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論文「外在主義から何が学べるか」

cir.nii.ac.jp

 ここに「外在主義」とは意味論的なもので、『ある主体が何を思考しているのかといった経験内容を特徴づける上で、その主体の外部に存在する周囲的な状況、外在的な要素を無視することはできない』ということである。これは、意味や思想内容といったものの特徴づけに主体の””心の中””だけを問題にする「内在主義」に対する批判でもある。

 フッサール現象学は『主体に外在的な要素を前提して経験の成立を説明する方式を自覚的に排し、その主体が何をどのように経験するのかを主体自身の内在的な視点から記述しようと』試みる。すると外在主義は現象学に対する矛先を向けていることにもなるだろう。だが実のところ、現象学における志向性理論の基本的な考え方が外在主義の発想と排他的ではない。もちろんそこに含まれる強い内在主義的発想は生き残ることが難しいが、一方で、内在主義には「意味」というものが主体に把握されていること、習得し使用されているものだということの説明を与える理論構築という大きな眼目があって、外在主義を徹底して主体から「意味」を追い出すとそれが理解できなくなるという点も考慮されなければならない。

第一節

 もし私たちの語ることがすべてうわごとでないなら、「ソクラテス」「浦島太郎」「フロギストン」などについてそれをどのような意味で用いているかを把握しなければならない。それらしばしば実在していないものであり、そこで把握されている意味とは一体どのようなものであろうか。つまり、話している内容が浦島太郎であって桃太郎ではないという、対象への関係づけられ方、対象の与えられ方はいかなるものでありうるだろうか。

 ヒンティッカの提案をみてみよう―――それは可能世界から対象への関数だ。志向性(=意味を把握することによって我々の思考や想像、知覚といった経験が「何らかの特定の対象についての経験」として成立していること)を可能世界意味論として捉えようとするのだ。単純のために可能世界はW1,W2,W3の三つがあるとし、それぞれ{a,b,c}{a,b}{a,c,d}という対象がある。いまa<b<c<dの順番にサイズが大きくなるとしよう。このとき「最大の存在者」とはそれぞれ、W1ではc、W2ではb、W3ではdとなる。すると「最大の存在者」とは可能世界に対して対象を出力する関数だと考えられ、なにか特定の対象と紐づいているわけではない。たとえば浦島太郎は私たちの世界には存在しないが存在することは可能であり、あとは適切に選び出すという問題になる。―――だが私たちはヒンティッカ的意味をどう把握すればいいのだろう。どうやって習得してきたのだろう。可能世界は無数にあり、適切に選び出すなど相当に困難ではないか。私たちの話す「浦島太郎」の可能世界を特定する恐ろしいほど膨大なリストをいつ教わったのだろうか?

 そこで浮上するふたつめの選択肢が、私たちの把握している意味とは対象の探索手続きであるという発想である。対象というものは「浦島太郎」などのように実際に与えられているものではない可能性がある以上、『候補が与えられればそれが当該対象であるのかを判定する方法』として解釈しそれが桃太郎ではなくまさに浦島太郎なのだと特定する紐づけに十分なっていると思われる。たとえば「惑星ヴァルカン」はある種の天体の運行を説明するために考えられていた惑星だが今は存在しないことがわかっている。しかしだからといって『惑星ヴァルカンの大きさはしかじかだ』と述べてもまったく意味不明にはならない。それは、誰かからその惑星の候補を挙げられたなら「それはこの天体の運行を説明できないでしょ。ヴァルカンじゃないよ」と応じることができるからだ。暗算が得意でもない限り12345*4654の計算結果を私たちは知らないが、それでもこの式は無意味であるわけではない。それはどのような手続きを踏めば計算できるのかを、つまり掛け算の意味を知っているからだ。

第二節

 さて、私たちは対象を意味を介して特定した。だがこのやり方には、対象を定めるのは意味だけなのかという批判がある。つまり、『いま私はブログの記事を書いている』といまぼくが言うなら正しいが、いまこれを読んでいるあなたにとっては正しくない。つまり「いま」とか「私」とかは意味だけではなくその場の文脈に応じて対象が変わるのだ。それに対してフッサールは「その時々で意味が変わる」と応じている。『知覚によって与えられる具体的な状況を参照することによって完全な意味を獲得』するのだ。文脈という外在的なものではなく知覚というものを支えにして完全な意味になっているのだというところがポイントである。

 では言う通り、直観に支えられて「私」「これ」の対象を同定しよう。すると『この机は私のものだ』は「私」や「これ」を使わずに記述できるに違いない。だが外在主義が指摘する問題点はここにある。たしかにぼくの目の前にある机と、読者の目の前にある机は周囲の情景も含めて大きく異なるに違いないが、必然的に異なっているのだろうか。つまり知覚的情景が何もかもまったく同じであるにも関わらず、ふたりは異なる場所で異なる机を見ている状況がなぜないといえるのだろうか。これに対して、私たちにはわからないが「感じ」があるんだと反論すれば内在主義はとりあえず守れるだろうが、こうなるともはや意味には私たち主体にはアクセスできないものとなる。……とすると、やはり「同一の意味だが文脈次第で対象が変わる」ことを認めればよいのだろうか。しかしこれにも問題があるだろう。状況によって対象が異なるのだから言明は文脈によって異なる真理値を持ちうる。つまり、「真偽は人それぞれ」になってしまう。

第三節

 ここまでの議論が見逃していることがある。それは『経験がそもそも視点依存的なものであり、そのつど特定の主体の特定の始点からのものでしかあり得ない』ということである。ぼくが「この机」といい、彼が「この机」という。単純に、ぼくが誰かから二つの手続きが同じかと訊かれたら違うと答えることができる。なぜならぼくと彼のいる場所は違うからだ。ここに経験を超えた外在的なものは必要ないし、「感じ」のようなアクセス不能な微小な差異も必要ない。私たちはお互いの手続きの差異を経験のつながりのなかで十分に認識できるのである。

第四節

 たとえば、「黄色く、光沢があり、科学的に極めて安定している、等々の精神を持つ特定の金属」を指すために「金」を用いる。だが遠くにある惑星で、まったくおなじ性質を示す別の物質を「金」と用いていることは原理的にまたく不可能というわけではない。すなわち、その時点で主体の把握できるものはまったく同一であるにも関わらず、異なる対象を指示する―――このようなことが「真偽は人それぞれ」、つまり自然科学における言明であっても成り立ってしまうのだった―――だがこのことは、それほど破壊的なことだろうか?たとえ学問であろうが、視点のない完全匿名のものではありえないはずである。問題は前節のように視点依存的であることを持ち出してきたときに、学知の普遍的客観性はどうなるのか、ということだ。

 視点依存的であることを踏まえて理論体系は、やはりそれぞれの視点での共通性を互いの経験のなかで確かめていくことができるだろう。つまり強い意味での学知の客観性(誰の視点でもない完璧な客観性)は弱められるが、互いの視点の共通性を判別し、共有し、その成果を蓄積していくという学問の営みはなんら破壊されるものではない。