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にんじんと読む「進化倫理学入門」

  1. なぜ自然選択は、道徳的に考え(しばしば)道徳的に振舞うヒト科の生物にとって有利に働いたと考えられるのか?
  2.  道徳的に考え道徳的に振舞うヒトは、どのようにして自然選択から生み出されたのか?

第一章 自然選択と人間本性

 すべての個体は平等につくられてはいない。集団内での変異は、特定の環境で次第にある個体の生殖率に差を出す。もしその変異が遺伝しうるなら、その小さな優位性によって個体数に差が出る。まとめると、生殖する生物の中で自然発生するいくらかの変異は、同じ環境内の同種の他の個体たちとの関連で、ある個体の生殖成功の割合を改善させるかもしれず、この適応度を高める変異が子孫に伝わった時、自然選択による進化が起きたという。

 進化理論は、(1)生物の多様性を簡潔に説明し、(2)設計者に頼らない設計を発明した。そしてその論理は、振る舞いにまで円滑に拡張されうる。ここで議論が起こるのは、道徳感覚が血液の赤さのように副産物なのか、そうでないのかということだ。注意すべき点はいくつかある。進化理論は生物のすべての特徴が適応の結果であるなどと主張している訳ではない。たとえば生殖にまったく影響しない変異というものもあるからだ。また、自然選択は誰の意図でもないということだ。キリンが首を長くするぞと決意して長くしたわけではない。

 身体的特徴について進化論的説明を受け入れることにまったく抵抗はないとしても、心理的特徴まで口を出されると嫌気がさすかもしれない。身体のほうは生まれつきそうなっているが、心は育ちが問題なのだと。ところが完全に育ちだと言い切れないのであり、つまり、私たちの心は白紙なわけではないのである―――考え方や感じ方、推論の仕方、欲求の仕方といった心理システムは人間の本性でありうる

 進化心理学者は人間の心を説明するときに「モジュール説」を使う。すなわち、多数の問題を解決するために設計された多数のモジュールの集合、手続きのまとまりが心だということだ。私たちの祖先はよく起こる問題をそのシステムに従って解決してきたのだ。だが私たちはこうしただいたいの仮説を携えたあと、できるだけ慎重に道を進まなければならないだろう。

  1.  その行動が生物学上適応的だからといって、心理的な適応とは限らない。つまり、適応的であることは適応であるとは限らない。たとえば健康診断にいくことは適応的だが、健康診断に行くように方向づけられているわけではない。単にそれは学習して身についたのである。
  2.  心理的な適応によって生じた行動は、適応的であるとは限らない。当時は貴重な糖分を食べたくなってしまうことは適応によって生じたが、現代では糖尿病になってたいへん良くない。
  3.  進化心理学者は説明しようとしているのであって、弁護しているわけではない。男が浮気性なのが性の選択圧によるものだと言ったからといって、だからしょうがないんだよと価値判断しているわけではない。説明と正当化を区別しなければならない。いま道徳の話をしようとしているのだから特に!
  4.  あなたがどんなジャンルの音楽が好きなのか、進化理論に頼るのはどうかしている。つまり進化理論の射程を誤解してはならない。あなたの年代の好みの音楽を調べるためにアンケートをとるのはひとつの方法だろうが、進化理論ができることはこのアンケートとよく似ている。進化心理学が言えることは「あなたはこれこれの特定の環境からの入力があるところでは、あれよりもこれを好む確率が高い」以上のものではない。せいぜいのところ集団という水準での傾向に過ぎない。
  5.  あなたがしかじかの遺伝子を持っていることは進化によって説明されるが、あなたが必然的にその行動をするということは一切ない。なぜなら遺伝子配列と行動を結び付ける因果関係が存在しないからである。遺伝子はそっと囁くにすぎず、あなたのいる環境(育ち)ほどには声がデカくない。

 あらためてまとめよう。

  1.  心理的適応の探究は適応的な行動の探究ではなく、適応的であった心理的特徴の探究である。
  2.  人間の行動を進化によって説明することはその行動を正当化することではない。
  3.  集団としてそういう傾向があるのはなぜかを説明することは、あなたがある瞬間にある行動をとったのはなぜかという説明を与えるわけではない。
  4.  遺伝子は私たちを運命づけているわけではなく、行動の方向性を、せいぜいのところ、提案しているにすぎない。

 

第二章 正しさの(最も初期の)起源

 進化論によれば、ある変異が集団内に広がるのはそれが生殖成功率に影響するからだった。だとすると、自分を犠牲にして他人の生殖成功率が上がるようなことをするやつがいるはずがない。すると世界は純粋な利己主義者たちの世界になるだろう。個体は自身に益するようにしか行動しないはずだ。ところがこうした結論は、現実とは乖離している。

 自分のことは自分で、を徹底すると敵が来た時に声をあげるやつは誰もいなくなる。だが声をあげるやつがいたほうが全体としては生殖成功率は上がるだろう。というわけで進化理論は個ではなく集団に益する方向で、利他的な行動が進化してきたのだといいはじめた。いわゆる「群選択」だが、この説は、ありえはするものの、非常に弱い。なぜかというと、他者に益するやつを利用する突然変異的利己主義者が現れるとたちどころに圧倒されてしまうからである。というわけで早々に切り上げさせられる羽目に陥るのだが、最近はさらに、反対意見が出ている。

 ウィリアム・ハミルトンが示したことは、個体の利益と遺伝子の利益が衝突すると自然選択は遺伝子に報いる傾向があるということだった。兄弟のために飯を譲ってやることは自身の生存にとって不利益だが、兄弟に死なれると二人が共有している50%の遺伝子が死んでしまう。だから兄弟を助けることは遺伝子を複製するもうひとつの方法である。ある遺伝子が複製されさえすればその乗り物がだれであろうがなんの問題もない(「包括的適応度」)。このことは血縁者の生物学的価値に光を当てる。

 たとえば誰に対して警告の呼びかけを発する変異を成し遂げたやつがいるとしよう。この警告によって彼は損害を被る。だが周りのやつらは全員、なんのリスクもなしに生存率が上がる。さっきは徹底した利己主義者が彼を食い物にしてきたのはそういうところだった。だがもし、血縁者の存在を感知する場合にのみそうするのならどうだろう。彼の持つ遺伝子は生き残る。いわばコストに見合った警告だというわけだ。つまり「選択的に援助する」ことで、困難を突破できるというわけだ。たとえばニホンザルも食べ物を分け与えるのは血縁者限定だ。ただ注意しなければならないのは、ニホンザルは「血縁者に興味あるぜ」と常日頃から考えているわけではないということだ。そんな想定をしなくても、自然選択は行われる。

 ここで説明されたことはこういうことだ。「自然選択は家族構成員を援助し深く気遣うという傾向を説明し得る」。だとすると、家族以外はどうなのか。それはもちろん、他の過程によって説明されなければならないだろう。それは自然だが、やはり注意が必要である。まず第一に、大昔の生物たちに遺伝子検査はできないことだ。血縁者を援助するためにはなんらかの方法で「血縁者サイン」がなければならない。そのサインは、たぶんそうだろうな、というものも多いだろう。つまりニセモノが混じっている可能性があり、一部非血縁者を助ける理由を構成している。そして第二に、自然選択はきわめて保守的な過程であること。たとえば目を一度作り出すと、目を失うことはデメリットなので、通常なくなることはありえない。だから家族以外に対する援助は、家族に対する援助を基礎としている可能性が高い。

 協力することはたいへんよいことだ。協力すればたくさん利益があげられる。問題は「フリーライダー」である。つまり、みんなで協力しているときに裏切る奴だ。このことはゲーム理論における囚人のジレンマを思い起こさせる。裏切ったほうがいいとなると、互いに裏切り、もっといい選択肢があるのに馬鹿な選択を合理的にはとらざるを得ないあのゲームのことだ。この話に得るところがないならば、わかればいいのはこのことだけだ。「裏切るのは常に最も魅力的な選択肢」だということ。

 

 

第三章 穴居人の良心

 もし進化が人間の道徳能力の原因だと言いたいなら、その道徳能力というものがなんなのか進化とは関係なく説明しなければならないだろう。

 たとえば「道徳的である」であるとは、道徳的に振舞うことと同じだという人がいる。この考え方はほぼ間違いなく誤っている。一般的に容認されている道徳規則に則るように振舞う、つまり周りのネズミを殺害しないネズミなどの多くの生物が道徳的であるとみなされることになる。もし庭仕事を手伝ってくれるロボットを作ったら、そのロボットは道徳的なのだろうか。たしかに道徳的に振舞うことは大事だが、道徳的だというには何かが足りないのである。しかも、個人的な利益のために嘘をつくすべての人を道徳的な人格ではないと言い切るのも極端であるから、必要条件ですらない。「道徳的である」ことは何らかの行動を結び付いていることだけはたしかだ。

 行動には動機がある。利他性を決めるのは動機である。標準的には、道徳的能力とは道徳判断という判断を下す能力のことだと説明される。もし妊娠中絶は殺人だとプラカードを持って歩いている人がいたら、実際それが殺人かどうかはともかく、彼らは『妊娠中絶は禁止されている』と言いたいのだと考えるのは自然な発想だろう。禁止は、間違っているから行うべきではない、ということである。それは、気が進まない、こととは区別される。もし禁止を理解しない生物がいれば、彼らにとって道徳感覚はよくわからないものになるだろう。もし同胞のすべてを愛す友好的な生物であったとしても、一部の行為は禁止されているのだとみなさないなら「道徳的である」とは言えない。そして禁止を破る人は、実際に処罰されるかはともかく、処罰に値すると考えられている。もしも頻繁に禁止を叫ぶものの誰かがそれを破ったときに報いを受けろともなんとも思わない生物がいたとしたら、非常に驚くべきことだ。我々の道徳感覚には、なにか行動に対してその反応はふさわしいとかそうでないとかいう認識があるらしい。

 道徳的生物を道徳的たらしめているものには、いくつかのことが関係している。

  1.  道徳的生物は禁止を理解する。
  2.  禁止は欲求に依存しない。やりたかろうがやっちゃだめ。
  3.  法律のような取り決めに依存するようには思われない。
  4.  動機とかかわりがある。つまりなにかが間違っているというのは、その行為を控えたいということでもある。
  5.  道徳的禁止と知っていることをすることに対する処罰は正当化されうる
  6.  自身の悪事に対して感情的反応を示し、償いをするように駆り立てる。