第一章 自然淘汰的死亡説
天文学者フレッド・ホイルは言った。生命が偶然作られる確率は、「がらくた置き場を竜巻が通ることによって、たまたまボーイング747が組み立てられる」のと同じだと。だが現に生命はある。それは自然淘汰というものの働きが、一見ありそうもないことを起こす力があることだ。適当にがらくた置き場に突っ込むことを無限回繰り返せばいつかはボーイング747ができるかもしれないが、宇宙が生まれてからでも138億年しか経っていないのでそこまで試行回数があるわけではない。一発当てるために無料対数の失敗作を作っている暇はないのである。
- 生命にたどり着く道をこんな比喩で考えてみよう。じいさんが横断歩道を連続青で連続10個渡り切ることを考える。ごく単純に、じいさんがこれを成し遂げる確率は1/10の10乗なので100億人に1人のじいさんが達成することが出来る。100億人のじいさんを横並びにスタートさせて最後まで歩き切るじいさんは1人というわけだ。しかし100億人もならべられる横断歩道などない。
- そこでまずは10人のじいさんを横並びにし、スタートさせる。一つ目の横断歩道で1人だけ生き残るだろう。奇跡を起こすための最大のポイントは、ここでじいさんが10人に分裂することである。そうしたらまた1人生き残る。これを繰り返す。するとたった100人のじいさんだけでゴールまでたどり着けるのである。
確率さえあれば無限回やればうまくいくのだが、自然淘汰は無限の死者を出さずにゴールできる。もしこういう仕組みがなかったら、たしかに生命など生まれなかっただろう。
だから最終共通祖先(LUCA:ルカ)は、「スタートしたじいさん」である。どうも名前のせいで単一の生物みたいに考えられてしまうが、横断歩道ごとにルカが入れ替わる。私たちがルカだとみなすものは、最後の横断歩道のじいさんかもしれない。そしてもはやその段階ではいろいろな仕組みは既にできあがっているのである。
自然淘汰が起こるためには、子どもをたくさん作らないといけないのはじいさんの例からもよくわかる。そうとはいえ、資源には限りがあるので、たとえ寿命がない生物でも数が多すぎたら餓死する個体が出てくるのは必然である。彼らはあぶれたのだ。生存闘争とは固体同士の殺し合いではなく、みんなが限られた資源のもとで生きようとすると当然に起こる静かなものである。数が少なければ絶滅するが、多ければ生存闘争することになる。お釈迦様が勢ぞろいしようが朝から晩まで生存闘争であろう。寿命がない生物でさえ、この「死」は避けられない。
だからじいさんがもし10人そろって生き残ったら、今の生命が生まれることはなかった。進化が起きるためには、資源の椅子取りゲームから彼らには脱落してもらわなければならない。死んでいただかなくては進化が起きない。そして付け加えておこう。死んでいったじいさんから私たちが受け継いだものは一切ない。私たちは「LUCA爺さん」の子孫なのだ。倒れて行ったじいさんから受け継いだものはない。逆に言えば、受け継がせないために、他のじいさんは死んだのだ。受け継がせないことが大切だったのだ。
第二章 生物の基本形は不死
たとえばガスコンロの火はガスを供給し続けるなど条件を整えてやればずっと燃えている。だがガスは常に燃え続けており常に新しいものに入れ替わっていくだろう。人間も同じで、食って寝て出してをくり返し、少し時間が経てば体の細胞がすべて入れ替わっているが同じ人間(火)であることには変わりない。こういう非平衡状態(流れがある)なのに、形が変わらないものを散逸構造と呼ぶ。生と死の境界があいまいなのは、この散逸構造のためだろう。海が渦潮をまきはじめたとき、いったいどこから渦潮と呼ぶのかを指差すのはなかなか難しい。
ただ、もし部屋のなかにガスが充満していたら最初に火をつけた途端爆発する。散逸構造を生じさせるためには、「いい感じ」に条件が整っていなければならない。そして散逸構造を維持するためには、入ってくる物質ももちろんだが、出て行く物質もうまく処理しなければならないだろう。二酸化炭素が部屋いっぱいになったら、さすがにガスの火も燃えてはいられない。
私たちは私たちをグラスの中にある水のような、流れのない平衡状態だと考えがちである。だが私たちはガスコンロの火である。考えてみればガスコンロの火は新しいとか古いとかそういう話はない。だから基本的には、ずっといい感じの条件さえととのっていればいつまでも燃え続けることができる。ならなぜ死ぬのだろう。
進化するためには犠牲になるやつがいなければならない。
それは初期の生物たちもそうだった。だが彼らは、「一部の個体が死ぬ」だけだった。それぞれは原理的に永遠に生きられるけれども、やっぱり事故があって死ぬ個体があった。だが人間は全員死ぬ。なぜだろう?
第三章 種の保存説
自然淘汰には二種類ある。安定化淘汰と方向性淘汰である。そして基本的に起こっている淘汰は安定化淘汰である。安定化淘汰とは、遺伝子に起こった変異をつぶすほうの自然淘汰である。なぜこれが基本的なのかというと、たいていの変異というのは有害なもので、環境に適応するのになんの役にも立たないからである。方向性淘汰はこれとは逆に、変異を後押しする自然淘汰だ。
自然淘汰の基本は「変わらない」ことである。
そうすると、ガスコンロの火がもしも子どもをつくるなら(飛び火して隣のコンロに火が付く)、必ずしも親の火は消えなければならないだろうか。そんなことはないだろう。だとすると、老化や死がなぜこんなにありふれた出来事になっているのかの説明がつかない。次世代のために死ぬというありふれた「死の理由」は、老化や死を既に前提としており、循環論法になっている。そもそもこの道を選ぶ必要がないではないか。