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完璧主義について

完璧主義の基本

 完璧主義とは「自身や周囲を評価する際、過剰なまでに完全性を求める認知・行動傾向のことであって、自身にとっての期待外れやコントロールできない部分を究極的に全て無くしてしまおうとするあり方」のことです。

 Hewitt and Flett(1989)は、完璧主義を三つに分類します。:

  1.  自己志向的完璧主義(完璧主義が自分に向けられる)
  2.  他者志向的完璧主義(完璧主義が他人に向けられる)
  3.  社会規定的完璧主義(周囲から完璧を求められていると感じる)

 完璧主義には二つのプロセスがあります。①目標設定と②結果の解釈です。

 完璧主義のうち、高目標設定といったような「完全を求める」という傾向は精神的健康とは関連がなく、失敗過敏や行動疑念などの「不完全非受容」な面が精神的健康を悪化させることがわかっています。「不完全非受容」な完璧主義は、理想と現実のギャップ・理想実現可能性予期の低さを持ち、一種の絶望感に近い自己認知を抱きがちで、それが精神的に不健康である要因になっています。

 たとえば統制不可能事態への対処方略(コントロール不能に対する戦略)としては、

  1.  直面化or回避 — もう一度解決しようとする
  2.  サポート希求or一人で対処 — 他の人に相談してみる
  3.  考え込みor気分転換 — 事態について繰り返しどうしたらいいのか考え込む
  4.  ポジティブ予期orネガティブ予期 — 統制できる可能性についてポジティブに予期する
  5.  自己擁護or自己非難 — 自分は悪くない、こんなことたいしたことない

 がありえますが、「高目標設定」は直面化、ポジティブ予期、考え込みなどの、再統制を試みますが、「不完全非受容」は回避、ネガティブ予期、自己非難など、脆弱性を示し、抑うつ傾向を悪化させることがわかりました。

 

 不適応な完璧主義は、社会的な比較による優劣などの外的基準を頻繁に用い、柔軟な考え方やありのままの自分を肯定する自己受容のような基準達成に基づかない自己肯定方略をとらない傾向にあります。不適応な完璧主義者は基準達成に基づかない自己肯定をすることが苦手なために精神的健康を悪化させているのです。この「基準達成に基づかない自己肯定方略」とは具体的には以下のようなものです。:

  1.  常にいろんな角度から物事を見つめるようにする
  2.  自分が充実して楽しめるジャンルをたくさん持つ
  3.  ひとつのことを突き詰めすぎず、自分を追い詰めない
  4.  「これがダメなら次はこれ」のように柔軟に目標を変える
  5.  「自分は自分なのだから」と考え、自分を励ます
  6.  「別に今のままの自分でもいい、十分だ」と考える
  7.  結果がどうあろうが流されることなく、マイペースを貫く
  8.  ものごとの優劣にとらわれずにありのままの自分を認める

 逆に、不完全非受容は、

  •  自分の気に食わないところがあることが、我慢できない
  •  自分の不十分な部分を認めることができない
  •  自身の持つ欠点をなかなか受け入れてやれない
  •  自分がした失敗がいつまでも気になってしょうがない
  •  上手くいかない自分をなかなか許せない

 といった傾向のことであり、これを少しずつ減らしていくことが解決に結びつくと考えられています。

 

シンプルな解決案

 前節の内容によれば、完璧主義者が不適応な状態に陥るのは高目標ではなく、結果の解釈によることがわかりました。結果が自分の理想にかなっているかどうかという達成基準を優劣の比較など外的基準に求めることをやめ、そういうものなのだと受け入れ、それひとつではなく様々な目標を同時に持ち、その問題についてはどうすればいいのか考えることで前向きに処理することで、適応的に生きることができるということでした。

 しかし、現に完璧主義者の人が上述の結論を読んで救われるとは思えません。なぜなら、いくらかの目標や多彩な挑戦のジャンルを持つことはいま目の前にある問題を解決しませんし、いくら自分は大丈夫なのだと自己肯定しようが単なる自己欺瞞のように思えてしまいますし、もやもやとした気持ちが残ることは容易に想像できるからです。

 私たちは外的基準を用いるべきではないのでしょうか。むしろ、外的基準が明確ではない理想を選び取ることで問題は起きているのではないでしょうか。たとえば、「しっかりしなければならない」といったような。

 

 達成基準が明確ではないような理想Aをもつとき、人は自分が「Aではない」と考えています。しっかりしなければならないと考える人は、自分がしっかりした人間ではないので力を入れて踏ん張らないといけないのだと考えています。そのこと自体が一種のストレスなのではないでしょうか。

 あなたは自分が「しっかりした人だ」という証拠を何一つ挙げることができません。どのようなデータを見せられても、「いや危ない、注意しないと危ない」と考えています。こうした理想を持つひとは頭のなかで絶えず、「おれはしっかりするぞ、しっかりするぞ」と考えています。そして「しっかりしている」とは具体的にどういうことであるか、いろいろなリストを頭のなかに持って、次々にチャレンジしていくのです。

 けれど、なにをやってもそもそも「自分はしっかりしていない」という確信からはじまっているので、どんな成功体験を持とうが絶対にその確信が揺らぐことはありません。そもそも自分がAであるということの証明が必要な人間は、自分のことをAであるとは思っていないのです。この戦略をとろうとすればとろうとするだけ、自分がAでないという思い込みを再び目にするだけなのです。

 

 たいせつなことは、その理想がどういうことであるのかを突き止めることです。「しっかりする」ことはできませんが、職場でみんなに挨拶をすることは必ずできます。それら明確なひとつひとつを、頭のなかに「やるぞ」というリストをつくることなく体に馴染むほどに自然にできるようになるまでやるのです。

 

 牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老獪なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
 あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵(こしら)えてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押して行くのです。

 

あせってはいけません。

ただ、牛のように、

図々しく進んで行くのが大事です。

 

夏目漱石