にんじんブログ

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にんじんと読む「わたしは不思議の輪(ダグラス・ホフスタッター)」

本書を通じて自分の考えが哲学者たちに伝わるのを望みはするが、哲学者のような書き方はするまいと思っている。わたしには、多くの哲学者は数学者と同じで、自分の正しさを実際に証明できると信じていて、そのために非常に厳密で専門的な言葉を多く用い、場合によってはありとあらゆる反論を想定して、その反論に反論しようと準備しているように見える。そのような自信には敬服するが、わたしはそこまで楽観的ではなく、もう少し宿命論的だ。わたしは、何かを哲学で完全に証明することは不可能だと考える。

わたしは不思議の環

 

 第一章 魂のサイズ

  •  父の死後、母がその写真を見て「こんなのはインクが染みついたただの紙切れ」だといって泣いた。私はそれに同意できず、次のように応答した。「ショパンの楽譜もただのインクの染みだが、百五十年間人々に力を与えて来た。あれにはショパンの心の中に渦巻いていた深い感情が秘められていて、僕たちはそれに触れることが出来る。それと同じように、パパの写真を見ると、僕たちの中に残っているパパが呼び起こされる。あれはパパの魂の断片なんだ」
  •  トマトを切り刻むこと、オッケー。蚊を叩き潰す、オッケー。豚も食う、鳥も食う、牛も食う。でも犬は食わない。動物を実験に使って殺してみるのはどう。どの生き物も同じレベルに置くなら、トマトだって許されないはずだが、私たちはどこかで「魂のサイズ」の「より大きな」ものが「より小さな」ものを犠牲にすることを認めている。それじゃどこでそのラインを引くか、なんてことになると恣意的になる。
  •  あなたに潰されて死にかけた蚊が、床の上をもぞもぞ這っている……。
  •  戦争における敵兵。死刑囚。奴隷。アルツハイマー。異教徒。
  •  なんとなくのイメージ。健康な成人 → 知的発達の遅れた人、脳に損傷を負った人、認知症→ 犬 → ウサギ → 鶏 → 金魚 → 蜂 → 蚊 → ノミ →微生物 → ウイルス → 原子……。
  •  魂。あるいは内面性。
  •  精子卵子が結合したときに魂が発生するとは思えない。そこで誕生したのはむしろ「魂がふくれあがる存在」つまり、複雑な内部構造あるいはパターンを発展させる存在。精妙なパターンには、発達と衰退の幅がある。

 

 「魂」「私」の根底をなす、あるいはそれらを生じさせるとわたしが信じているものの本質を突き止める!

 

第二章 揺れ動く不安と夢の球体

  •  文学研究は紙質や本の装丁、インクとその科学的組成、版型やマージン幅、活字や段落の長さなどについてしか語ってはいけないのだろうか? もちろんそんなことはない。しかし、ならなぜ「脳研究」が、アミノ酸神経伝達物質シナプスニューロンなどしか相手にしてはいけないのだろう? 重要なのはいずれの場合も、抽象物だというのに。脳研究には次の要素もリストにいれてもらおう! すなわち、犬という概念、犬と吠えるの連想リンク、長期記憶と短期記憶、ミーム、自我、イド、母語の文法、ユーモアのセンス、そして「私」
  •  人々はなにかが脳の物理的反応に対応するのが大好きだが、それに先立って、あるいは後追いでも、リストの要素間のさまざまな関係性を確立させるのだって大事なことだ。
  •  脳を研究しようっていうのに、それも概念とか、アイデアとか、プロトタイプ、ステレオタイプ、アナロジー、抽象化、記憶、忘却、混乱、比較、創造性、意識、同情、共感といったものに説明を与えようってのに、陽子だの中性子だの、なにかの科学的性質だの、微視的なレベルで語るのは間違ってる。
  •  たしかに、誰だって知ってるけど、臓器というのは細胞からできている。だから細胞の観点から臓器を観察してみるのはいいことだ。が、そうしていたら見えないことがある。たとえば心臓だ。心臓は単に細胞の集まりじゃない。それは「ポンプ」だ。細胞をいくら研究したって、ポンプは絶対出てこない。
  •  ビッグバン以来、自然淘汰ランダムウォークは遂に細胞へと行きついた。そしてご存知のように、細胞を備えた生物が栄えることになった。細胞のなかにはリズミカルに収縮するものがあって、偶然に心臓ができた。一旦心臓ができると、そのデザインはどんどん洗練されていく。でも細胞に変わりがあるわけじゃない。ゲームは既に新しい局面を迎えている。自然淘汰がいま問題にしているのは、心臓のアーキテクチャだ。心臓の根本はもうできあがってる。いまはそれをできるだけうまく動かしたい。だから心臓外科医もその部分に注目する。あなただって車を買う時に、まさか陽子や中性子の物理、合金の化学的性質を考えちゃいない。考えているのは、快適か、安全か、燃費はどうか、運転はしやすいか、イケてるか、どれかに決まってる!
  •  当たり前のことを言ったつもりなんだけど、このアナロジーは案外理解されていない。ジョン・サールが理解していない哲学者の一人だ。とはいえ、彼をこき下ろすのがこの本の目的ではない。ここで指摘したいのは、脳の基本的な物理的単位のレベルと、複雑で捉え難い心の属性のレベルを同列に考える暗黙の前提がいかに広く支配しているかということだ。

 

第三章 パターンの因果的影響力

本書を読み進めるためには、思考する存在が複数の記述レベルで説明可能なこと、およびそのレベル間の相互関係がどのようなものかをはっきり理解する必要がある。

わたしは不思議の環

  •   逆説的にすら聞こえるだろうが、ごく当たり前の事実を指摘しよう。「既定のレベルは何が起こるかを100パーセント決定するが、にもかかわらず起きたことに対しては何の意味ももたない」。
  •  たとえばこうだ。あなたは母が聞いていたショパンのとある曲を耳にして、その曲が大好きになった。もしも母がそのショパンの曲を聞くのが1ミリ秒遅かったらどうだろう。部屋にいる分子たちはまったく違う一生を送ることになっただろう。だが、確実に、あなたの人生にはなんの影響もない。分子はそのまったく異なる振る舞いのなかでも、やはり「あなたがショパンのその曲を好きになる現象を引き起こしたはずだ。もちろん、空気が振動しなければ音は伝わらないが、そうした基底レベルの物語は、それより上位レベルの事象を生じさせる役割しかない。分子たちのライフストーリーはどうでもよい。『つまり上位レベルは安心して下位レベルを無視することができる』(p.60)。

 ここに摩擦ゼロのビリヤード台があり、その上には””シム””という特殊な磁気をもった極小ボールがいろいろ動いている。特殊な磁気というのは、シムが低速で他のシムにぶつかるとくっつくという性質をもつ。シムボールの完成だ。この台の上にはビュンビュン飛ぶシムと、ほとんど動かないシムボールとがある。

 あなたがつまらなくなって台を蹴ると、当然、台の住人たちの運動は変化する。外在的な出来事を内在化しているといってもいいし、外界の歴史を反映するといってもよい。シムボールの配列から何かを読み取る人がいれば(たとえば星座みたいな?)、出来事を記号化しているともいえるだろう。シンボル化だ。

 還元論者たちはシムボールはシムによって構成されているので、本質的ではないと言い出す。いや、だってシムボールってシムでできてるやん。シムの動きさえわかればええやん。確かにその通り! 問題はそのあとだ。たとえば山というのはほかのものから区切られているからこそ山なのだが、分子はいつも勝手に飛び回っており境界線などない。還元論者は巨視的なものの見方をすべて捨て去ることになる。そして恐ろしいほどの数のシムを相手にする。宇宙開闢以来、すべての運動を追いかける羽目になる。私たちはパンをパンとして見、分子の塊とは見ない。

 シムボールは安定している。私たちはぶつかってくるシムのことなど気にしない。ちょっとズームインして、寄ってみると、安定しているシムボールの表面では激烈な戦闘が起こっていることがわかる。グラスの水を拡大すると、水分子がぶつかり合うのが見えるように。

 

 第四章 ループ、ゴール、そして抜け穴

  •  水洗トイレの中を覗いてみると、タンク内の水量を一定レベルに保持するように「努めている」様子がわかる。この擬人的な表現を不自然なものだと感じるだろうか? 単純なシステムの動きを目標志向に捉えるのはなぜ不自然なのだろう。水洗トイレがタンク内に水を「欲している」というような言い方をされると「あり得ない」と言いたくなるのだ。
  •  目標とは、フィードバックである。フィードバックをもつシステムは、出力を入力に送り返して、もとの出入力が正しかったかをチェックし、誤差の補正を行う。なにごとかに目標があるかどうかは一見して明らかではない。たとえば道端の溝をボールが転がっているとしよう。溝はボールよりも少し広いので、ぼんぼんと左右に触れながらどんどん落ちていく。このとき、ボールは溝の中央線を目指しているといえるのだろうか。今度は植物を見てみよう。一見して、植物は不動でありなにか目標を持つとは思えない。しかしだれもが知っているように、植物は周囲の環境を感受して活動している。
  •  フィードバックループがあると、人間はその記述レベルにおいて「目標が存在しない力学レベル」から「目標志向」へと誘導される強い圧力を感じる。実は後者は前者の言い換えにすぎないのだが、それが淀みなく洗練されたものであればあるほど、私たちはどうしてもそれを目標志向的に捉えてしまう。とはいえ、単純なフィードバックループでさえ、中身をじっくり見るとけっこう込み入っている。たとえばスピーカーとマイクを考えてみよう。スピーカーの出した音をマイクが拾って、スピーカーがそれよりもk倍高い音を出すシステムだ。これを数万回繰り返したら音波で建物が吹き飛ぶだろうか? そんなことはない。建物の前にシステムが壊れる。システムが壊れる前にシステムがどこかで飽和する。音の増幅が止まってしまう。
  •  シカゴは人口の多い都市である。『シカゴ』は三音節である。『『シカゴ』』は『シカゴ』という名称について語り、『『『シカゴ』』』以降同様。鏡に映される鏡。……ループは魅力的なものだが、同時に人を恐れさせてもきた。数学者のラッセルが集合論の自己言及パラドックスに遭遇したとき(すべての集合の集合は集合か?)、彼はループ性を追放することでこれを解決しようとした。:〇〇という語を使うのに、〇〇自身に対して〇〇を適用してはならぬ。だが、語という語が語で何がいけないのか?

 

 

 第七章 ズ~イ伴現象

 シンボルは、シグナルを濾過して活性化する。これが結果的に、動物が密接に世界と関わることを可能にしている。成熟した人間は適切な場面で適切に反応することができるが、それは長年写し取って来た外界の現実性を整理してきた結果である。

ここで「Xの現実性を整理する」とは、Xの存在をどの程度信じるか、何かを自分や他人に説明するときに躊躇なくXの概念に頼れるかどうかについて、揺るぎない結論に達していることを意味する。

わたしは不思議の環

 記事に「幽体離脱」などと書いてあったときに読む気が失せるならば、あなたはその現実性を疑わしいものだと感じているということだ。とはいえ、幽体離脱といった現象を熱烈に信じている人もいる。あるいは、あるあると言われていたものがなかったりもする。これらの現実性をすべて整理するのは並大抵の仕事ではない。

 ところでこの世の中のものは現実/現実でないとキレイにわかれるのだろうか。というより、分かれてもらわないと困るというほうが適切に違いない。

 南極が実際にあるかどうか、行ったことはないが、どうやらあるらしいことを現実として受け止めている。南極以前に、自分に臓器があることも見たことはないくせに、私たちは知っているようだ。いつか自分が死ぬことも知っている。いろいろなタイプの理由からそう信じており、複雑に連動する信念体系を作り上げている―――これらの「確信」の源はなんなのか? それはやはりシンボルだ。頻繁に活性化されるものほど、現実的に思えてしまう。だからもっとも現実的なものは「わたし」なのだ。

 随伴現象というのがある。それは《小さな事象がたくさん集まった結果生じる、集合的でありながら単一に見える現象のこと》(p.132)である。《言い換えれば、随伴現象とは、それ自体は決して錯覚ではない小規模な事象が数多く集まって生まれる大規模な錯覚》(p.132)だ。この話は「わたし」に行きつこうとするものだが、「わたし」が存在しないと言いたいわけではない。それはたしかにある。

 

第八章 奇妙なループの狩猟旅行