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にんじんと読む「生殖する人間の哲学」

第一章 「生殖」と他なるもの

 人間を生殖するものとして見ること。それは人間を動物として見ることでもある。それは単に食べ、疲れ、休み、老い、病み、死ぬということだけでなく、他の人間と関係しなければ行えない生殖の側面をあらわにする。すなわち、人間を生殖するものとしてみること、人間を動物として見ることは、身体性と身体性における関係の二側面に焦点をあてることに他ならない。

 人間はそのはじまりにおいてすでに、他なるものとの受動的な関係を背負っている。これを「被造性」という。私は自分自身を創造できず、したがって、そもそものはじめは自分を超えた他なるものとの関係なのだ。だがそのはじまりを他なるものに依存しながらもそれと相関的に存在するのではなく、被造性を忘れうるほどに私たちは自律している。私たちは自らが自らの起源であるがごとく振舞うことができる。これが主体である。そのうえで、主体は自らに同化することのできない他人と関係することによって、自らの被造性を見出すようにうながされる。主体は、他なるものへの依存が根本的に自律を支えていることに気づく。

 自律した主体は孤独であった。衣服をまとった自分以外のものたちは、自分以外なのであるが、自分のものであった。そこで私は独りである。この孤独という存在様態は、私を私のうちにとじこめている。この孤独が乗り越えられるのは、彼の認識から絶対的に逃れる他なるものと関係するときのみである。それはたとえば「他性」である。他なるものの出現は、孤独を破壊する。もはや自分から出来したものにしか出会わないという仕方では、彼はもはや存在していないからだ。彼のうちには、いま、””ひとつ””にまとめることのできない自分/他なるものがあり、彼はその二元性によって構成されている。たとえば自分の子どももまったく他なるものであり、主体を二重にする。

 さて一方、生殖とはひとりではできず、性差や個人差がつきまとうのだった。自分自身は生殖を行わなくても、生命維持には差しさわりはない。生殖はすぐれて身体的な営みでありながら、身体のための営みではない点でほかの営みと決定的に異なる。このことは妊娠するかどうか、産むかどうかには選択の余地があるということを意味しているだろう。性行為をするとときに妊娠し出産するという流れ自体は人間に限らないが、人間はその流れを分離しようと努めてきて、今日の生殖技術に至っている。一方には性行為を楽しみたい者たちがおり、一方にはただ子どもがほしく性行為自体を技術によって代行したいという者たちもいる。生むことは動物的でありながら、同時に、きわめて人間的な営みであるといえるだろう。

 

 生むことは、自分とは異なるものに突如として襲われ、それまでのあり方を根底から覆されるということでもある。結果、子どもという他なるものとの関係が新たな主体のあり方を形成することになるのだが、それは子どもというまったく思い通りにならない他なるものとの隔たりをうちに抱えた、二元性をもつあり方だった。注意すべきなのは、それが、よい経験をしたとか人生の糧になったとかそういう次元の話ではないことだ。それは他のものを吸収して変化しつつも自己同一性を保つことにすぎない。そうではなく、もはや使い慣れた『わたし』という一人称が、胎動を感じながら談笑していたまさにそのときに異質なものとして現れるような、手元から滑り落ちるような、そんな感覚に近いだろう。では男はどうなのだろうか。生むことを経ても相変わらず、引き裂かれることもなく、自己同一的な主体としてあり続けるのだろうか。そうではなく、生むことはやはり、男にとっても思いのままにならない他律的な出来事であるし、それは他なるものに襲われ、あり方を根底から覆される出来事になりうる。すると自分の身体をもって出産するかどうかは、重要なできごとではありながらも、決定的なものではない。実際、出産した当人は単に義務を果たした以上の気持ちがわかず、遠くにいる家族が連絡を受けて世界が一変したような感覚に襲われることもある。

 自己同一性を揺るがされないとは、他者性を、それまでの自分が形成してきた論理によって解釈し、はみ出るものを切り捨て、コントロールしようとすることだといえる。すると自然の流れを断ち切ろうとする生殖技術はコントロールの最たるものということになろう。問題は、生むことによって自己のあり方を根底から覆されるべきなのか、ということだ。これに答えることは容易ではないが、ただ、生むこと、生まれる命を、自らの論理のもとに回収してしまうことが、この世への参入を拒んでいることになるとしたら、見過ごすことはできない。障碍者の親は生んでよかったと感じている場合でも、出生前診断によってあらかじめそれがわかっていたなら生んだかわからないと思うケースがあるという。それは生む前に生むか判断する自分と、生んだ後に生むか判断する自分のズレである。

第二章 生殖の「身体性」の共有

 生殖における男の役割を理解したとしても、やはり中心的なのはまちがいなく女性の身体で行われる妊娠・出産という過程だろう。生殖の身体的経験を物理的次元でのみとらえるならば、生殖の大部分を経験するのは女性だけである。だが自分の大事なひとが傷つけられたりした場合に、あたかも自分自身が傷つけられたように感じることがあるように、広い意味での身体的経験をも、ここでは「身体性」と呼ぶことにしよう。

 拡張された身体の経験に関しては、女性は必ずしも特権的位置にはいない。妊娠中のお腹越しに子どもに話しかけたり、心音を聞いたり、超音波画像で胎児を見ることが、男が「身体性」を共有するひとつのきっかけになるだろう。男は妊娠しないが、吐き気がしたり、実際にお腹が膨らんだり、妊娠に似た身体症状や精神症状が起こる場合が或る。中絶の痛みもまた、男も重く経験している。もちろん中絶しろと迫るなど、参与度合いは一様ではないが、そのような男ばかりが強調される結果、中絶において男性は無関心な傍観者であるという公共イメージが作り上げられ、まさにそれによって多くの男性の経験を歪めることにつながる。

 ところでこの「身体性」は、物理的次元における身体とは一致しない場合がある。女性はたしかに出産するのだが、出産した当人は単なる物理的出来事としてしか受け取っていない場合があるのだ。物理的次元における妊娠・出産過程を一階、情緒的なつながりを含めたものを二階の経験と区別してみよう。当の女性以外は一階の経験ができないが、二階の経験は可能だ、といえる。だが女性にとっても一階の経験は、女性以外にとっても同様に、エコーや心音などの媒介物によって形成されたものだともいえ、一階と二階の境界線はそれほどに明確なものではない。つまりここで重要なのは、女性とその他の人々(とくにパートナー)とのあいだに固定的な境界線を引き、それを自明のものにしてしまうことは正しくないということだ。むしろこの流動性に注目するべきだろう。

 カップル内で生むか生まないかに関して揉めたとき、女性の意向がしばしば強調される。だが女性の意向は女性ひとりで形成されるわけではない。妊娠の事実は、たとえ妊活をしていたとしても、驚きをもって迎えらえる。それは非常事態である。心身の変調がすぐさまはじまり、妊娠の重みにとまどい、混乱したなかで、女性の捉え方も妊娠依然と以後でも変化する。周囲の人々がこの問題を共有してくれないと、たとえばパートナーの男性が問題から一歩引いた構えをとると、妊娠という事実は女性ひとりではとても抱えきれないものと化す。妊娠は女性の身体で起こるできごとであり、彼女はそれから逃れることができない。それによって、最終的には中絶を選ぶこともありうる。かように、女性の意向というものは厳密な意味では女性の意向だけで形成されたものではない。また、どちらの身体のできごとであるかという非対称性はありながら、男が身体性の次元で無関係であるとは限らないことは既にみてきた。この身体性の共有は①胎児への精神的・肉体的かかわり、②女性への精神的・肉体的かかわり、あるいはこの相互作用によって起こるだろう。胎児はどうでもいいが女性が大切だとか、女性はいいが胎児は大切だとか半分だけの場合もありうるし、女性が大切だから子どもにも愛着が湧く場合もあろう。

 ところでこの生殖の身体性は、予想される通り、不安定な共有である。身体性は肯定的に享受されているときは目立たないが、ひずみが生じると急に際立つ。男は肉体的には妊娠過程と関係がないので、男が離れて行くと妊娠は女だけの肉体的な問題とされてしまうようになる。逆に、女が中絶したいと決めると、男は衝撃を受ける。妊娠が起こるのが女の肉体であるだけに、たとえ男がいくら身体性を共有していても、中絶の決断は男の意向を反映しない場合が多い。女は男が離れると問題が肉体に縮小していき、男は女が離れると身体性の共有ゆえにそこに痛みを覚えるのだが、男は肉体的には妊娠と関係がないがゆえに男は当事者ではないかのごとく軽視されがちである。このことは、中絶の付き添いの場面に対しても考えられる。彼らは病院でまずパートナーから分離され、処置室に入ることもできず、無言で何時間も待ち続けることになる。そこで彼らが感じるのはその冷たい仕打ちに対する違和感や憤りであり、自分の非力さである。男はそのことについて打ち明ける相手はいない。男は女の名誉を重んじて妊娠・中絶の事実をだれにも言えず一人で抱え込む。女はそれを女友だちに打ち明けられる。「多くの主要なフェミニストの疑いに反して、決断に際して男性は、共有したいというもっともな要望のみを主張した。彼らは決断をコントロールしたいという要望を述べなかった」(p60)。男のこうした抑制を、今度は女のほうがなんの感情も持っていないんだなと解釈しだすのだと分析される。生むことはふたりの問題なのだから、本来はもっとお互いに本音で打ち明け合うべきなのだろう。

  •  女性は自らの肉体から逃げられない。もし女が妊娠の事実を否認しても、変化は肉体の内部で進行しているのである。だから女性の産む産まないという意向はいかなる場合でもないがしろにされるべきではない。
  •  だがこの非対称性をおいたとしても、男が女の意に反する感情や意見を差し控えるべきことを意味しない。むしろ自分の意向を伝え、話し合うべきなのだ。たとえ合意に至らなくても、あとになって女から「あのときあなたは平気な顔をしていた」と言われずに済むし、現に男は意見を持っていたのである。女のほうも妊娠は自分の肉体の問題なのだと逃げずに、男と話し合わなければならない。男は生殖に関する二次的な関係者ではなく、当事者なのだ。生殖にかかわる苦労や苦しみはほとんどすべてにおいて女性こそが第一の当事者であり、男性は苦労も苦しみも二次的なものだとされがちである。

 

 

第三章 「母性」の再考

 「母性」はまず第一には、(0)女性が産むこと、(1)産んだ女性が育てることというこのふたつを連続させる見方である。そして(0)と(2)周囲や社会のイメージする推奨する母としてのあり方という意味で、母であることを連続させる第二の見方がある。私たちがだれかを「母」と呼ぶとき、育児にたずさわり、子と緊密な関係を持つという意味合いを暗黙のうちに含みこんでいる。そして(0)と関連付けられたさまざまな価値観や慣習・制度などが絡めとられてさらに「母性」は膨らんでいく。

 もしもそうした母性が受け容れられない場合、(0)を否定的に評価しようとすることは当然の成り行きである。つまり産むということを拒否するのだ。昔、母親であること、母親になりうることを根拠に女性の生き方が著しく制限されていた状況において、まずこのようなフェミニズムが起こった。当然の戦略である。母性を根拠に制限されるのだから母性を拒否しなければ、自律し自由な存在になることができない。

 しかし母性を拒否するにあたって、産むこと自体を拒否するのではなく、ていねいに腑分けして拒否すべきものと肯定しうるものに分けることもできる。それが第二のフェミニズムであった。拒否すべきは母性という「制度」なのだ。本来自由に経験されるべき(0)に対して、外からかけられる圧力が問題だ。制度としての母性は男が女の生殖能力を管理するために貢献する。直接的な圧力はもちろん、儀式・伝統・法律・言語・習慣・礼儀・教育・分業などを通じて、メディアを通じて、間接的にも影響をおよぼす。女は見えない形で男にとって望ましい母性へと追い込まれているのだと、考えられた。よい母親になることが自己否定・自己犠牲、小さな子どもたちと一日中一緒にいて子どものペースに合わせて生活することに満足できそれ以上の人格をもたないことだとしたら、それは自分自身のための人生の終焉を意味する。そしてそのことを、娘も感じ取る。そして、子どもをもたない女性も影響される。そして彼女たちは産まないことを選ぶようになる。男にとって子どもを生むことと個性は別物であるのに、女にとってこれほどの分断をもたらすのは、制度としての母性なのだ。

 私たちは個々の女性が内から経験し得る母性を肯定したい。

 だがそこにおいて「産みうる」という生物的な条件は、母性にとってそれほど重要なものかと問わなければならないのではないか。母性の中心は出産だけではなく、育児という身体経験、子どもとの緊密な関係なのではないか。母性はそのことばの表面上の意味に反して、実のところ、男や育ての親にも開かれているのではないか。だから制度としての母性がもたらす分断は、女たちだけのあいだのものではなく、女と男のあいだにもあるのではないか———もしそうだとしたら、(0)産むことを核としない母性がありうるとしたら、母性を肯定的に捉え直すことができるのではないか。

 しかしどれだけ小さく見積もっても、生殖の問題はあきらかに、妊娠出産するのは女性のみだという性差が発生源になっている。そこでやはり、「産むこと」そのものと、「女性がー育てること」を切り分けることが肝心であろう。女性が子どもを産みうるということは、暗に、世話をする性だという意味をすべりこまされている。ゆえに女が子どもの世話をしたりそれによって仕事が制限されるのは当然だという話になってしまう。ところでこの連続性が生じるのはなぜだろう。たとえばなぜ、女が苦労して産んだのだから、あとは男がなんとかしろよ、という話にならないのだろうか。それは、妊娠・出産のあいだに形成された絆が引き継がれるのが””自然だから””という根拠をもっている。しかしそもそも、母親が子どもに愛情を抱くのは本能的なものとはいいがたい。産んで人に預けるのはふつうだったし、産んだ当人が育てないのは当たり前だった時代がある。

 ただこうして産むことと育てることを切り離したとしてもまだ十分でないのは、母性の第二の連続性として既にみたが、そもそも産むことそのもの自体に食い込んでいる「母」があるからだ。実際、女性を紹介する欄に二児の母と書かれる場合がある。男もそういうケースがあるにはあるが、ほとんどの場合、A氏には2歳と5歳の子どもがいる、というふうに書かれる。もしも母であることを外してその女性を見るならば、なにか大切なことを抜かしてしまったようにさえ思われてしまう。母親はその子どもの存在を通して、それから子どもとの関係性によって、改めて見られる。父親であることは、母親ほどには、その人の見方を変えるものではない。

 産むことは母になることにずらされ、同一視される。出産はそれによって「母」になる特別な瞬間であり、経験したものにしかわからない女性だけがなしうる偉業だ、と神聖視することによって互いに正当化しあい強化しあう。そして産まないものや母でないものを排除し、男親を二次的な親へと後退させる。このことが、『育児を手伝いはするけれど、産んだ者と同等の、あるいは第一の責任者ではありえないと、無自覚であっても思い込む』(p101)理由になっている。女にぜんぶを任せたい男にとっては朗報だが、一方、どれほど親身になって考えている男親であっても、そうであるようにふるまうことを強制されている。

 

 

 

第四章 新たな「母性」

 前章では産むことと育てること、そして子どもとの親密な関係が連続させられている「母性」について話した。産んだ女性が母親業に携わることはそれほど自然なことではないが誰が育てるべきなのか問われることはまずない。だが産むことと母親業に携わることとのあいだには確かな段階の差があり、そこを踏み越えるには、決意が必要であり、決意を継続が必要なのだ。産んだから母親にならなければならないとか、いかなるときでも母親であり続けなければならないといったことはない。

 このように産むことと育てることを分離することは、産む女性も産まない男性と本質的な違いはないと考えることに通じる。だがこの話は「母親業をどうやって分配しようか」といった労働配分の話で終わらせてしまうわけにはいかない。それは、母親業という実践を通してかかわりが、それ以前のその人の存在のあり方を形成し直す、あるいは変容するところにまで及んでいるだろうからだ。現状、そうした変容は「産む女性」のみに認められ、父親や養親に対しては過小評価されている。産むことに代わる「母であること」の核を、育てることを通じて主に生じる、このような存在の変容または再編成であると考えたい。

 さて、このような変容は第一章で見たように、「子ども」という主体にとってまったく他なるものによって引き起こされる。主体が存在するというのは自分自身にのみ繋がれていること、他のものとかかわっても結局は自らに同化して自分自身へと戻る円環運動である。そこへまったく他なるものとの関係が分け入ることで、主体が二重化し、分裂するのだ。その結果、主体は、子どもというまったく他なるものとの「関係」そのものとなる。まったく他なるものとの関係が私を形作り、主体の新たな存在の仕方となるのだ。

 このような存在のあり方の再編成は、もちろん、出産によって起こるわけではないのはこれまで見てきたとおりである。それには「身体性」が重要な役割を果たす。ここでいう身体性とは、身体の経験を重要なベースとしつつも、必ずしも物理的な身体の経験と等しいのではなく、感情や想いや思考も分かちがたく含みこんだ、身体的な存在が丸ごと巻き込まれるような経験のことである。そこで注目されるものこそ、「母親業」である。「母であること」において、あくまでも母親業が中心に置かれるのは、単に実践というかかわりであるからだけでなく、身体的な存在を丸ごと巻き込んだかかわりであるからではないだろうか。特に言語的なコミュニケーションに比重が置かれていない子どもにとって、身体というものの影響の大きさは重大なものとなっただろう。それが産んだ人である必要がないことはよくわかる。

 ここからは「母親業」という「女」と結び付けられてきた言い方をやめて、ジェンダー中立的に「第一の親」と呼称することにしよう。第一の親はひとりとは限らないし、いない場合もありうる。

 

 

第五章 父親や養親の側から生殖を見る

 すでに見てきたとおり、女性のみが妊娠出産するという生物学的事実によって、生殖にかかわることの多くが女性の側に割り振られてきた。このことによって産まない女性や男性、養親などとのあいだに隔たりが生まれてきた。

 そして「親」としての「序列」もここに生ずる。子を産んだ母親を頂点する序列である。父は二次的な親にすぎない、という見方である。さらに養親などは、””本当の親””よりも下位に位置づけられる見方である。そして生殖に基づいた家族とそうでない家族との序列である。たとえば養子縁組などで結ばれた家族は、生殖に基づいた家族をモデルとするように暗に求められている。

 母親 - 父親 - 養親

 母親については多く議論してきたが、「父親」はどうだろう。今も根強く父親の概念を構成しているのは、①生物学的父親(血縁)、②婚姻上の父親、③扶養者としての父親、である。だが身体性について考えてきたわれわれが父親であることの中心とみなしたいのは、「子どもを育てるという実践、その実践が築き、維持している子どもとの関係」である。血縁や法律上の地位よりも扶養者としての父親という像は、””男らしさ””に深く根付いており、手ごわいが、経済的な支えをしている人が「父親」とは限らないと考えられる。子どもとまったく接しないが金だけは払っているので「父親としての最低限の務めは果たしている」と言ったりする。

 この流れは理解できるものだが、では、「母親」との差異はどうなのだろう。理想的には、もちろん「母親」=「第一の親」であることが望ましい。だが現状において父親は第一の親を支える役割を担っている。こうしたことを鑑みれば、「父親」を「母親」から切りはなして再定義することはできない。言い換えれば、父親であることを考えるには、母親がつねにその中心にいるのだということである。父親は育児の根幹部分を母親に任せ、自分自身の生活が許す範囲で自分の得意なものを中心に担う。わからないことは母親に訊く。その関係は全体に気を配る管理職と、パートタイム労働者のようである。このような間接的な立ち位置は産む女性が神聖視されることによって””も””起こることは前に見たとおりである。””男らしさ””は世話をするという仕事を含んではおらず、男は単に稼ぎ手であることが期待されていることも、育児にかかわろうとする男たちのブレーキになっている。

 妻は夫に対して育児に関われよと言う一方、口を出すなとも思っている。これは管理職がパートに対するのと同じような感情である。妻は育児に対して権力を持っており、パート労働者にはよく働いてもらいたい(業務を増やしたい)が、経営にまで口を出されてはかなわないという理屈だ。もし夫が自分と同じぐらい「母親」できるようになったら、子どもから絶対的に求められることはないという面もある。つまり二次的な位置に男たちがとどまるのは、女からの抵抗によることでもあるのだ。

 

 

第六章 産むことや血縁を超えた「第一の親」の拡大

 「第一の親」であることは、性別ではなく、子どもの基本的な要求を満たす実践が当人の生活の重要な一部を占めていることで構成される。とすると、第一の親はあらゆる人に開かれると同時に、誰に帰属することもないつねに変化しうる「状態」であることになるだろう。第一の親の度合いを高めることも、そこから退去することもできる。こうした可変的な見方をする。一方、父親であることは、現状やはりその関与の度合いは第一の親によって左右されるため、母親であることと質的に異なるのだった。

 だが、第一の親であることが単に「大事に思っている」こととどう区別されるのだろう。保育士やベビーシッターも、子どもとの関係においてかなり母親業を実践しているといえる。だが保育士は第一の親でない場合がほとんどである。では第一の親に不可欠なものとはなんなのか。

  1.  代替不可能な責任 保育士やベビーシッターも重責を担っているが、親に比べれば限定的である。休暇をとることもできる。だが親は逃れられず譲渡できない責任を担っている。向き合うしかない。この切迫さが世界へのかかわり方を組み替えるように迫り、自己のあり方をも変容させるに至るものである。
  2.  子どもからの指名 子どもがいざというときに一緒にいてほしいと切望する相手である。とはいえ、いてほしい人は場面によって異なるため、つねに同じ一人とは限らない。この子どもからの働きかけが、代替不可能な責任という立場の動機づけにもなっている。

 このように、第一の親であることは親と子どもの相互作用によって形成される。とすると、この調和がうまくいかない場合、いくら第一の親であろうとしても「ママはどこ?」と泣き叫ばれるケースもあるだろう。