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にんじんと読む「フッサールにおける価値と実践」 第五章:道徳的判断と絶対的当為

第五章 道徳的判断と絶対的当為

 道徳的判断とは、ある行為をある状況のもとでなすべきであるとみなすことの表現である。一般的に、この「(作用が)表現される」ということには三つの区別がある。

  1.  表現される作用が意味付与作用(他の作用を確証させる)として働く場合
  2.  表現される作用が名指しや判断といった客観化作用の対象になる場合
  3.  表現される作用が直観作用(他の作用に確証させられる)として働く場合

 「私は火星に知的生命体が存在することを望む」という文は、願望作用が主役になっている場合もあれば、願望の内容である判断作用が主役になっている場合もある。これだけではなく、たとえば、「一羽のクロウタドリが飛び立つ」という文は、「一羽のクロウタドリが飛び立つのを見た」という文とは異なることがわかる。それは誰が知覚していようがいまいが意味ある文である。

 さて、ここでは、『ある行為をある状況のもとでなすべきであるとみなす』を絶対的当為と呼ぶことにしよう。これは単なる命名にすぎないものだが、注意しておくべき点がある。まず絶対的当為と意志すること(意志作用)とは異なる点である。というのも、意志することは普遍妥当性を持たないからだ。すなわち、何かを意志することはまったく同じ状況でも別様でもありえたのであって、誰もがそこで同じように意志しなければならないということはない。一方で、絶対的当為には、私たちはそのつどの行為のなかで最も善い行為だという意味を込めている。つまり、普遍妥当性を持つ。

 絶対的当為は、「今私はなにをすべきなのか」ということに対するわれわれなりの答えである。なぜ私たちはそれを正しいとみなしているのだろうか。私たちはその形式的な条件を次のように挙げることができるかもしれない。それはフッサールが「吸収則」と呼ぶものである。

選択が正しいのは、一つ以上の肯定的ないし中立的な価値をもつ選択肢が与えられており、そのうちで最も高い価値をもつものを選ぶとき、かつそのときにかぎられる。

フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか

 何をすべきなのかということは、可能な行為の選択肢のなかから選び取ることであると考えられる。私たちはそのそれぞれになんらかの価値を帰属させており、その価値は肯定的/中立的/否定的でありうるが、選び取るということはそこに「最も」といったような優位性があることを示す。そうであるならば、行為AとBに対して、優位でないBを選択するのは誤っているに違いない。だが選択肢がどれも否定的なものなら、行為は何をやっても正しくはならないだろう。中立的な選択肢しかないなら、何をやっても正しさに変わりはない。———以上から、上の形式的条件があらわれるわけである。

 そうとはいえ、吸収則によってすべてが説明されるわけではない。私たちが考慮できる選択肢は原理的に可能な行為の数よりもずっと少ない。これは私たちの認識が限定されているということでもあり、状況の変化に応じて可能な行為やその価値が変化するということでもある(認識能力の限界+状況拘束性)。私たちは絶対的当為の正しさについて議論するとき、中立的観察者の立場に身を置く。それは可能な選択肢を並べ上げ、価値を吟味し、比較衡量して絶対的当為の正当性について判定する理想的な判定者である。それは理想にすぎないが、こうした立場に立って問い続けることには意味があるように思われる。……

 以上を踏まえて定式化するとこうなるだろう。

行為者が正しく意志するのは、選択の時点で可能なあらゆる行為のうち、最も価値のある行為を意志するとき、かつそのときにかぎられる。

フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか

 私たちには熟慮が求められている。この定式化は次の性質を満たす。

  1.  規範性 行為者が自らの誠実な道徳的判断に反する行為をした場合には、その行為者は不法理だとみなされる。すなわち、そのような行為を選び取りながらそれを実行しない者は不合理をみなされる。
  2.  実践性 誠実な道徳的判断は、それをもっている当の行為者に、それに応じた動機を与える。すなわち、それを選び取った者はそう行為するように動機づけられる。

 だが、二点目に関してはそれほど簡単ではない。

 なにしろ、なにが最善かを判定しつつも適当に選ぶことは可能であるように思われるからだ。フッサールは「でたらめな選択」を回避するために、道徳的判断をより重く捉え直す。つまり、道徳的判断とは、可能な行為の価値を実際に比較衡量したうえである行為を最善とみなす判断である、と。だがこう捉え直したところでなにも変わらない。最善とみなしても動機づけられないことはありうる。

 だがここで注意しなければならないのは、実践性とは「道徳的判断が必然的に行為の動機になる」ことではなく、「それに応じた動機を生じさせる」ことだったからだ。道徳的判断に反する行為を選んだとしても、それはそれに反して行為すると決めたからなのである。

 むしろ本当に問題なのは、比較衡量して選択するという熟慮プロセスこそが道徳的だという理性的な考え方である。理性的であることだけが道徳的だといえるのはいったいなぜなのかは説明を要する。フッサールの答えは、人間は実践的反省能力を持ちこれを一貫して発揮するように要請するから、というものだった。にんじんの読むところ、あまり答えにはなっていない。