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(メモ)ハイデガーの超越論的哲学

 ハイデッガーの『存在と時間』は、存在者的なもの・存在論的なもの・存在時性という三水準を区別した問題設定によって描かれた。すなわち、①存在者が了解されることの可能性の条件としての存在、②そのような存在一般の了解の可能性の条件、③存在了解一般の可能性の条件としての根源的時間、である。だがこの著作は途絶したことを受けて、こうした流れには根本的な欠陥があるのではないかという疑いがかけられた。ハイデガー自身もこの問題設定を自己批判している。

現象学の根本問題

ハイデッガーの超越論的な思索の研究

 

 イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において「超越論的」という言葉を次のように特徴づける。「対象に関わるというよりも、むしろ、対象一般についてのわれわれの認識様式―—この認識様式がアプリオリに可能であるべきかぎり――に関わるところの一切の認識」。これを受けてハイデガーは『カントと形而上学の問題』において、「超越論的認識はそれゆえ存在者それ自体を探求するのではなく、先行的な存在了解の可能性を、すなわち、存在者の存在機構を探求する」と解する。『純粋理性批判』の「アプリオリな綜合判断はいかにして可能か」という問いは、「われわれが存在者の存在を認識することの可能性の条件はなにか」という問いと同じになる。つまり『存在と時間』は『純粋理性批判』の超越論哲学の継承と捉えることが可能となる。

 アリストテレスにおいて提示された存在者を規定する諸カテゴリーは、自然学を模範とするデカルト構想を受けて、カントにおいて自然学の対象において適用されるものであり、自然学的な諸学とは異なる原理に基づく学の基礎をなす「生のカテゴリー」が求められたという哲学史的な文脈がある。カントはまず自然に先に目を向けそれに基づいた因果性によって自由を理解しようとしたが、ハイデガーはこれを転倒させてまず自由なものとしてのわれわれ(現存在)の存在性格を分析し、それを元に存在論を組み立てようとした。存在者は「現存在」と「非現存在的存在者」に区分けされ、前者の存在諸性格は実存カテゴリー、後者は単にカテゴリーと呼ばれる。この区分けは決定的なものであり、二つをまたぐようなカテゴリーなどないとされる。

 だが現存在は完全に自由なわけではない。ハイデガーが強調するのはその「有限性」である。われわれは徹底的に歴史的・地理的状況などに逆らい難く規定されている。簡単にいえば、「バイアスまみれ」なのである。このことはカントや、ハイデガーの師フッサールは理想的で中立的な認識主観というものへの強い懐疑のように思われるが、それでもハイデガーは有限的な現存在を、そこからすべての存在論が提供されうるような場として見出そうとする―――この現存在の有限性は、現存在を存在論の源にしようとする試みに対して常に立ちはだかることとなり、『存在と時間』以後のハイデガーはさらに有限性を強調してその超越論性が保てないことに葛藤していたものと解釈できる。そして遂に『無の形而上学』とも呼べるものに達することとなるのである(ただこの後、彼は形而上学から急速に距離をとるようになる)。

ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで (講談社現代新書)

 

 さて、『存在と時間』においては現存在と非現存在的存在者が明確に区別されるのだった。現存在はその存在者が存在者として了解されるところの可能性としての存在一般について了解している。その存在了解はもちろん自分自身に対するものでもあり、非現存在的存在者に対するものでもある(2つのベクトル)。

 ハイデガーによれば「Aを了解すること」とは「AとBへ企投する(投げ入れる)」という構造をもつものである。それはまず第一のベクトル・おのれ自身に対するものとして、おのれの在り様に対する了解である。たとえば自分自身を「よい夫である」という可能性に投げ入れる。この可能性は同心円状に広がりを持つようなものであり、「文章をよいものにしたい」「よい著書を書き上げたい」「よい研究者として認められたい」「安定した地位を持ちたい」といったように同時に企投する。

 第二のベクトルは、第一のもの(目的・可能性)をもとに了解される。もちろんペンには机が必要であるし、机には足場が必要であるし、足場にはもろもろの存在者が必要となるだろう。しかし結局ペンは書くためのものであり、現存在の目的にしたがってものの可能性が定まっている。ペンの存在を了解しているというのは、もしペンがなかったらどうであるかを知っているということであり、そしてそれは達成できたはずの何らかの目標に障害があるということである。

 ゆえに、自分の可能性を現存在が了解しているというのは、すべての存在者の存在の了解にとって基礎的なのだ。

『存在と時間』の哲学〈1〉

ハイデッガーの超越論的な思索の研究

 

 現存在以外のすべての存在者は目的に対する手段の連鎖全体の一部分としてはじめて出会われる。この連鎖は「事情全体性」「適所全体性」と呼ばれるものであるが、これは自然の因果的な連結全体(「超越論的親和性」)を取り扱ったカントの理論に平行的である。『純粋理性批判』において自然の因果必然的な統一が個々の物理的対象以前に知られているのと同様に、事情全体性は個々のものよりも先立っている。

 この事情全体性の議論において確認しなければならないことは、ハイデガーのいう「非本来性」との関係である。すなわち、現存在は他の存在者とはちがう存在者であるのに、おのれに対する存在了解がたいていの場合制限されているのだ。了解というのは可能性に企投することであったが、われわれはいつも偶然的な経験に基づいてそれを決めておりすべてを見通している訳ではない。しかもその見出している可能性さえ、おのれの存在を道具の存在とほぼ同様に、社会的に期待される役割を満たしているという尺度からして了解している。現存在と非現存在的存在者とが、当の現存在にとってさえまったく区別されていない。そしてまたおのれと、おのれ以外の現存在とのあいだの可能性さえ判明に区別されてはおらず、実際のところは、おのれの固有の可能性というよりも他人の可能性に基づいて多くの存在者の存在が了解されているのだ。

 そうであるとすると、事情全体性のネットワークは現存在に対する手段のネットワークなのだから、この構図はまったく成立していないことになる。 

 そこで「本来的な」現存在が必要となる。だが私たちは上述した二点によってまったく不自由なのである。これを解き放つのが「先駆的決意性」の遂行であり、この操作はフッサール現象学における「超越論的還元」に平行する。

ハイデッガーの超越論的な思索の研究

 

 先駆的決意性は、「死への先駆」と「決意性」の二部分から成る。

 

 ハイデガーは「死」というものを、現存在の本質的な構成要素であり、一個の際立った可能性であるという。死が可能性であるとはどういう意味なのかを理解するためには、企投という概念を見直す必要がある。まず、「Aという可能性へとBを企投する」というのは「Bが、Aでありうるかもしれないが、どうだろうか」と問うことのうちでBを了解することである。言い換えれば、Aになっている必要はない。つまり、死が現存在の可能性だからといって、死が実現している必要はない―――すなわち、死の可能性というのは、<自分は常に存在しないことが可能であるような存在の仕方をしているが、次の瞬間にも自分は存在しているだろうか>ということを通じてのおのれの存在の了解である。このようにおのれの存在を了解したならば、明日もあさっても死なずにいられると規定することをやめなければならない。<私は存在するがそれは必然的なことではなく、それ以上になんの根拠も目的もない端的な事実にすぎない>ことは、おのれの存在が手段(他の目的のための)と同様のあり方ではないということである。

 よい教師であること、いい文章を書こうということ、そうしたことは事情全体性の単なる相対的な終端にすぎないが、死は絶対的な終わりである。こうした可能性はもはや別の目的のために奉仕し得るものとして道具連関の途上に位置付けられない。ゆえに現存在は手段ではありえないものとして了解される。

 

 死への先駆はわれわれを自由にするものであり、一方、決意性はそれが他人の可能性ではなく自分自身の可能性としておのれを了解するものである。

 カント『純粋理性批判』第三アンチノミーに基づくならば、人間の行為を含めたあらゆる出来事は先行する事態からの必然的帰結として現象する。たとえば「もっと早くに準備していれば遅刻しなかったのにな」と後悔する人は、ある観点からすれば、そうすることは決してできなかった―――彼は彼の関心と能力とが許すかぎりにおいて最もよく準備をしたのであって、それらが周囲の出来事によってことごとく決定されているならば遅刻したことは彼が選んだことではない、と。だが日常的には、私たちは自分がそれなりに自由であると感じている。

 決意性とは、われわれが日常的な理解において「そうするほかなかったこと」だと思っていることごとを、「私が選んだこと」として了解し直すことである。(p62)

 

 決意性は、私がまさに行いつつあるすべてのことを、私が望んだこととして了解し直しつつ行うことである。そしてこのように自己を了解するならば、私が、それを望むことは私にはそもそもできないと思っているすべてのことは、私はそれを望むことができるのだが、しかし私は敢えてそれを望まないことを選ぶ、として了解し直されることになるのではないだろうか。

ハイデッガーの超越論的な思索の研究

 自分を最大限に自由なものとして了解しようとするならば、すべての責任回避を括弧入れする必要がある、という。すると関心や能力、自分の環境すらも自ら選択したものである。通常は、理論的観点に基づいて何をなしうるかを見積り、それによっておのれの可能性を了解する。決意性はそれを反対にする。やれるだけはやった出来事でも、これでよいとみなしていたということで、責任を感じることができる。