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価値について

 

 世界のなかの事物はたとえば青かったり、四角かったりするが、同時に、美しかったり、おいしそうだったりする。私たちに与えられる対象はすべて、単なる事実的なものであるだけでなく、価値的なものでもある。たとえば田園風景に美的なものを感じたり、唸り声をあげる犬に危険を感じたり、退屈な授業、かわいらしい動物、もぞもぞと動くきもちわるい虫たち、……。私たちの対象にかかわる仕方として非常にありふれたものである。

価値の”客観"主義

 私たちがなにかを価値あるものとみなすこと、そう評価すること。そしてそれが実際に価値あるものであることは関係がないように思える。しかし、まったく関係がないものとも思えない。たとえば東京タワーの高さは私たち全員がどう思おうと関係がないだろう。この関係なさと比較すると、評価と価値にはある特別な関係があるように思われる。

 

 さて、私たちは既に次の「価値の客観主義」を受け入れている。:

  1.  価値にかんする見解には正しいものと間違っているものがある
  2.  その正しさは、個別の主体や共同体の評価および評価傾向に依存しない

 このことには、注意が必要だろう。個々人がなにをよいとみなすかはさまざまでありうるが、どのような評価が正しいかは客観的に決まりそれはすべての主体にとって正しい。これこそ、価値あるものとみなすこと/価値があることの区別の意味である。

 ただしいつもそうだが、「正しい」という言葉は十分に注意して取り扱わなければならない。これではまるで、客観という確固たる正しさの源泉があるように考えられてしまう。個々人とは一切関係なく何かに価値があると認められていることなど、いったいどうやって知れるのだろうか。そんなことは不可能である。では正しさとは、いったいなんなのだろう。

 このことを考えるために、玄関先にフクロウがいるとしてみよう。帰り道、向こうから姉が走ってきて「フクロウがいるよ」と教えてくれる。「本当に?」と驚くが、実際に行ってみるとたしかにいる。フクロウの存在は実際に見ることによって確証されるのである。しげしげと眺めていると、フクロウは首が砲台のようにぐるりと動かしこちらを見つめ返すとホウと一鳴きする。玄関先にフクロウが存在するということは『正しい』と私はもうそう確信している。

 大人しいフクロウなのでちょっと触ってみようという気になりはじめる。それで近づいてみると逃げる素振りもなくやはりホウと鳴いている。彼の背中を撫でようと手を伸ばし、現に触れてみると、非常に固い。ここでフクロウという対象との齟齬が生じる。なんだかおかしいと思う。近くでじっと観察してみると、なんとそのフクロウはよくできたロボットであった。このときもはや、フクロウは存在しない。

 かように、「正しい」というものは常に幻滅の可能性を有する。逆にいえば、正しさなどその程度のものなのである。すなわち、ここでいう正しさも、確証されるという意味における正しさなのであって、幻滅の可能性を有する。””客観的な正しさ””といった神の視点のようなものは前提とされない。

 

 客観主義と対立する立場はニヒリズム/錯誤説/主観主義である(フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか)。

  1.  ニヒリズム 価値にかんするいかなる見解も、正しいことも間違っていることもない(①× ②×)
  2.  錯誤説 価値に関する見解の正しさは客観的だが、人々がもつ評価はすべて間違っている(①× ②〇)
  3.  主観主義 価値に関する見解には正しいものと間違っているものがあるが、その正しさは個々の主体ないし主体の共同体がもつ評価傾向に依存する(①〇、②×)

 

 

情動との関係

 なにかが価値あるものとして私たちに現れるとき、それを価値あるものであると私たちに確証させるものはなんだろうか。たとえば「フクロウが玄関にいますよ」と言われたとき、それをはっきりさせるためにはなによりもまずそれを実際に見に行くことである。では価値の場合はどうなのか?

 価値についての判断だろうか。すなわち、その絵画に価値があるといわれたときそれを確証するためには、ともかくそれを見て素晴らしいと判断することだろうか。だがこれはありそうもない。まず第一に、批評家的な態度で絵画を美しいと判断することと、絵画を純粋に享受し没入する体験は区別されなければならない。第二に、まだ言語発達が未成熟な赤ん坊は言語的な判断ができず、したがって彼らはなにかを価値あるものとみなせないことになってしまう。

 価値があるものに対するとき、私たちはそこに情動的体験(喜怒哀楽など名づけられているもの以外を含めた、広い意味での感情)を想定する。まったく情動的に反応することなしに対象を価値あるものとみなすことがありうるだろうか。そこで私たちは、対象を価値あるものと確証するために必要なものとして、情動を候補に挙げることができる。言い換えればこれは、評価は情動によって確証されるのだろうかという問いである。

 評価が情動によって確証されるという見解がどれほどもっともらしいのかを考えてみよう。まず私たちが価値あるものに対して情動的反応をとるのは、ほとんど疑いないことと思われる。だがだからといって、情動が価値を把握するのだと捉えるのは早計だという立場もありうる。

  1.  把握説 対象への情動的反応は、対象の価値の把握である。
  2.  反応説 情動的反応は価値把握にもとづく反応である。

 私たちは「価値あるものの価値を把握し、その価値によって情動的反応を起こす」のだと考えるのだ。当たり前だが、なにかを評価するということはそのなにかを見たり、思い浮かべたり、思い出したり、そうした非価値的な性質について意識することを伴う*1。このことは両方の陣営が共有している前提である。

 反応説はある意味、自然な発想である。たとえば恐怖は身に迫る危険に対する反応だと言われれば、間違いなくそうだろう。また、悲しみは不幸な出来事に対する反応だ。このように、情動はものごとの価値に対して引き起こされると考えるのは自然である。だから彼らは情動を価値そのものを捕まえるものだとは考えない。すなわち、情動は単なる反応であって、それが正しいとか間違っているとか、そういう話ではない。

 一方、把握説は情動は正当性条件を持つと主張する。たとえば事物が実際にあるかを確認するには実際に見に行くことが大事だが、錯覚することがありうるように、間違った知覚というものがある。これと同様に、情動にはその価値に対して正しいものと間違ったものがあると主張する。

 反応説が困難なのは、明らかに、価値を把握するなにかに求めなければならない点だろうと思われる。それは価値判断でなければ情動でもない。それは『価値感得』と呼ばれる。そうとはいえ、そのような心的体験は反省によってまったく見いだされない。それがいったいどのような体験なのか、願望や評価や知覚などのように他の体験から区別されるのか、定かではないのである。ゆえに価値感得の存在を主張する人々は、そうは思わない人たちを説得する術がない。どういう特徴がそこにあるのか示さなければならないのに、価値感得にただ認められるのは「価値を把握する機能」以外ないのだ。

 それでも、情動が価値に対する反応だという直感は拭い難いかもしれない。だが、把握説によってもこのことは説明できる。つまり、情動は価値に対する反応ではなく、情動は非価値的なものに対する反応の役割も持っているのだと。情動は価値を把握し、非価値に反応する。たとえば歯をむき出しにして襲い掛かってくる犬に対しては、その体の大きさや速度、牙といった非価値的性質に恐怖という反応が伴う。評価は非価値的なものへの意識を必ず伴っているのだから、評価した時点で既に非価値的な性質は私たちに与えられている。

 

 以上は把握説と反応説を比較して、把握説がもっともらしいことに対する叙述だった。次に、把握説に対する反論を検討して、これを補強することを考えよう。まず確認しておけば、事物が存在するかどうかを確証させるのが知覚で、価値があるかどうかを確証させるのは情動であった。だが知覚と情動にはいくつかの相違がある。その相違は、把握説に対してどう影響するのだろうか。

 

【相違点1:知覚は理由を問えないが、情動は問える】

 たとえば「犬がいる」という子どもに「なぜ犬が見えるんだ」と言ってもなんの意味もない。「だって見えるんだもの」以外に言うことがあるだろうか? だが「どうして犬が怖いの」と訊くことができる。このことは、怖いということよりも前に価値的な情報を得るプロセスを有するということを意味するのではないか?

 この問いに対する回答を考えてみる。「危ないから」など、把握した価値をそのまま述べたもの。「前にかまれたから」など、因果的説明。「大きいから」など、非価値的性質に対する言及。一点目は、怖いということと同じ意味であり、答えになっていない。二点目は、因果的説明ならば知覚にも可能であり、””情動には理由が問えるが、知覚には問えない”というときに吟味したい答えではない。

 三点目については、情動が非価値的性質に対する反応でもあるということで十分に理解できる。知覚において理由が問えないのは、知覚が非価値的性質に対する「反応」ではないからである。情動は非価値的性質と価値的性質の両方にかかわっている。

【相違点2:情動はプラス/マイナスなものだが、知覚はそうではない】

 たとえば喜びや楽しみはプラス、恐怖や哀しみはマイナスといったような誘因価をもつ。しかし知覚にそうしたものはない。これは情動を情報獲得のプロセスとしてふさわしくないのではないか。

 むしろふさわしいと思われる。情動は価値についての情報を与えるものだ。与えらえる情報がすべて中立的であれと求めるほうが不自然だろう。

【相違点3:情動は強度をもつが、知覚には強度がない】

 激しく怒ったり、ちょっと怒ったりする。一方、激しく見えたりすることはない。だがたとえば犬が「めちゃくちゃ怖い」と思っても「ちょっと怖い」と思っても、危険であるという価値の体験そのものには強度はないように思える。本当に価値を把握しているのだろうか。

 この点も、情動が非価値的性質に対する反応という役割を持つことから説明できる。価値把握には強度はないが、反応には強度がある。

正当な情動とはなにか

 一般的に情動の正当性条件を求めることは、とても難しい。だが次のことは指摘しておくことができる。

  •  まず当然だが、情動が正当なものであるとき、これを基づける非価値的把握も正当なものでなければならない。絵画が美しいと言いながら、絵画がグニャグニャに見えていたら正当な評価とは言えまい。つまり基づけられた作用である以上、内在的/外在的正当性がありうる。

 つまり、私たちの目下のねらいは内在的正当性条件を求めることである。私たちは、情動が対象の価値把握(対象へと価値を帰属させること)であると同時に、対象の非価値的性質に対する反応であることを知っている。とすると、把握した価値がその通り合っているかどうかは、非価値的性質に適切に反応できるかにかかっていることになる(反応説が反応に正当化条件を問うことができなかったのは、「価値」という規準がなかったためである)。

 ここにきて私たちは、価値の客観性にあらためて疑問を感じ始める。というのも、なにか物事に対してどのような情動を抱くのが正しいのかは、文化的・歴史的文脈によって異なるように思えるからだ。たとえば、カエルに対して「かわいい」と言う人と、「キモい」と言う人は、どちらかが誤っているのだろうか。あるいは、牛肉を食べることを好む人と嫌悪する人は、どちらかが誤っているんだろうか。

 客観性を保持しながらこの価値の相対性を受け入れるためには〈この観点において〉と言うほかはない。つまり逆に、この価値の相対性から導かれるものは客観性の否定ではなくて、「端的によい」「端的に悪い」といったような価値の否定であることがわかる。観点に依存することが価値の本性なのだ。知覚にもつねにそれを捉えるさまざまな角度があることを思い出そう。しかし価値はそれに比べるとはるかに多様である。

 形式的に、情動の正当性条件は次のように言い表されることになる。:

つまりそれは、「対象がしかじかの非価値的性質をもち、対象と主体がしかじかの文脈に置かれているならば、主体はその対象に対して、しかじかの尺度においては、しかじかの感情をもつべきである」といった形式をとることになる。

フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか

 

 

結論

 この観点依存的な価値という結論は自然なものだが、私たちはやはりここでも、価値についての唯一確定した真理などというものがないことを知る。たとえば友人から誕生日プレゼントをもらったとき嬉しい気持ちになるのが正当だと考えられているが、仮に嫌な顔をしていたら、なにか特別な事情があるのではないかと考えることができる。牛肉を食べることを好ましい/嫌だと思うことが、どちらとも、世界中の人々が正当だとみなすようになることはおそらくありえないし、「好ましい/嫌だと思うのは間違っていた」と判明することもないだろう。もし誕生日プレゼントを嫌悪し、しかもまったく特別な事情などなかったら、私たちは「もし本当に特別な事情がないなら間違っているだろうね」と控えめに言うことはできるが、特別な事情がないことが確定することもまたないだろう。

 唯一確定的な真理がないことは、私たちを不安にさせるらしい。つまり、「結局価値について言えることなどなにひとつない」とか「対象には価値があるといったって、そんなもの、あってないようなもんだ」とか言いたくなる。価値は対立する判断が両立してしまう。しかしだからといって、悲嘆することはない。私たちにできることは、『破綻をきたしたものとして排除されない範囲内で、手持ちの材料から主張しうることを主張すること』(経験の構造)である。フッサールはそれを「弁明を与えること」と呼んだ。弁明とはハンナ・アーレント曰く、「ロゴン・ディドナイ、すなわち、弁明を与えること。証明するのではなく、自分がある考えにいたったのがいかにしてであり、またいかなる根拠にもとづくのかを言いうること」である。それは常に他者の視点を顧慮することであり、他者からの批判の尺度を学ぶことによって遂行される。

それゆえ、思惟は公共性の内部においてしか行いえない。

経験の構造

 

 私たちはさまざまな情動を持つ。たとえば先ほど、誕生日プレゼントをもらったら喜ぶのが正当だという話をした。だが考えてみれば、いったい私たちはなぜそう考えるのだろう? それはいったいどのような観点からなのか? ———私たちは自分がなぜそれをそれとして受け止めるのか、その正当性条件を知らないのである。

 現象学の課題は、これを分析することだ。「真理」ではない。だが、これほど重要な分析はあるだろうか。たとえば「あいつはダメな奴だなあ」と思う時、なぜダメだと確証しているのかを問うことができる。その正当性条件とはなんなのか。なにに基づいてそのような判断を下しているのか。それはダメなやつだと思ってはいけないというお説教ではなく、まずは単に、その理由が知りたいのである。もしそれがわかれば、たとえば、自分が何を大切に思っているのかが見えてくるし、目の前にいる人が何を大切にしているのかも見えてくるだろう。

 

 

 

 

 

 

*1:現象学的には「評価作用は基づけられている」