にんじんブログ

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つながらない生活(インターネットのこと)

つながらない生活 ― 「ネット世間」との距離のとり方

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット依存・ゲーム依存がよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)

 

つながらない生活

 スマートフォンを持っているといつも誰かが肩を叩いてくる。広告をクリックして、という催促。メールが来ているよ、という通知。誰かからコメントが来ているかも。わからないことがあればすぐにネットに飛びつく。答えがわかるとすぐに次に移る。youtubeからはおすすめ動画が流れてくる。「まずは通知を切ること」という誰かが言っていたシンプルな警句は正しい。

 技術が発達したおかげで誰かと連絡を取り合うのも楽になった。誰もがLINEをしている。ニュースもすぐに手に入る。しかし表面を撫でるだけにもなった。創造性や深みを得るためには「間」が必要なのに、何かを終えるとすぐに別の「タスク」に移る。ちょっと一人静かになって噛まないといけないものをそのままぐるりと飲み込むか吐き出すので、なんの深みも得られずにいる。

 ポケットにスマホが入っている限り、私たちはいつでも他人とつながれるし、もはやつながらずにはいられない。スマホが壊れればパニックを起こすほどに。「繋がれる」という状態から「繋がらなくてはならない」という状態になった。企業がもともと私たちのためにやってくれていたことだとしても、「クリックせずにはいられない」という状況は企業にしてみるとたいへん利益になっているのは間違いない。自分の好きな動画を自分の好きに見るたびに広告が再生され財布にお金が入る。トラフィックは記録され、次の動画の再生を促す。どんどんとその精度は上がっていく。

 テクノロジーが人間に与える影響として「情報過多」ということが言われてきた。これが原因でADT(注意力欠如特質)やADD(注意力欠如障害)に陥る。ADTとは「心の交通渋滞」のようなもので、

  1.  集中力の不足
  2.  落ち着きのなさ
  3.  『動かないと、急がないと、走り回っていないと』という意識
  4.  衝動的な判断

 という症状が出る。慢性的な注意力散漫によって『もっと大切な何か、もっと面白いものは』と別のことを気に掛ける。はっきりいって、三番目に指摘された症状は幾度となく経験したことがある。ああ何かしなければ、何かしなければ、と気が焦る。情報が増えすぎヒートしているときほどこう思う。なるほどなと思った。

 

 ところで批判されてきたのはデジタル機器ばかりではない。古代ギリシャにおいては、実のところ「書く」という行為がまず不安視されていた。ソクラテスは対話至上主義者であり、対話するためにほとんどいつもアテネにいた。彼はエジプトの神テウトをひきながら書き言葉は有害な発明だと論じる。なぜって、言葉がそこで枯れてしまうからだ。つまりは誰かと話しているときには、あぁそうかそうだったといって自由に考えを改められるのに、書いた文字といえばいつも一方通行。記録にはなっても創造にはつながらない。

 とはいえソクラテスが書き言葉を有害視したのは、「老害」チックなものに映るだろう。対話はすげえじゃんという旧来の考え方からしか、文字という新たな発明を鑑定できなかったのだから。書き物をもって世間から離れてひとり物思いにふけるなど彼には想像すらできなかった。とはいえ、そのようなソクラテスを物語にして描いた哲学者プラトンは文字に可能性を感じていたと思われる。そもそも彼はソクラテスと違って書物を残しているし、喧騒から離れた場所ほど神聖だと自らの学園をのどかな場所に選んだのだから。「まず物理的に離れよう」ということをプラトンは教えてくれている。このことはデジタル技術という現代の道具にも適用できるかもしれない。

 

 また本が大量に生みだされるようになったとき、人々は乱読し、次から次へと本から本へ移っていった。読書は奨励されているが、実は本さえ批判のマトである。ショーペンハウアーも『読書について』という文章で批判しているし、セネカもまたそうである。セネカは意識の対象を移り行きをスローダウンすることをすすめる。一日に一つと決め、その日はそれを徹底的に掘り下げていくのだ。

 このように考えてきたとき、電子書籍もまた考えものとなる。たぶんこれからどんどんと普及していくだろうが、ネット接続されたタブレットを持っていて、メールを見ることさえ我慢できないような私たちがその本を熟読などできるのだろうか。

しばしば感じるのだが、最近の読書関連のテクノロジーは、利用者を読書に没頭させないことを狙いとしているのではないだろうか。というのも、読書という行為には他人の影響やコントロールがおよばないため、「けっして一人にならないように」というデジタル世界の鉄則に反するのだ。

つながらない生活 ― 「ネット世間」との距離のとり方

  もちろん電子書籍は非常に便利である。便利だが、使用者であるにんじん(私)ときたら誘惑に負けやすいお野菜なので、とうてい扱える代物ではないと思っている。みんな合理的だといって電子書籍をすすめてくるが、合理的なのは同意するにしても、にんじんが手をつけていないのはそのためである。合理的であればいいというものではない。

 

 以上はつながらない生活 ― 「ネット世間」との距離のとり方という本をなんとなく約言したものとなっているが、まぁ大体上のような理由で少々インターネットに対して懐疑的になっている。しかしもちろん便利であるとは思っている。使い方を考えなくちゃいけないなあという気が強くなっているというわけだ。