読書2回目です。
1回目よりもにんじんの言葉を多く取り入れています。
あと、中途半端に終わっています。難しい……。
- 何ものか(物、人、抽象概念、言語、そのほか)が存在するということは何を意味するか
- 存在のいくつかの異なった仕方を区別する
- これらの存在の仕方がすべて人間存在に関係し最終的には時間性に関係しているということ
である。①存在 に関する探究と、②存在の仕方 に関する探究の二つに分けられるように思われる。そして②が実は人間存在、さらに時間性に関係していることを示そうというのである。
※なぜ時間性と関係があるのか、なぜ人間存在と関係があるのか、それに加えて、なぜ犬存在でも猫存在でもなく人間存在なのかという点も注意深く見なければならないだろう。
ハイデガーはまず②の問題に着手する。だから彼のなすべき第一の仕事は、「人間であるとはどんなことであるかについて、新しく分析を練り上げる試み」である。なぜなら存在の仕方のすべては、人間存在に関わるのだから。
また、ここで「新しく」と言われているのは、従来の人間存在に対する理解には誤解があるからである。それは、(1)「人間と人間世界をも含めたすべてのものに関して一つの理論を持ちうる」、(2)「人間が事物と関係する仕方のうちには事物についての暗黙の理論を所持することが含まれている」という二種類の誤解である。
これはつまり、(1)人間の活動が理論によって説明できるとするプラトン的な発想、(2)意識主観に特権的な地位を与えるデカルト的伝統、に対して「NO!」を突き付けていることになる。
※人間と事物が関係する仕方として、われわれは伝統的に主観ー客観の対立を考えて来た。たとえば「知識とは正当化された信念である」といわれるように、「信念」といった心的なことが、外界の事象と一致するかどうかが議論されてきたのである。
また、たとえば「感覚」を疑いえないものとして措定し、それを基礎にしてすべてのものを説明する理論を組み上げていこうとするのも、伝統的発想である。
ハイデガーが取り除こうとするこれら2つの伝統は、さらに次の5つの前提に支えられている。:(A)明示性、(B)心的表象、(C)理論的全体論、(D)第三者性と客観性、(E)方法論上の個別主義。
(A)とは、われわれの日常の了解を全面的に明示することが可能であるという考えのこと。そして、そうすることが望ましいとさえ言われてきた。
(B)とは、一般に対象と関係を持つためには、われわれが自分の心をそれぞれの対象に向けることを可能にするある内容――ある内的表象――が、われわれの心のうちに存在しなければならない、という考えのこと。ハイデガーは主観も客観も否定しなかったが、それよりも基底的なあり方を考えた。
(C)とは、共有されている振る舞いという背景がたとえ理解可能性のために必須のものだとしても、その背景をさらに別の心的状態を用いて分析できるという確信を持ち続けてもいい、という考え。ハイデガーが「もっと基底的なあり方があるよ」といったのに対して「いや、それも今までのやり方で分析できるでしょ」と返す人の持っている誤解である。あるいは、『無意識』というもので、ハイデガーのいう明示化できない前提を説明しようとする人たちの誤解でもある―――「これでは、われわれの世界了解は主観が内蔵している信念システムだということになってしまう」
(D)とは、第三者的な理論的な見方が実践に参与ている見方に優るという考え方である。実際にゲームをしている人よりも、そのゲームを横で見ている人のほうがゲームについてよくわかっている、という感じだろうか。
(E)とは、社会構造やその変化を、個人の意思決定の集積として説明し理解する考え方のこと。ハイデガーはこれに反対する。「ある文化の意味と組織化こそが社会科学と哲学における基礎的な所与であるとみなされねばならず、こうした意味と組織化とを個別的な主観の活動に起因するものだとみなすことはできない」
この五つが否定されているかどうかを見るためには、ハイデガーの哲学を実際に見ていかなければならない。
2回目だからと意気込んだものの、途中で理解が追い付かなくなってしまいました。
一応書きましたが、中途半端に終わっています。
存在の意味
存在とはなにか。いろいろな「存在する」に共通するものは何かあるのか。
この問いには長らく答えられてこなかった。なぜなら、それは、①村人、日本人、アジア人、地球人、人間、…… こういう段々抽象化が進んでいった先の頂点に「存在」が考えられたこと、②それゆえに、存在は定義不可能だと考えられてしまったこと。つまり存在というのは数学でいうところの「集合」とか「点」みたいなもので、③それ以上どうしようもないと考えられてしまったことが原因として挙げられる。
※村人=〇〇村に住んでいる日本人、というように。定義をするためには上位のものを使う必要があるので最上位の存在は定義できないだろう、ということです。
- このような問いに答えるためにまず注意しなければならないことは、「存在者」と「存在」は異なるということである。机が存在しているかいないか、机という存在者はたとえば原子という存在者から出来ていて、といったようなことを今は問題にしているわけではない。そういう《存在》というものの本質は一体なんなのか? こう問うているのである。
われわれが求めている存在についての説明は、
「物質っていうのはね、原子でできているんだ。さらに原子っていうのはナントカという材料でできている。つまりこの世のすべての物質はナントカでできているっていうわけなんだな」
といったようなものではない。われわれが「これは存在する」「あれは存在しない」だの、ごく当たり前に使っている《存在》というものが実際のところなんなのか、ということなのである。
- われわれは存在という言葉を何の苦も無く使う。しかし存在というものがなんなのかは全くわかっていない。そうしたわれわれの存在の一定の了解をハイデガーは「存在了解」と呼ぶ。 われわれは存在了解をもとにして存在者と出会っている。
※ある人が恋をしているとしましょう。ある人というのは、存在する何か=存在者です。その存在者は、恋をしているという存在の仕方で、存在しています。このほか、考えている人も、考えているという存在の仕方をしている、存在者です。そうしてこうした様々な存在の仕方に通底しているもの、それこそが《存在》です。
※注意しなければならないのは、存在了解というのは「あぁ、わかった」というもやもやとした心的状態ではない、ということである。ここを理解していないと、結局主観ー客観図式から逃れられない。「存在の了解は、われわれの背景的な振る舞いのうちにひそんでいる」
こういうと誤解が少ないかもしれない。:われわれは存在しているものを存在しているように扱う。しかし存在については何も知らない。そうした存在に対する一定の了解を存在了解と呼ぶ。
この《存在》の問いに答えるにあたっては、先に述べたようにハイデガーは伝統的哲学の誤りから逃れようとしている。この誤りにはまってしまったのが、彼の師であるフッサールであった。フッサールはデカルトの「我思う、故に我あり」という認識→存在という認識に重きをおいた主観ー客観図式をより精緻するために、超越論的現象学を打ち立てた。これは、
既成の知識による先入観を完全に排して、純粋に「意識」の内部で洞察し得る事物の「本質」を明らかにする学として性格付けた
ものである。ハイデガーはこの現象学という「人が日常的に自明の理として受けとめている諸事物の成り立ちを、常識的・学問的諸前提を取り払い、根源にまで遡って明らかにしようとする」(ハイデガー哲学入門──『存在と時間』を読む (講談社現代新書))問題意識には共鳴したが、意識によって世界を構成しようとするスタンスには反発した。
ハイデガーは現象学の語源を引きながら、現象学をまったく別様に用いることにした。つまり彼にとって現象学とは、
自己を示すものを、それが自己自身の側から示す通りに、自己自身の側から見えるようにさせること
であった。つまり対象のほうが自らを示してくるはずが、何かの事情で、私たちにとって隠されている、現れ切っていない。それをきちんと現れ切るように助けてやる。それが現象学であり、フッサールの超越論的現象学に対して、ハイデガーのものは解釈学的現象学と呼ばれる。
逆に言えば、「私たちが対象を認識する」のではなくて、「対象のほうが自己自身を示している」と言う風に考えましょうという提案である。語源の探究など何の証明にもならないことは言うまでもない。しかしこのように考えることによって、伝統的な哲学を乗り越えることができる、ということでもある。
現存在について
この解釈学的現象学によれば、自己自身を示してくるものを助けないといけないが、助けるのは私たち人間であるし、もっといえば具体的な「私」だろう。しかしこれを自我であるとしてしまっては、これまでの哲学がやってきたことと何の違いもない。
ハイデガーはこの「私」、一人の人間を現存在と呼ぶ。現存在は、主体ではない。現存在は、主体よりもさらに基底的なものである。ハイデガーは主体という概念を否定するものではない。主体、意識よりも、もっと奥がある、と言っている。その奥にあるものこそが現存在と呼ばれる。
このスタート地点である現存在は、未だ主体には至っていないということ。主体と呼ばれるものは意識があって、心があって、外界を観察して、……といった主観ー客観図式の中にある。一方で現存在は、「われわれ自身がそのつどこの存在者であり、問うことを自分の存在の可能性として持っている存在者」である。
上記のように現存在の本質は2つある。
①各自性(各私性? 色々名前がある)
現存在というのは、特定の誰か、具体的な個人のことである。
この点について著者のドレイファスはジョン・ホーグランドに代表される解釈者たちの「現存在は個別的な人格とみなしてはならない」という主張を批判している。たしかに彼の言う通り、現存在を集団だとみなすのは明らかにハイデガーのテキストとは矛盾しているようだ。
②実存
この部分が「問うことを自分の存在の可能性として持っている」にあたる。
現存在も存在者であるから、自らをある存在了解のもとに扱っている。「現存在の活動――現存在の存在の仕方――は、現存在として存在することの何であるかについて現存在がとる立場を表明しているのである」。
このような自己解釈的な存在の仕方が、実存と呼ばれる。
自分がどういう存在か。私たちはそれを常に具体化させている。
※この点が「存在了解」=「実存」とはならない部分だと思われる。ハイデガー自身は実存の必要十分条件には興味がないらしいので、これ以上の記述はない。
※参考にさせてもらいました!:現存在:ハイデガー「存在と時間」を読む
※「われわれがこの存在者を≪現存在≫という語で表すとき、われわれはその存在者の≪何であるか≫(それがテーブルであるか、家であるか、木であるか)を表現しているのではなく、その存在者の存在を表現しているのである」
私はいつの間にか自らが現実に存在しているという事態に気づき、自らの在り方を、体調、能力、性格、立場など様々な側面を意識し、周囲の対象や他の人間との関係にうまく適応するよう、その在り方を調整するようになる。そうした意識的な実践の積み重ねの中で、私にとって自分が誰なのかという意味での、自己の本質(存在)が形成されてくる。
これは実存を理解するうえでわかりやすい。つまりは実存というのは、「各人の「意識」によってどのようにでも加工・変形できるもの」ではない。自分の周りの色んな状況がある、それを見て「俺はこういう人間だ」とするけれども、そういう風になれるとは限らない。そうしてこういう人間であろうとする選択肢も、無から生まれ出てくるわけでもない。
『自分がどういう存在か、常に具体化させている』
などと書くと、なんだかわかったような気になるのだが、ハイデガーが言っているのは観念論ではない。つまり、この世界はあなたの頭の中で自由になるようなものではない。
現存在の存在了解
現存在はある文化の中に生まれ落ちる。現存在自身を解釈する一定の伝統的な仕方のうちへ育て入れられ、その中で育て上げられる。そこには「いやそれは違う」とか「こういう風にするんだ」といったような選択はない。気づいたときには、「現存在は、差しあたり一定の範囲内で、絶えず自分を了解している」状態になっている。
それは心のうちに表象されるとは限らない。それどころか、ほとんどの場合は表象されないだろう。つまり「なんとかはなんとかである」などと記述されない。たとえばわれわれは全く教えられなくても、よそ物、親友、同僚などと話すときの物理的な距離のとり方をわかっている。どの文化にも、適切な距離に対する『感じ』がある。
われわれは、われわれの文化について技能的に身についた了解を携えているのである。
「その文化ではよそ者は〇メートルの距離」というようなものではない。もし周りがうるさい環境だったら? もし友人だとしても、相手が風邪を引いていて頻繁にくしゃみをするなら? ———— わざわざ言われなくっても、『感じ』にしたがってわれわれはそのように振る舞う。