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にんじんと読む論文「現象学の探求プログラム化」

irdb.nii.ac.jp

探求プログラム

 理論は常に仮説であり、仮説は経によるテストを通じて修正されなければならない(可謬主義)。可謬性を持たない理論はそれを承認する人の間でだけ流布し、膠着するドグマとなる。もうそれ以上展開することができなくなっても可謬性がないために捨て去られることがない。逆にいえば、理論が展開可能であるためには修正されうる余地もなければならない———これはポパーの優れた洞察である。

 一方、理論が常に仮説にとどまることは極端な懐疑主義を呼び起こす。そもそも観察データに付きまとう理論的負荷(数多くの隠された前提たち)ははっきりとした検証・反証を許さない。私たちが私たちの理論を展開させるために構築される「探求プログラム」は、独断的でなく懐疑的でもない両者のはざまにとどまるようなものでなければならない。プログラムというのは物事の実行計画や処理手順を示す規則のネットワークで、ここには必然的に共有・吟味・展開可能性が含まれている。

 さて、探求プログラムにはそのプログラムを共有する研究者によって反証されてはならないコアが存在する。コアにはその内実を厳密に定義された公理系的な「統制型」のものもあれば、明確に定義されずむしろ不明確なものを手掛かりにしてそれが吟味される中でコアが再規定されていくような「自己組織型」のものがある。理論の展開は既存の仮説を検証・放棄しながらより大胆な仮説を提示していくことによってもたらされるが、反証されないコアがその始動を助けている。実際、画期的な発見をなしえた科学者は反証証拠を突き付けられても自説を放棄しなかった。コアは反証されないという地位にあり一見、可謬性を阻害するように思われても、実はそれをもとに新たな仮説や手続きのネットワークが生み出され単なる独断論になることを防いでいる。

 コアを守るために「補助仮説」が繰り出される。このようにコアが堅持されるのはたとえ証拠があがってもその理論が展開可能で放棄する理由がないからである。コアは現実世界が事実そうなっているのだと主張するというより、探求の指針として理解されなければならない。ゆえに探求プログラムの実行者は正当化論争に拘泥せず、そのコアのもとでどれほど理論を展開できるのかに注力できる。

現象学の探求プログラム:コア

 コアは伝統哲学的には「原理」と呼ばれてきた。原理には事象原理(「物質の最小単位は原子である」)と探求原理(「自然は無駄をしない」)があり、前者は世界の成り立ちに説明根拠を与えるものであり真偽判定が求められるが、後者は真偽判定などできない大まかな指針にとどまる。自然科学はこうした事象原理と探求原理の組み合わされた「コアユニット」のもとで現象に法則的説明を与えることをプログラムの使命としている。

 では現象学はどうだろうか。

 現象学のコアのひとつは「事象そのものへ」というモットーであろうと思われる。だが事象とはいったいなんなのかはよくわからないし、そもそも事象とはいつまでたっても確定されえないようなものである可能性が高い。それぞれの現象学者は事象という概念の下でどのような経験をするかに応じて事象の内実がそのつど変化し、接近方法が発見され、改良されていく。そしてそのことが当人の体験様式を拡張し記述スタイルの確立へ導いていく。そこに一個の現象学的プログラムが出現するのである。「事象そのものへ」というモットーは不明確ながらも、なぜ事象に回帰するのかという問いに対する答えを制限するある種の統制力を持つ。フッサールは「諸学問の基礎づけ」と答えたし、ハイデガーは「存在の問いの開示」と答えた。問いはさらに続けることができるだろう。だが「明日のわが身のため」と答えても理論は展開する見込みがないのである。現象学者はテクストによってこの暗黙の統制力を学び、自らの営みを発展させる手がかりを得る。こうした意味でも、このモットーは現象学的探究を形作る外殻を形成している。

 さらに「無前提性原理」もコアのひとつであろう。それは思い込みを排しつつ、事象そのものへ向かうよう常に促す。もちろん一切の前提を捨て去ることなどおそらくできない。だがそれに気づき、さらに前進できる。現象学的探究に際限はないことを暗示している。あるいは「認識主体は世界との切り離し得ない相関性をもつ(志向性)」や「身体は世界に意味を与える」というようなコアもあろう。こういう具体的なコアによって探求領域は分化し、特殊化していくことになる。

防御帯

 コアは補助仮説の束(防御帯)によって守られている。これら防御帯は仮説であり、反証され、時には代替仮説が組み入れられる。現象学においてはたとえば「現象学的還元」や「明証性」が考えられる。前者は事象へ接近するための体験世界の開示にかかわり、後者はその体験世界についての記述の正当化にかかわる。現象学的還元は事象接近への端緒であり、明証性は現象学が学問としての客観性を確保する必要条件である。

① 現象学的還元

 現象学的還元はたとえば認識論的なバイアスを取り去り、行為レベルでの世界と主体の組織化のありかたへと注意を向けかえる。このように目の前にある世界の現われはまったく同じなのに、異なる世界のありかたを体験させようとする還元だが、この試みが完全なものになることはおそらくない。だが私たちに新たな事象領域をのぞかせ、それまでの還元が十分でなかったことを自覚させてくれる自己修正機能を備えている。逆に新たな事象領域を見せてくれないような世界の見え方は還元に失敗しているのである。

 還元の内実は新たな経験に踏み込んだものが事後的に記述として固まってくる。つまり還元はその道行きがはっきりしたとき既にその役目を終えている。

② 明証性

 明証性とは、還元後の現れが現れとしての自らを引き受けることに与えられる名称であり、それには程度がある。はっきりとした・くっきりとした体験を基礎とできるかのように考えてしまうが、明証は客観性を保証してくれるものではなく、探求の方向性を示唆するものである。

 

 

探求吟味コード

 吟味不可能なコアしか存在しなければ、プログラムが前進しているのかなんなのかわからない。それはもはやわかる人にはわかる領域の話である。探求プログラムは、それが維持されるためには「経験的前進」(仮説を吟味するための事例増加)か「理論的前進」(事例のなかで吟味され整備され仮説が創造される)がなければならない。

 自然科学的なプログラムにおける仮説は「真/偽」によって吟味される。実験や観察を通じて真偽の度合いが精密化されており、仮説の暫定的正当性が判定されていくのである。この実験や観察を通すことが共有可能性を確保しているのである。

 一方、現象学的な探求では、真偽というおなじみのコードはそれ自身が目を向けられる対象である。むしろこうした既存コードを切り開き、新たな経験可能性を開くという実践的な「拡張/維持」こそが、現象学的探究のコードなのである。ある概念が提示されたとき、その概念のもとでどのような経験が実行されているのかが吟味され、その経験記述が多くの探究課題へ開かれねばならない。その際の吟味基準は以下のようなものになると予想される。

  1.  自らの現象学的経験に内的であり、それまでの経験可能性の幅に変動が生じるかどうか
  2.  プログラムの参加者にとっても経験形成的であり、その記述が共有可能となるかどうか
  3.  記述とともに次の課題が現れ、探求が持続可能になるかどうか
  4.  現行の経験科学的な理論や事例との整合性がどの程度とれ、かつ他の経験科学者の探究の手がかりとなりうるかどうか

 ②がなければ共有などされないし、③がなければ展開しない。①だけなら「お前の中ではそうなんだろう。お前の中ではな」という話になる。そして④によって他のフィールドとの相互展開が起き、いわば外から現象学を見た時に「おっ、使えるね」ということになる。