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遊びの考察(日記)

2022.06.27記

 遊びはつねに、遊び手にとっての遊びである。遊びを遊びとするものが遊び手のひとつの「態度」であるということには大きな意義がある。一つは、遊び手は遊びのプレイヤーではない場合がありうる。たとえば木の葉がふわふわと揺れているとき明らかに揺らしているのは遊び手ではない。一つは、つねに遊びの可能性が開かれている。遊びというものを観察したとき、遊び手がプレイヤーである場合とそうでない場合を区別することは有用かもしれない。一人で遊ぶ場合もあれば複数で遊ぶ場合もあることは「態度」という言葉と関連して、興味深い。

 遊び手が何らかの出来事や活動に対して「態度をとる」という言い方は、しかし、遊び手の「かかわり」という積極的な意味内容を取り逃してしまいかねない。この誤解を避けるために態度という言葉を広く捉えることもできる。私たちは一切何一つ手を加えることなく目の前にあるものや活動を遊びと捉えることができる。もちろん、手を加えることもできるが、手を加えたものを遊びにしないこともできる。だがもし態度ということによって私たちが「いつでもそうすることができる」ようなものとして捉えるなら、自由というものについて立ち止まって考えてみることが必要かもしれない。現に、私たちの多くは毎日の出勤を遊びとしては捉えていないし、ちょっと無理そうに見える。また、私たちがなにかを遊びとするとき、それはある程度巻き込まれているもので、「これは遊びだ」と冷めた態度をとってはいないということも注意すべきだろう。遊び手がなければ遊びはないが、遊びが完全に遊び手の手中にあるならばそれはもう遊びではない。