①
人間という主体であること、あるいは人格であること、あるいは自我であることがいかなることであるかについて、わたしたちが持っている近代的な考え方を「近代的アイデンティティ」と呼ぶ。そしてまず確認しておかなければならないことは、自我のあり方と善との間の結びつきについてである。これまでの道徳哲学は「いかにあるのが善いことか」ではなく、「何を行うのが正しいか」という問題に集中してきたし、一方の問題を軽んじてきた。つまりここで改めて扱おうという道徳的なものは、他人の生命と福祉と尊厳の尊重といった問題に対する見解とそれに対する反応だけではなく、自分自身の尊厳の根底にあるものや何が自分の人生を意味あるものにするかということでもある。
通常の語法では、道徳というものに後者のような含意はないだろう。だが両方ともが共有しているものがある。それは二つともが、正邪・善悪・高低といった区別を含むということである。この区別は私たち自身の欲望や傾向や選択によって妥当だとされるものではなく、むしろそれらの欲望などを判断するための判断基準を提供するものなのだ(×:事後の評価/〇:事前の規整)。だからもし自分がいま意味ある人生を生きていないとしてもそれが道徳的な過ちだと言われないにしても、やはり自分自身が承認すべきその基準のもとでは自分自身を非難することになるだろう。
他人を殺したり大怪我をさせたり強奪したり困窮状態にある人を見捨てたりするとき、私たちは生命と安全の尊重という道徳的要求を侵害している。この種の要求は、その対象となる人間の範囲はともかく、あらゆる人間社会において承認されてきた。大部分の現代人にとっては、この要求の範囲は人類全体あるいは動物全体になっていることだろう。この要求はあまりにも根深いために「本能」に由来するのだと考えがちである。この本能は文化的に様々な形態を持つ。まず「人間はすべて神的な火から流出したものである」などの特徴づけがなされ、「それゆえに、人間を尊重すべきである」と言われる。そしてもちろん、その枠から排除される人にも相応の特徴づけがなされる―――近代の自然主義意識は、二番目の「人間なるものについての一定の存在論への同意」というものを道徳から切りはなし、「本能」(進化論とか、生物学的に)によって説明を済まそうとしてきた。そうすると、人を殺しちゃ駄目だとか傷つけちゃ駄目だと思うのはまさに反応であって、まさにそのようなものであるだけなので、なにかが道徳的に尊重に値するかなど議論するのは時間の無駄ということになる。
だがこのような立場は私たちの実際とはかけ離れているだろう。私たちが道徳について自分で思考し推論し議論し疑問を出すやり方それ自体が、本能と存在論の二つの側面を想定している。
すなわち、その反応は「本能的」感情であるだけでなく、同時に、その感情の対象に関わる主張を暗黙裡に承認したものでもあるということである。さまざまな存在論的説明は、これらの主張を明確化しようとする。
そして今度は、「本能」を忘れてはならない。もし私たちの本能的な反応とは独立の事実から出発したなら、自分たちがなんの話をしているのか道を見失ったことになる。存在論的説明は、本能の明確化という地位を持っていたはずだからだ。だから道徳的な議論は、中立的な科学とは対照的に、私たち自身の応答に耳を傾けなければならない。もし何が尊重に値するかを細かく見たければ、人間の苦しみに関わる主張を感じるとはいかなることか、不正義に嫌悪感を覚えるとはいかなることかを思い浮かべなければならない。中立的な姿勢から出発して道徳的存在論へ至ることはできない。