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(二回目)にんじんと読む「徳は知なり(ジュリア・アナス)」🥕 第六章まで

徳、性格、傾向性

 《徳とはある種の傾向性であり、ある一定のしかたで推論し、感じ、行為する傾向性である》(p329)。徳とはその人自身に備わる特性であり、(1)一貫して存続するpersisting(2)当てにできるreliable(3)性格を表すcharacteristic。

  •  徳は単に存続するだけでなく、状況に対する反応によって強まったり弱まったりする。
  •  「あの人は気前のいい人だから」という風に徳はある一定程度当てにされる。(言語だから当然ではあるが)徳について共通した了解をわたしたちは共有しているということを言いたいのだと思われる。
  •  数独がいかにうまくなろうがそれによってその人の性格には影響しないだろう。一方で思いやることができるようになった人は性格まで変わるだろう。このことは数独ができるとかそういう技能との違いを強調するものだと思われる。

  このような徳の考え方は、われわれがそのように行為する動機付けを既に持っていることを含意している。換言すれば、Aするのがよいことだと判断して、Aを実際にするかどうかをどう動機づけられるかを探求する倫理学理論とは明確に異なっている。

 われわれは生まれた時からすでに行為の傾向性を持っている(「自然的な徳」)。そこからしつけや教育、その他さまざまな経験を経て、正直さや気前のよさや勇敢さなどの徳を発達させていくのである(「知性的な徳」と呼んで区別しよう)。われわれは初めから既に動機付けを持っているのである。

 

 以上述べ来たったことからもわかるように、知性的な徳の習得は時間を要する。手本を見ることなどを通じてさまざまな徳について学び(どのように反応するか)、そして実際にそのように振る舞うことを通じて、彼はたとえば勇敢な人となる―――このように素描される徳の習得をみて、「徳は機械的な反応とは違う」と反論したくなる向きもあるかと思うが、まさにその通りである。意識的にそのように振る舞う(習慣)段階から派生するのは徳ばかりではなく、それが機械的反応と化してしまうこともあるし、もしくは実践的技能となることもあるだろう。この時点で簡単に区別すれば、機械的反応には習熟などということはない。実践的技能は相手の反応に無関心だが、徳はそうではない。

 《機械的反応の中心的な特徴は、関連する状況に対していつでも同じ反応をするところにある》(p27)。たとえば毎日毎日職場に通っていて、その日は別の用事で出かけたのにいつもの道を左に曲がってしまうようなことがある。一方で、実践的技能と徳は単に機械的反応以上のことを要求する。たとえばピアニストは最初、楽譜を見ながら意識して演奏をするだろう。しかし技能の習得によって得られるものは単に楽譜通り弾けるといったような機械的反応ではなく、楽曲に対するピアニストの考えが吹き込まれた演奏であろう。ピアニストは演奏を改善し続けるし、練習し続ける。そうでなければ下手になる。一度身につけたらそれで終わりというようなものではないのだ。

 徳と技能は非常に似通っている。これがこの本の主張の一つでもある。どのような点で似ており、どのような点で異なるのかをこれから見ていこう。

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

技能を要する行為と有徳な行為

 技能と徳の類似性の基礎にあるのは、①学習が必要不可欠なことと、②《駆り立てる向上心》である。

  1.  する必要のあることを実際にすることによってのみ習得することができる、ということ。建築はどれだけ本を読んでもできるようにはならないし、倫理学の本をいくら読んでも徳を身に着けたことにはならない。
  2.  学習者は教師のものまねをしていればいいわけではない。手本のどの部分に従えばいいか、別のやり方ではなくこのやり方である意味はなんなのか、このやり方の何が重要で何が重要ではないのか、といったことを理解しなければならない。もしものまねしかできないなら、それは技能の習得という点では完全に失敗だといわれるだろう―――いわば、学習者はそれを自分のものとして習得しなければならない。

 もしもそれが何らかの複雑さをともなう技能の場合、熟練者は学習者に「理由を与える」ことが含まれる。たとえば電気工事士はそのように配線するという事実だけではなく、そう配線しなければならない理由もつたえるだろう。つまりここに言語がある程度まで必要になってくる。技能を持っている人は自らのすることに説明を与えることができるが、それができない人は技能ではなく単に「こつ」を持っているに過ぎない。現代における技能という言葉はこの両方の意味を含むが、学習の必要性と駆り立てる向上心のふたつが見られないような技能の例には、説明を求める要求を見出すことはできない。

 

 技能と同様に、徳にも「学習の必要性」「駆り立てる向上心」「説明の要求」は見られる。①われわれはいつでも徳というものを、つねにある一定の文脈のなかで実践を通して学んでいく。②そして徳というものは人のやっていることをそのまま取り入れるようなものではない。《アリストテレスが言うように、人はみな父祖伝来のものを求めているのではなく、よいものを求めている》(p39)。たとえば子どもは親が犬を追い払うのを見て、それを勇敢なこととして覚えるところから徳の学びが始まる。しかし、

  1.  親が犬を追い払った事実だけではなく、どうして親がそうしたのかを理解しなければならない
  2.  似たような状況に置かれたとき、子どもは実際に勇敢に行為できなければならない。これができるようになるためには勇敢さと向こう見ずの違い、自らの能力と限界、危険な犬かどうか見抜く重要性に気づかなければならない。
  3.  へまをやる可能性があることを正しく認識していなければならない。

 こうした三つの点で向上心を持たない限り、勇敢さがが生まれることはない。

 ③だが親がわざわざ犬を追い払った自分を「勇敢だろう」とか、いちいち説明するとは思えないかもしれない。その通り、われわれは親や教師がいつでも事細かに説明している姿を想像しなくてもよいのである。たいていは子どものやったことに対して報いるか、それを思いとどまらせるといった形で行われる。しかし時には、親のした行為、誰かのした行為などを親や教師が説明するということもある。

 

 以上、われわれは実践的技能からの類推から徳についての考え方を得ることができる。

 

 

徳の力はどこまで届くか

 これまでしてきたような徳についての説明は、倫理的な判断を文化相対主義的なものにしてしまうように見える。たとえば軍人の国での勇敢さと、平和主義の国での勇敢さは異なるはずだからだ。このような不一致があることは、われわれの徳の理論にとって致命的なものなのだろうか。もちろんそうではない。

 なぜか。それは徳というものを得るためには向上心が必要であったからである。教師の模倣を越えて、彼らがそのように行為する理由を見つけ出さなければならない。有徳になることを可能にするのは、自分や他人のしていることに説明を与え、理由を要求したり与えたりする衝動である。

 それはそうかもしれない、しかし社会の大多数の人は自分の社会の社会的文化的基盤を批判しようとはしないではないか―――われわれはこのことについても説明する必要があるだろう。

 次のように考えることが役に立つ。勇敢になろうとしている人々は、他の人々から区別されるようなかたちである種の理由や感情や態度を共有する。彼らは「勇敢な人々の共同体」を形成しているのだ。この共同体はもちろん目に見えるようなものではない。《正直な人になることは、少なくとも、ある種の行為をし、ある種の行為をしないようになることであり、ある種の行為にショックや反感を覚え、ある種の行為に魅かれるようになることである》(p95)。さて、もし彼が正直な人になれば、ある時点でたとえば家族のすることにショックを受けるようになるかもしれない。このことは、「正直な人々の共同体」「家族」の二つの共同体に属していることを意味している。*1

 そこでわれわれは徳の学習を継続するか否かを選ぶことができる。しかしほとんどの場合、実際上の理由からそれを妨げられるのだ。というのも、家族という共同体は目に見えるもので、現実に安心感や支援を与えてくれるものだからである。一方で、正直者の共同体は目に見えず、日々の生活を営むうえでは助けにならない。

 

徳倫理学について

徳倫理学について

 

 

徳とよろこび

 徳と技能は、感情や関心という点で異なる。熟練の配管工は無関心な態度で水漏れを直すことはありうるが、ただお金を差し出すだけで相手の反応に無関心な人は有徳な人ではない。アリストテレスは「有徳な人」と「自制心のある人」を区別した。自制心のある人は有徳な人と同じように行為するが、よろこんで何かを与えはしない。行為と感情が調和していない。《有徳な人は自分のすることを快く思うという点で他の人から区別される》(p115)。

 まとめると次のようになるだろうか。

  1.  徳と技能は学習の必要性と向上心という点で類似する。
  2.  技能は感情面のあり方には関係しないが、徳は関係する。
  3.  仮に同じ行動をしているとしても有徳な人と自制心のある人は異なる。前者は行為を快く感じ、後者は不快に感じる。(「感情面のありかた」の区別)

 とはいえ、技能は無関心な態度をとれるというだけで、よろこびを感じることは当然ある。だからここでも技能からの類推をすることができると考えられる。つまり、傾向性の発達に応じてよろこびが生まれることを、技能は教えてくれるのである。

 

 このことはチクセントミハイの心理学的研究によって裏付けを得ている。彼の研究のもっとも印象的な成果の一つは次の誤解を取り除いたことにある。つまり「私たちが最も喜びや満足を覚えるのはくつろいでいて何もしていないときか、努力を要することを何もしていないとき」だという誤解である。*2わたしたちがもっともよろこびを覚えるのは目標志向的な活動に従事するときである。

 主要な諸目標が調和のとれたかたちで構造化され、状況への積極的な関与を必要とする何らかの目標を達成することに意識を集中しているとき、「正さなければならない無秩序や防ぐべき自己への脅迫もないので、注意が自由に個人の目標達成のために投射されている。私たちはこの状態をフロー体験と呼んでいる」。

 フロー体験は積極的な関与と熟練の技能を要する活動をよろこびながら行うことを言いあらわしている。フロー体験は(1)自己目的的であり(2)その活動に従事する人が自己を意識していないという著しい特徴がある。たとえばピアニストはキーを正確に弾くことや、いまからBフラットに移行するということにふつう意識を向けていない。チクセントミハイは主に技能を中心にフロー体験を説明しているが、これを徳について述べることは適切だろうか。適切だ、と答えることが本書の主張のひとつである(p121第二段落→p126第一段落まで)。

 

徳は何の役に立つのか?

徳は何の役に立つのか?

 

 

徳の多数性と統一性

 《人がある一つの徳を申し分なく発揮できるかどうかは、その人がその徳以外の面でどのような性格をしているかによって決まる》(p139)。たとえば気前の良さは高慢な態度と衝突し、うまく発揮できないだろう。このことはわかりやすいが、では、アリストテレスのいうような徳の統一性を認めるべきだろうか。すなわち、人がある一つの徳をもっているなら、その他のすべての徳をもっている。

 たしかに徳同士には関連性が認められる。しかしその関連性のあるまとまりが一つだという理由はまだない。結論から言えば、これらは実践的知性によって相互に結び付けられているため、そのまとまりは独立ではありえない。

 自然的な徳については、勇敢さはあるが気前のよさはあまりないといったようなことがありうる。しかし徳というものは知性(=実践的知性)によって導かれるものである。しかしたとえば、徳を発達させる教育は、勇敢さや気前のよさといった項目を独立に伝えるものではありえないだろう。ある一つのエピソードに見出される徳は複数ある。つまり実践的知性は全体的に発達するのである。もし徳というものが独立したいくつかのまとまりで構成され、それに応じた小さな実践的知性があるとすれば、われわれはまず状況がそのどちらに対応するかを吟味したうえで、それから結論を出すことになる。だが別々の徳に備わる別々の実践的知性が、双方の徳の要求を比較しながら評価し相互に受け入れることのできる結論に達することがなぜ可能なのか、まったく理解に苦しむ。

 

 では徳の統一性を認めるとしよう。軍人が発揮する徳とアルツハイマー患者の介護者が発揮する徳は異なるはずである。すべての徳を発揮できないといけないなら、有徳な人は軍人と介護者の生活を送らなければならないのだろうか。つまり、有徳な人はあらゆる点で有能である。このようなバカげた結論を避けるには次のようにいうしかない。つまり、人は多様な生活を送らなくても、すべての徳を発揮することができる、と。だが、この結論も受け入れがたい。

 ここで「生活の環境」と「生きることそれ自体」を区別しよう。生活の環境はあなたにとってはどうにもならない要因であるが、生きることそれ自体はその生活の環境にどのように対応するかを意味する。あなたは親を選べないが、その親とどういう関係を築くかは選べる。《古代の道徳哲学で用いられている比喩で言えば、生活の環境はあなたが手を加えることのできる素材であり、生きることはその素材に手を加えて何かを作り出すことである。よく生きることは、それを上手に行うことにほかならない》(p157)。

 徳は生活の環境の一部ではない(自然的な徳は別!)。徳は生活の環境のなかでどのように生きるかの一部であり、われわれはみずからの働きかけによって徳がそこにあるようにしなければならない。生活はさまざまに異なり、それらの生活を有徳に生きる仕方には多くの種類があるのだ。軍人の生活にはとりわけ勇敢さが、介護者の生活にはとりわけ忍耐が必要となるが、そういうもろもろの徳はどちらの生活にも必要であるが、その統一のされ方は生活によって違いが出る。

 つまりあらゆる種類の生活に適した有徳なありかたというものは存在せず、理想的なありかたというものもない。《徳というものは、これがこれくらいあればよいというかたちで、万人に合うように前もって定めておくことができないのである》(p160)。われわれは徳を組み込まれた環境のなかで発達させるが、それはその環境にうまく対処するために必要とする徳である。《私たちの理解では、徳を発揮することは、生活の環境がどのようなものであれ、さまざまな環境のなかでなしうることをなすことなのである》(p161)。

 

 

 

徳倫理学基本論文集

徳倫理学基本論文集

  • 発売日: 2015/11/10
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

*1:ここで指摘しておくべき最も重要なことは、正直な人になることは、人を当初の文脈から引き離す可能性を秘めている、ということだと思われる。以前読んだ『依存的な理性的動物』の記事を参照。

*2:このことはエピクロスの快楽主義を否定するものだろうか。そうではない、と考えられる。