの希求が見られるが、しかし、そうして丸出しにした心が「自己」を示すはずだという幻想は福澤にはない。彼はたくさん交際を持ち、心事を沢山にすることを求めたのだ。そしてそこではさきほど批判された学問・商売・書画・将棋などの共通点によって友人を増やすことがすすめられているのである。つまり私たちは、妻・教師・後輩…といったような役割にあって、互いにそれにふさわしいふるまいをすることを通じて自らの存在を形作っているのであって、「真の自己」を追い求めるのは息苦しいだけで事実を捉えられていない。私たちは常に演技し、虚構をはらむことで存在している―――福澤の交際論の重要性が現在に改めて主張されるのにはこういう点があるからだ。

 だが、明治において感じられていたのは、こういう「役割」の圧力であった。そんなものは外面的な属性であり、年齢がどうとか性別がどうとか、自己とは一切関係ないはずだ……。当時、長幼や男女の間に上下関係があったことからも、真友の観念は新しく映ったにちがいない。明治以前、人々の生き方は士農工商に従って決定されたが、明治政府は職業選択の自由を与えた。それは言い換えると、自分の人生をどう歩んでいくか、自分で決めなければならなくなったのだ。

 では、なぜそれが明治20年頃に至って現れたのだろう。自由が与えられ迷う人々をまず捕まえたのは「国家的ニーズ」であった。そのような政治熱が一旦引くのが、自由民権運動が退潮していった明治20年頃なのである。政治というものにかかわらない青年たちは政治以外に生き方を見つけようとしたのだ。生まれもった役割にとらわれない本当の自己、それを希求する心が、真友という関係を求めさせた。

 もともとは性別など問わない、本当の自分を理解してくれる存在だった真友がなぜ性別枠にのっとったものへと変化していったのだろう?

 

明治20年代、真友という概念ととも構築されていたのは「家庭(ホーム)」だった。はじまりは明治28年『女学雑誌』において描かれた家庭の姿だった。そこにおける家庭像は、成員間に特別な関係性、愛情や親密さといった情緒的結合を求めるものであった。実はこうした家族の情緒化は、新しい考え方である。前近代社会における農民・町人・武家の家族は、ひとつの経営体であり、成員はその担い手だった。しかし明治維新によって家業から解き放たれ、俸給で雇用される職業が登場してからは家族は経営体としてのまとまりを失っていった。要するに、そんな家族に残されたものは「情緒的結合」しかなかったのだ。

 だが明治20年代といえば、近代的職業に就く人はごくわずかで「家庭」という観念自体はっきりと存在していたわけではなかった。だというのに、このような家族像が描かれたのはなぜだろう。そこには「真友」という前述の文脈がある。明治24年、『女学雑誌』の編集人である巌本善治も宣言しているように、「夫婦は真の友」だということだ。まずもっとも重視されたのは夫婦間の絆であり、夫婦は真友という言葉で表現されるべきものだった。本当に自分を理解してくれる存在を、夫婦関係に見出そうとしたのが『女学雑誌』だったのである。この雑誌において確立された「家庭」観は、「自己」の領域としての「家庭」の登場であったといえる。

 しかも、巌本は夫婦を真友と呼ぶだけにとどまらず、唯一の真友と言っている。世の中で夫婦のほかの関係はすべて上下関係であるから、自己をさらけだした交流をもつものは配偶者のほかいないという理屈である。ところが残念なことに、当時の夫婦の実態は同等な関係とはほど遠かったのが現実である。だというのに『女学雑誌』の彼らが理想の夫婦像を主張したのかといえば、まず彼らのほとんどがキリスト者だったということ、そして近代国家の建設するために男女関係を改良しなければならないという認識が知識人のあいだで課題として共有されはじめていたということと関係がある。

 さて、近代国家の基礎として理想とされた夫婦とは「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業にのっとった夫婦であった。このことは家庭が自己の領域、つまり私的な領域であるという考え方と密接に結びついている。つまり仕事という公的領域から戻って来た男は、家庭のなかに自己をさらけだす私的領域を求めたのである。だがそのような「家庭」の構築は完全に男性の目線から作られたものである。女性にとって家庭は労働の場であり、しかも、私的な場なのだ。とはいえ、男にとってもこの公私の二つの領域は自分を苦しめることにもなった。つまり男の自己の解放とは常に公的活動をセットにして成立するものであり、公私のバランスを保つこと、特に私的領域にばかりうつつをぬかすなということが求められたのだ。このような戒めは「男子たるもの恋愛ではなく功名をとれ」というメッセージにもつながっている。男はこうした緊張関係のなかで、過ごすこととなったのである。

 

 まとめておこう。まず明治維新が起き、自由を得、自らの道を決めなければならなくなった人々は自由民権運動の流れもあって政治へと生き甲斐を見出していた。ところがそれが退潮してくる明治20年代になると、政治熱を失い「本当の自分」を探し求めるなかで「真友」という関係性を欲する人々が生まれてくる。それが近代国家の建設という最初の文脈と組み合わさって、夫婦関係に真友を見出し、公的領域において疲れた自己を理解してくれる私的領域としての「家庭」が理想として構築されるようになった。ところがそれは男性の目線からの考え方であり、女性には自己の行き場がない。また一方で、この考え方のもとだと私的領域を得るためには公的な役割を確立しなければならず、男性もまた一種の緊張状態に置かれることとなってしまったのだった。

 

 そもそもこうした自己の希求自体、男性から始まったものである。彼らは夫婦を真友とみなすことは、女性にとっても名誉なことにちがいないと考えた。というのも、そこでは女性が単なる情欲の対象ではなくなっていたからだ。しかも真友である以上、配偶者選択は相互の同意、相手の人格を認めることでもある。

 だがやはり、男性が確保したかった私的領域のためには、妻が「家庭」という領域を夫にとっての自己解放の場となるように奉仕することが欠かせない。妻の愛は妻の役割として語られるばかりで、夫の愛が「自己」と関係していたこととは大きく異なっていた。女性が自己と役割との境界が曖昧な地位におかれるという非対称性は、恋愛観念の形成に重要な意味をもっていくことになる。

 

さて、このように形成された「夫婦愛」の形にすべての人が同意していたわけではない。明治20年代後半から明治末にかけて、立身出世という公的規範、男性が担うべき役割といったようなものを否定し、自己探求のみを求めた青年たちがいたのだ。彼らは必ずしも結婚とは結び付かない恋愛を希求した。その嚆矢は、明治25年、北村透谷『厭世詩家と女性』である。

 透谷は実世界というものを、義務と労働に満ち溢れた抑圧的なものだと論ずる―――人はいつまでも純粋無垢でいることはできず、そうした世界に直面せざるを得ない。だが恋愛をしているとき、人は純粋なままでいられる……。透谷は立身出世によって獲得する諸価値をはっきり否定している。外面的な物差しではかれない自己が具体化される関係こそ、恋愛である。一方、彼は夫婦愛には何の希望も見出していない。これは先述したように、夫婦愛によって得られる私的領域が、公的な「役割」を前提としていることと関係している。彼は社会的役割を呼び寄せないために、結婚を否定したのだ。彼は恋愛を正当化するにあたり、自然と社会を対置させて、恋愛は自然に属するものとした。恋愛は自然なものであり、それゆえに社会以前の自己を具現化する。

 ところが、透谷の恋愛論は男女のものであることを自明としている。この点は注意すべきだろう。そもそも真友を求めるという大きな流れのなかで「男と女」という組み合わせはそれほど当然の考え方だったわけではないし、決定的な根拠を持っていたわけではない。たとえば肉体的なことにしても、そもそも真友というのは「心」を問題にしているものであり、肉体性とは切り離されて考えられている。もちろん生物学的な知識が輸入されるにつれてその点を特権視する見方もある。明治19年には既に福沢諭吉が『男女交際論』において、肉体的な男女の組み合わせの「自然さ」を、精神的関係においても適用し男女交際をすすめている。だがこうした流れは『女学雑誌』の「家庭(ホーム)」には見られない。

 北村透谷の姿勢は明治20年代においては特異なものだったが、明治30年代となると立身出世を疑問に思う青年たちが群をなしてあらわれる。国家への貢献・立身出世に対する疑問は、人生の意義というのはやはり自己の探究だという確信へと改めて流れる。そこで注目されたのは「芸術」である。西洋芸術作品とともに流入した西洋芸術観とは、反社会的であることによって社会に存在意義を認められる存在が芸術家であるというものだった。そして反社会的であるとは、社会に統御される以前の「自然」「あるがまま」「真の自己」から溢れ出る自然な発想をもち続けることである。このような心性は明治30-40年代の社会に定着していく。いわゆる自然主義文学というものも、文学とはありのままの自己を表現するものだという文学観である。

 ところでこうした方向性はそれまで自己にのみ向けられていた目を、狭き門ながら、芸術家としての社会的な成功という意味で、公的領域に向けることでもあった。単なる立身出世、単なる稼ぎ手として終わりたくないと考えるインテリ層はこれに共鳴する。つまり公的領域における仕事さえもが「役割」ではなく「自己表現」に代わる生き方への強い憧れである。その方向で成功する人々はもちろんいたが、誰しもがそんな仕事について生活できるわけではない。このとき存在感を増しつつあったのが、初期社会主義思想である。このことは偶然ではない。『なぜなら、初期社会主義思想にしても「パンのための労働」に忙殺されることから解放された先に、個々人が「才能」を開花させることのできる社会を理想としていたからである』。

 

 

このような立身出世を望まない「反社会」的な考え方が広まることは当然社会から見て望ましいことではなかった。特に日露戦争終結明治38年)後は政府も「煩悶青年」たちに関心を強く示し、明治39年には国民としての自覚をもつように訓令を出している。自分一人の問題に固執して自分の世界に閉じこもるのは一大事だとみなされた。

 煩悶青年と恋愛を結び付ける見方を一般に流布したのは明治38年から39年まで読売新聞に連載された小栗風葉の『青春』である。この小説において小栗は結婚という社会制度の枠に収まることを堕落と捉える青年たちの論理を再現してみせた。さらに、そうして恋愛を追求したエリート青年が将来を棒に振り落ちぶれていく過程を詳細に描いてみせたのだ。また明治42年には夏目漱石の『それから』において「煩悶青年」が描かれている。

これらの新聞小説は、青年たち自身が恋愛を求めた論理はさておき、「煩悶青年」とは恋愛をめぐって「煩悶」する存在であり、恋愛こそが「煩悶」の原因であるとする世間的な見方を強化していったと考えらえる

 その結果、政府においても恋愛が問題とされる。恋愛の年齢制限、「淫猥の文学」に対する警鐘、恋愛とは配偶者選択のプロセス、といったようなことが主張された。極端な言説では、「自己」を無価値化し、「社会」にのみ価値をおく立場もあった。その代表が大町桂月である。

 大町は『中学世界』において、国家を無視した風潮を嘆き、青年の目を国家に向けることを使命とした。その方法が「男らしさ」の価値化であった。そこで主に引き合いにだされたのが儒教の君子/小人という区別である。君子というのは社会に益しようという心をもつ男であり、徳を有している。一方小人というのはそうではない。小人とは「男のなかの女」である。生まれたままの姿でいるというのは単に未熟で利己的なだけで、君子へと成長しなければならないのである。恋愛にかまけるのは小人のやることだと一蹴した形になる。

 ところが、男が恋愛の主体になることは否定したが、恋愛の対象になることまで否定したわけではない。男たるものは女に愛されるだけの資格がないといけないというのである。勉学に励み立身出世することによってはじめて愛される資格があるのだという理屈であろう。この流れにおいては、愛され、妻帯することは男らしさの証である。結果として、大町においては、恋愛というものは立身出世という男性役割の達成に従事した地位獲得競争となる。恋愛の勝者になりたければ恋愛になど興味をもたず、事業に精を出せというメッセージを発信したわけだが、このリニューアルされた恋愛像は「生物学的に」正統化されていくことになる―――まず子供を埋めるのは女であり配偶者選択をするのは女である。だから、男は女に選ばれる存在である。進化論によれば、女はすぐれた男を選ぶ(同時期、恋愛を質の高い人間を生み出すためのプロセスであると考え、人類の質を改良しようとする優生学も紹介されはじめた)。

 明治末には、恋愛をめぐって位相の異なる二つの言説が併存していた。自己を実現するもの、あるいは、生殖本能にもとづいて男として選抜される場……。このような対立を解消しようとしたのが、大正時代の恋愛論である。大正期には恋愛論ブームというべき、恋愛論の量産が生じたがその火付け役となったのが厨川白村『近代の恋愛観』(大正九年)である。彼の恋愛論は『社会的に期待される「男」であることと「自己」を追い求めることの対立を、解消しようとするものであった』。

 まず厨川は立身出世に邁進する男たちに女性の愛という、より大きな価値を訴える。他方、恋愛というものは生殖本能である性欲に根差したものであることも疑わない。つまり恋愛とは相手との関係のなかで自己を完成するものであり、子孫という「自己」を保存することであると主張したのだ。彼は自己の実現と、妻子を養うという男性役割の両立させるために、男性役割のほうも「自己」に内包されるものとして吸収した。

 この恋愛論によって、恋愛の仮想敵は立身出世を強制する社会ではなく、意に沿わない結婚を強いる因習へと一本化されることとなった。これは、真友を求める旅が親に決められない自己の意思での結婚の問題へと狭められたともとれる。そうしてそれが恋愛というものが男女間のものであるということを自明にした。

 

次は女性について見て行こう。女性の「自己」についての議論は明治三十年代後半頃から徐々に登場してきた。そのきっかけは明治32年高等女学校令公布であり、義務教育以上の教育を受けた女性が存在感を放ちはじめていたことである。もちろん高等女学校教育を受けられた階層は限られていたし、そこでの教育は良妻賢母にすることを目標に定めたものではあったが、それでもその教育が女性たちの知的視野を広げたことは疑い得ない。さらに明治34年には日本女子大が創立され、学徒をより長く継続する女性たちがあらわれはじめる。明治30年代後半には二十代後半になっても独身である高学歴女性のことをさす「老嬢(オールドミス)」という言葉も登場した。たとえば新聞小説『青春』では独身主義を掲げるオールドミスが登場する。彼女の理屈では、学校で活躍していた級友たちが結婚するとまるで無意味な人になってしまうからだった。そこで語られるのは「自己」を生かすためにはそういう役割におちてはいけないのだという女性像であった。とはいえ、『青春』もそうだが、独身を貫く思想には懐疑的かつ冷淡であった。

 それに肯定的にこたえたのが一部の社会主義者たちである。男だとか女だとかいう属性よりも前にある個を認めるべきだ、という。このような考え方は明治30年代後半から明治末に続々と登場してくるが、これに押し出される形で明治44年に『青鞜』という文芸誌が創刊される。創刊者の平塚らいてうが目指したのはまず女性の解放というよりも、「書くこと」を通した自己表現であった。そのことがもっとも強烈に表現されたのが創刊号に掲載された論考『元始女性は太陽であった』である。「女性は」とあるが実際その根本には、才能には男女の別はないという考えが強調されていた。男たちが立身出世競争に難色を示したように、女たちも家事に携わることを否定した。両方とも同じなのは、自己表現の道に生きるというのは性別役割と衝突することだという認識である。

 

 「自己」を求めてやまない男が「煩悶青年」として注目されたのに対して、女は「新しい女」というネーミングで注目された。だが後者の場合、それは一般メディアにおいてからかいやバッシングの対象となった。そもそも女性が義務教育以上の教育を受けること自体に反感がもたれており、女学生の姿が本格的に可視化されてくると、「堕落」「生意気」という批判がなされた。このような流れの結果、明治43年高等女学校令の改正により裁縫の授業時間数を増加させた実科高等女学校の設置に結実していったとみられる。逆にいうと、それまでは良妻賢母を打ち出しながらも家事・育児に関連した学科が目立っているわけではなかった。そのようななかから生まれてきたのが「新しい女」であり、まっさきに思い浮べられたのは平塚らいてうであった。

 ところが知識人たちは女性解放の主張自体を真っ向から否定することはできなかった。その一方で、歓迎もできなかった。男女平等の要求を否定はできないが、性別役割分業は維持したかったのだ。そこで「自己」の要求を「良妻賢母」という性別役割に行きつくように位置づけようとする動きが出てくる。それが東京女子高等師範学校の下田次郎であった。要するに外部の人や物と関係を断った内的生活が「自分である生活」であるとして、良妻賢母役割と「自己」と両立させようとしたのだ。さらに、男のほうも理想の生活をしているわけではないのだから、女のほうもある程度は受け容れなければならんともした。

 明治44年7月26日、東京の女学校卒業生同士の入水自殺事件が起こる。『婦女新聞』は社説でこれを論じ、「同性愛」が問題化される。これまで「新しい女」へのバッシングは男の領域に踏み入ろうとすることへの中傷であったが、「同性愛」については性的な堕落問題として把握された。同性への「色欲」は、異性への「色欲」に発展するものとされていたからである。また「同性愛」は「自然」から逸脱するという議論もなされはじめていた。男は性欲が強いもののおさまればまた社会生活に意識を向けるが、女はそうではないという傾向が強いとされ、生殖に重きが置かれた。だから女は妻になるのが自然なのだという理屈であった。大正2年、文芸誌としてスタートした『青鞜』が女性解放誌として大きく舵を切る。とはいえ、彼女らは男性との恋愛に至上の価値を置く路線を強めていくことになる。「自己」を開花させるという議論を同じくするエレン・ケイの思想が『青鞜』で紹介されたが、その話は、「自己保存」へと向かっていく。女の「自己」は恋愛によって実現し、家庭外の仕事において自己実現を果たす男性に対して、女は家庭内で「心霊の教育者」となることによって自己実現することができる、と主張した。

 

 平塚らいてうによって推進されたケイの「恋愛至上主義」「母性中心主義」に異をとなる女性たちも当然、存在した。大正3年、尾竹一枝を中心に純芸術雑誌を目指す『番紅花』が創刊。恋愛ではなく芸術を通して「自己」を追求する。そこでは女同士の恋愛を肯定的に描く作品も掲載された。またそこでは生殖という観点で男と女を規定することを肯定しながらもそこからはみ出る中性的な存在を肯定しようとするエドワード・カンターの「中性論」が紹介された。とはいえ、同誌は規模が少なく、六冊で自然廃刊となっている。これによって女同士の親密な関係性の水脈が途切れるわけではないが、大きくモデル化されることはなかった。これに対して、『番紅花』とは異なる観点から恋愛・母性中心主義を批判したのが与謝野晶子であった。与謝野はそもそも「自己」なるものが流動的で、固定的・不変の自己など存在しないという立場をとり、それゆえに女の「自己」も「母」に限定されないと論じた。彼女は女性が独立に衣食住を得、生活していくための職能を得ることを重視し、「適性」という意味で「自己」を求めた。彼女にとって恋愛も芸術も衣食住も等価であり、恋愛こそがとか、芸術こそが、とかそういう道を問題視した。だが、一方、そのようにすべてを等価にみると、「自分ってなんなんだ」という明治維新後、最初の疑問に舞い戻る。与謝野は何のために生きるのかとかそんな疑問以前にまず生活をたてろと言っているのである。彼女のこうした経済的自立という観点はその後も維持されていくことになるが、女性が結婚し子を育てること自体は自明視され続けた。

 そこに先述した『近代の恋愛観』(大正10年、厨川白村)の恋愛論が登場する。それは恋愛と結婚を切れ目なく接続させること、恋愛は配偶者選別、「自己」と「男性役割」に揺れる男たちにそれを両立させる道を示す、という思想を展開していた。しかし実はここには女性に関しても論じられていたのである。それはエレン・ケイの思想を色濃く反映したもので、男性の側から「婦人問題」への回答をしたわけである。仮想敵としての「因習」から解き放たれた「恋愛結婚」が男女ともに目指され、それこそが「自己」を実現する手段だという考え方は、武者小路実篤による『友情』においても示される。そのヒロイン・杉子は明らかに、「あなたのものになって初めて私は私になれるのです」と訴え、恋愛結婚を「自己」の実現と結び付けている。

 注目すべきことは、こうした恋愛論ブームが巻き起こった大正10年前後に、女性論者が参入していなかった、恋愛を論じることから撤退していたという事実である。それは彼女らが既に恋愛結婚を果たし、恋愛に興味を持っていなかったことが考えられる。そして結婚が特に自己を生かすものではなかったことに気づいた。関心はむしろ、恋愛を語るよりも、自己を生かすことのほうに傾いていたのだ。これにかわって大衆的な婦人雑誌『主婦之友』(大正7年創刊。昭和初期にかけて部数を大幅に伸ばす)が「愛」にかかわる言説を語り始める。この雑誌は『「愛される」ことで幸福をつかむというスタンス』を提示した。

 創刊直後から主婦へのお役立ち情報に加え、夫を慰安することについての記載が見られる。このような記述は昭和初期にはニュアンスを徐々に変え、『夫が妻を愛さないのは、「奥様がだんな様を放つたらかしておくからだ」』とある。夫の愛を得るためのアドバイスが夫の浮気相手の代表格とされた「玄人女性」を通してなされているのは、当時は公娼制度が存在しており、浮気が半ば公然と認められていたからである。まず第一に、若々しく美しく。ここでは「玄人」の姿勢が見習うべきものとして提示される。第二に、それなりの知性。夫を飽きさせない程度の知性。第三に求められたのが、かわいらしさ。乙女の心、花嫁気分、子供らしさ。たとえば旦那が新聞を読んでいたら後ろからそっと近づいて目隠しをしてあげる。とはいえ、実際に子どもっぽい妻が求められていたわけではなく、あくまで夫の機微を読んだうえでのいたずらである。計算された可憐さを演じる技術は芸者の接客術に見習うところがある。とはいえ、妻に玄人女性になってほしいわけではなく、あくまで技巧を取り入れることが求められた。その差別はもちろん『内面的な真実』である。

内面と外面、精神と肉体、あるいは、「真の自己」と「偽の自己」を弁別し、前者に価値をおく思考とともに、恋愛という観念は知識人層を中心に希求されてきた。しかし、いざ内面の愛を表現するためにはどうすればよいのか、というハウツー言説が語られるようになると、外面的な「型」が「玄人」の世界から借りてこられたのである。

 だがそのハウツー通りに定型化された「女」を演出すると、本当の「愛」ではなく、しかも男性の奴隷になっていると批判された。このようなジレンマが、徐々に形成されていった。