にんじんブログ

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にんじんと読む「自意識と創り出す思考」

 人生の基本的な指向、なにが大切かを測る物差しを変えよう。つまり「自分は何者なのか」ではなく、「自分にとって大切なことをどれだけ創り出せているか」にフォーカスを移そう。これによって、必要な能力を身につけ、学び、行動し、適切な方針をもって、創り出したい成果を創り出せるようになっていく。

 たとえばなにか勉強でわからないことがあったとする。しかし「こんなこともわかっていない」と思われるのが嫌で、質問できない。これこそが前者の物差しであり、自己イメージを守ろうとする、自分が何者なのかを守ろうとする態度である。だが一番大切なのはわからないことをわかることであり、実際あなたはそれを望んでいる。望んでいるからこそ、質問しようかな、と思う。しかしバカだと思われたくない。だから質問しない。———つまり後者を選ぶべきであるのは、前者が有害であり後者が有益だからだ。

理想はかなわない

 理想と価値観を区別しよう。理想とは、いわば外から押し付けられた「こうあるべき」姿である。一方価値観というのは、いわば内側から湧いた「どうありたいか」という姿である。この点、内面化されていない道徳というのは理想に似ている。

 たとえば「どうして人を殺してはいけないか?」と問う子どもがいる。法律で明文化されているように、人を殺すべきではないと世の中は考えている。言ってしまえば、みんなが言っているからだし、さらには、誰も誰かに殺されたくはないしほとんど多くの人がそう思っているだろうからそういう風にみんな言うのだ。この規範はおおむねこういう流れだから、『俺は死刑になってもいいし』というやつが現れたときに困ることになる。ただそいつが死刑になってもいいかどうかは規範にはどうでもいいし、殺されてもいいなら殺してもよいとは、道徳は一切言っていない。だから道徳の話はこれでおしまい。あとは価値観の問題で、殺したい人は実際に手を染める。人を殺すと刑務所にぶち込まれて前科者になるが、たぶんその人には人生でチャレンジしたいことが特にないので、””殺さず””を望むことはないだろう。よい人間関係、やりがいのある仕事、健康、豊かな人生……こういうものを望めない社会で起きるエラーである。

 問題含みのように思える部分は、子どもが「じゃあ絶対的なルールではないんだ」と言い出しかねない点だろう。その通り、絶対的なルールなどではない。というか、絶対的なルールという言葉の意味もよくわからないが、物理的には完全に人は人を殺すことができ、現に殺人事件も戦争も起こっている。誰かを殺そうとすると時間が巻き戻って阻止される世界ではない。だからこれは単にひとつの道徳に過ぎない。道徳とは、強制力を持たない。問題含みというより、当然の事実である。ただ、このことから理想についての大事なことがわかる。ここに「人は人を殺す」という不信感が根底にあるのだ。

 なにも殺人を持ち出さなくても、理想は世の中にあふれている。

 たとえば憧れの人物が何歳でなんとかしたと聞くと、その人のルートが『正解』のように思え、自分は落ちこぼれなのだと感じるかもしれない。わけもわからないままに罪悪感を覚え、落胆し、自分を責め恥じる。そしてこれらの理想の根っこには、自分はこんな人間ではない、という自己否定がある。自己否定など別に大した話ではないが、自己イメージを大事にする人にとっては決して成功しない挑戦を意味する。スタート地点でそもそも自分を否定しているからだ。そしてその自己否定を自覚しているならまだしも、無意識的なものなら、達成はずっと絶望的になる。そしてさらに決定的なことに、そうした思い込みが事実に基づいているとは限らない。

 

自分が誰かがそんなに大事?

 自分自身を業績や挫折、教育、所属グループ、アイディア、政治、セックスアピール、知性、道徳律、宗教観などによって定義してはいないか? たとえば人は自らを職業と同一視し、果ては、収入こそが人間の値打ちだと言い出す。だがそれらは自分自身ではない。ではそれらを足し合わせたものかというと、そうでもない。もし何か一つを抜いたら、自分ではなくなるというのか?

 習慣とはパターンであり、パターンとは構造によって決まる。たとえば建物を玄関から入って目的の部屋まで行くにはあなた自身の話をするよりも建物の作りについて話すべきだろう。これと同様に、目の前に理想がぶら下がっていてそれを目指してずんずんと進んでも、背後にある『嫌な思い込み』にも引っ張られていて、進んだぶんだけ反動で後ろに引っ張られてしまう。ダイエットしようとして頑張るも、結局反動で食べ過ぎてしまうのと似ている。勝者を単に目指すだけなら問題ないが、敗者であることを避けるようになるとこの構造に入り込む。そして前へ後ろへ永久に振られ続ける―――いくらポジティブであろうが、自分を愛そうが、何も関係がない。後ろ向きのゴムが絶えず自分を引っ張っている限り、ずっと似たような運命を繰り返すことになるだろう。

 もちろん、ポジティブであっても全く構わない(そうでなくても別にいい)。問題は、ポジティブでなければならない、という理想を持つことだ。いつもポジティブでいようとすると、現実の認識を歪ませることに繋がる。