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Foundherentism(基礎づけ整合主義)について

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 認識論において、基礎づけ主義と整合主義は正当化を説明するうえでそれぞれ長所と短所を持つ。Susan Haackはそれぞれを見比べて整理し、次のように考える。

  •  基礎づけ主義は正当化の一方向性を要求するが、整合主義はしない。
  •  整合主義は正当化が信念間の関係のみの問題であることを要求するが、基礎づけ主義はそれを要求しない。
  •  それゆえ、信念以外のインプットを認める説は整合主義ではなく、一方向性を要求しない説は基礎づけ主義ではない。
  •  つまり、信念以外(経験)のインプットを認め相互扶助を認める説は、基礎づけ主義でも整合主義でもない。

 ここに生まれるのが『Foundherentism』こと基礎づけ整合主義である。整合主義においては整合的であることだけが求められ、どんな突拍子のない内容でも、現実とかかわりのない内容でも、整合的であれば正当化されているのだと説いた。私たちはこれを防ぐために信念とは違う「経験」を正当化に組み入れたいと考えている。

 そこで説明すべきなのは、以下の二点である。:

  1. to allow the relevance of experience to empirical justification(which will require an articulation of the interplay of causal and evaluative aspects);
  2. and to allow pervasive mutual support among beliefs(which will require an account of the difference between legitimate mutual support and objectionable circularity).

Evidence and Inquiry: Towards Reconstruction in Epistemology by Susan Haack(1995-01-09)

 すなわち、①経験と正当化のつながりを明確にすること。i.e.経験を正当化という評価的側面にどう組み入れるか、②信念間の相互扶助を認めることi.e.正当な相互扶助と悪い循環論を区別することである。

基礎づけ整合主義

 説明すべきは、主体Aが時点tにおいてpと信じることがより良くorより悪く正当化されるのは~~~に依存するということである。この時点で既に注意すべきことがある。ここには正当化についていくらかの前提を有している。

  1. that it is a personal locution, not an impersonal locution like 'the belief that p is justified' which is primitive;
  2. that justification comes in degrees;
  3. that whether or to what degree a person is justified in believing something may vary with time.

Evidence and Inquiry: Towards Reconstruction in Epistemology by Susan Haack(1995-01-09)

 すなわち、①主体Aについてのものであること、②正当化には程度があること、③正当化はいつの時点かによって変化するということである。

 Aのtにおけるpを信じることの正当化の程度は、直観的には明らかに、証拠の良さに依存するように思われる。私たちはこれを出発点にし、精緻にしていこうと考えるが、一見無害に見えるこの考え方は、認識論においては外在主義よりも内在主義特に証拠主義的であるという意味で、偏った立場であるには違いなく、別途議論を必要とするだろうが、ここでは単にこう前提しておくだけに留める。

※明確化にあたってまずはっきりと区別しておきたいことは、「何かを信じること」と「信じられた何か」との区別である。前者は状態を示し、後者は内容を示す。以下では前者をS-beliefと呼び、後者をC-beliefと呼ぶことにする。

 

 人がどれぐらい正当化されているのかは、「何を信じているか」だけでなく「なぜそれを信じるのか」に依存する。当たり前のような話だがこの区別には意味がある。ある信念pが正当化されているかは、たとえばq,r,…といった他の信念に依存することでもあるのと同時に、いったいどうしてpを信じることになったのか……、(S-beliefを引き起こしたものという意味で)「なぜそれを信じるのか」……にも依存するということである。

 このことを理解してもらうために以下の三つの段階を踏むことになる。

  1.  私たちは時点tを特定することにしていた。だから、S-beliefのきっかけと、その時点でそれを信じる原因を区別しよう。
  2.  私たちが何を信じることにするかは単純ではなく、色々な要素のバランスにある。それを支持する要因が否定する要因を上回るからこそ、私たちはそれを信じることになるのだ。
  3.  S-beliefの要因は主体Aの状態にのみ依存する。たとえば目の前に犬のようなものがいるという信念は、犬のようなものが彼に見えるからだろう。犬のようなものが彼に見えるのはそこに現に犬がいるからかもしれないが、「そこに犬がいること」は彼の状態ではないため、S-beliefの原因にはならない。

 pを信じることの因果的連関はそこに主体の知覚だけでなく欲望や恐怖も含まれることを思えば、実に多様なものである。たった一つの要因を取り上げて「これこそが原因である」と言うことは決してできない。しかし一方で、この複雑な全体をすっかり扱うこともしようとは思わない。ここには様々な要素があるけれども、私たちとしては、そこにある証拠的要素と非証拠的要素を分類し、前者にのみ焦点を当てたいのである。たとえばパニックに陥っているひとや薬物中毒者はその恐怖から、あるいは薬効から、なんらかの信念を持つかもしれないが、それは証拠としてはみなされない。もちろん彼がそれを信じるようになった原因には間違いないけれども、ここで問題となっている「正当化の程度」には一切影響を及ぼさないという意味で、議論の外側にあるからである。

 では、定義しよう。

  1.  「pを信じるためのAのS-reason」とは、pというAのS-beliefを支持するAのS-beliefを指す。
  2.  「pを信じるためのAの現在の感覚的S-evidence」とは、pというAのS-beliefを支持するAの知覚的状態を指す。*1
  3.  「pを信じるためのAの過去的S-evidence」とは、pというAのS-beliefを支持するAの知覚的痕跡を指す。
  4.  「pを信じるためのAの感覚的S-evidence」は、Aの現在と過去の感覚的S-証拠を指す。
  5.  「pを信じるためのAの現在の内省的S-evidence」は、Aの内省的な状態を指す。
  6.  「pを信じるためのAの過去の内省的S-evidence」は、AのS-信念を支持する内省的な痕跡を指す。
  7.  「Aの内省的S-evidence」は、Aの現在と過去の内省的S-evidenceを指します。
  8.  「pを信じるためのAの経験的S-evidence」は、Aの感覚的および内省的S-evidenceを指す。
  9.  「pに関するAのS-evidence」は、AのS-reasonと経験的S-evidenceを指す。
  10.  「Aがpを信じないためのS-evidence」は、'Aがpを信じるためのS-証拠'と同様に特徴付けられる。そこでは「支持」の代わりに「拒否」が用いられる。

 Aのpに関するS-reasonはさらにそのS-evidenceを持ちうる。経験的S-evidenceはS-beliefではなく証拠として必ずしも必要なものではない。これはS-beliefを支持/拒否することはあれど、逆にS-beliefがこれを証拠づけることはない。この意味で一方向的なものであり、「究極の根拠」ともいえる。とはいえ、これによって基礎とみなした経験主義者は経験的S-evidenceを重視しすぎており、実際にないものさえ知覚してしまうことを思えば単純に世界との相互作用の結果を出力してくれるとは限らないことがわかる。その場合、単に主体が混乱しているだけである。

 上の定義を見て知覚と内省あるいは単に思い浮かべること、さらには現在的/過去的という区別がいかにあいまいなものであるかと思われるかもしれない。それらは進行中のプロセスであり、「じっと見ていたらやっぱり違うと気づいた」ということがありえることから、正当化の程度が移り行くこともわかる。時点tを特定する以上、何が知覚で何が思い浮かべたことあるいは記憶であるか、現在的か過去的かといったことは、概念的に区別しておいたほうがよいものと思われる。

 さて定義によってpに関わるS-evidenceというものが、無理矢理にだが、Aの様々な状態の集まりによって構成されることが知れた。しかし人はpの正当性を評価するにあたり状態ではなく、言明文や命題によって指示したり拒否したり、確率を高めたり、反証したり、整合性を見たりする。よって状態にとどまらず、その内容に向かわなければならない。

  1.  「pを信じるためのAのC-reason」は、Aが信じているC-beliefを指し、pを信じるためのS-reasonの部分である。
  2.  「pを信じるためのAの経験的なC-evidence」は、言明文または命題を指す。これはpを信じるためのAの経験的S-evidenceの部分であるようなAの状態を表している。
  3.  「pを信じるためのAのC-evidence」は、pを信じるためのAのC-reasonとAの経験的C-evidenceを指す。
  4. 、Aがある特定の状態にあるという効果を持つ文や命題に置き換えることを意味します。また、「'A's C-evidence for believing that p'」は、「Aがpを信じるためのC理由」として定義されます。これにはAのpを信じる理由とAの経験的なC証拠が含まれます。
  5.  pを信じないためのC-evidenceも同様に定義される。

 たとえば目の前に犬がいると信じるためのC-reasonとは何か。まず目の前に犬がいると信じるためのS-reasonとしては、犬のようなものが見えているということが挙げられるだろう。この場合、AのC-reasonは、Aが犬のようなものが見えているという状態にあるという言明文あるいは命題「犬のようなものが見えている」を指す。

 

 さて、S-reasonから始まってC-evidenceに至った正当化の程度を評価する旅路は、遂に「C-evidenceの良さ」を評価する最終段階へ向かう。Susan Haackが挙げるその基準は、以下の三つである。

  1.  (好ましさ)how favourable A's direct C-evidence with respect to p is;
  2.  (手堅さ)how secure A's direct C-reasons with respect to p are, independently of the C-belief that p
  3.  (手広さ)how comprehensive A's C-evidence with respect to p is.

 第一に、証拠Eがpに対して好ましければ好ましいほど、つまりその行きつく先はpを確実なものとするはずである。逆もまた然り。この極端を、より正確に特徴づけるならば、「証拠Eがpに関して決定的である」とは、p∨Eが無矛盾で、¬p∨Eが矛盾することである。もう一方の極端についても同様に定義される。それ以外の中途半端なケースでは、pと競い合うその他の信念との比較したときにどちらがより統合的かと考えることで評価される。……とはいえ、この説明は曖昧なものにとどまる。

 第二に、pと独立してC-reasonを考えたときのその手堅さである。これはつまり色々な証拠との整合性によってしかその理由が妥当だとみなせないならば、その正当性に自信を持つことはできない。pとは別の信念や経験に訴えることでその理由は根を下ろし、それ自体で確固たるものとなる。

 第三に、pについての証拠を、その否定材料も含めて色々な要素を見れているかという基準である。たとえば「死んだお父さんを見た」と言う人は、実は遠目で見ただけで目の前で見ていなかったり、はっきり明るい所で見ていなかったりする。こういうことも考慮して評価しなければならない。

 

Evidence and Inquiry

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*1:Susan Haackの語用には詳しくないが、sensory(感覚的)とperceptual(知覚的)の違いは、認識プロセスの違いである。感覚とは生理的なプロセスであり、知覚とは解釈し意味を与える認識的なプロセスであろう