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「現代哲学のキーコンセプト 真理」ch5まで

真理とはなんなのか?

 この問いはこうも言い換えられる。「ニワトリは卵から孵る」という主張が持っていて、「両生類は羽毛を持つ」という主張が持っていない性質である《~は真である》という性質は一体なんであるのか? ———真理とは何かと問ううえで、真理をこの世界全体のことだと勘違いしてはいけないし、また、「真理とはなにか」と「何が真であるのか」は区別されなければならない。なにかある言明が真であることを知りたいことと、真理がなんであるかを知りたいことは異なる。Xとは何かという形式の問いはソクラテスが探求したことで知られる類のものだ。彼と同様に私たちが知りたいと思っているのは、『なにが真なる主張を真とし、なにが偽なる主張を偽とするのか』を説明することである。

 次になにがこの《~は真である》の担い手になるのかについて見たい。文、命題、発話、言明、信念、理論などがこの候補になる。ただ、文にそれを帰する哲学者の中には命題という抽象的対象の存在そのものを認めていないこともあり、論争は大変込み入っている。そこでここでは「主張」ということばを中立的に用いることにしよう。

  •  次のような誤解もある。(1)私たちになにか真であるとみなす権限は決してない。ゆえに何も真ではない。(2)誰かが信じていることを真でないとする権利はない。ゆえに何も偽であることはない。――――この議論の問題は、真であることと真であるとされることを区別し損なっていることである。当たり前だが犯罪者とされていることと本当に法を犯していることの間には差がある。

 

客観性

 《真である》という性質は、誰がなんと考えていようと持つものなのか、そうではないのかという問いは「客観性」というテーマに括られている。真なのか偽なのかわからない主張(特に、原理的に知り得ないようなもの)でさえも真や偽でありうるのだろうか。さらに言い換えれば、真ではあるが知り得ない主張は存在するのだろうか。

  1.  実在論:それが誰かに信じられていること、あるいは誰かがそれを知る可能性にすら真理が依存していないような主張というものが存在する 実在論はつまり「誰がどう考えていようが世界はあるがままにある」という常識的な立場を擁護する。真である主張は真であるがゆえにそう知られるのであり、知られ得るから真であるわけではない。この立場にある人間は『620億光年先に奇数個の水分子がある』という主張は知り得ないが真か偽かのいずれかである、と述べる傾向にある。
  2.  相対主義:いかなる主張の真理もそれをだれが信じるかに常に依存するという意味で、真理は常に意見の問題である 相対主義者は、真理と虚偽は人びとが何を信じるかに依存していると主張する。なにかが面白いのはそれを面白いと考えるということを含意する。真理とは常にだれかにとっての真理である。
  3.  反実在論:ある主張を真にするもの一部には、私たちがそれを知ることができるという事実が含まれ、そのため、私たちが真か偽か知り得ないような主張は、真か偽かにはなりえない 反実在論は真理に信念が関係していると思っていないが真理は誰かにとっての真理だとは言わない。真であることと認識可能性は密接に結びついており、620億光年先の水分子が奇数かどうかなど知る方法がないのだから真だとか偽だとかそういうことはいえない。それについての事実は存在しないのである。

 実在論はたいへん常識的だが、「世界がどうあるか」「世界がどう見えるか」を根本的に分離してしまうのでそもそも何も知り得ないのではないかという懐疑を誘発する。どれだけ確かめようがどれだけ確からしかろうがそれは「どう見えるか」の話にすぎないのである。たとえば哲学者カントは《実在の不可知の世界》がないと私たちの経験は不可能になると論じ、そして私たちの知識というものを《現象の世界》に限定したのである。あるいは、真であることを知るために誤る可能性のない完璧な証拠を用意すべきだという前提を攻撃する手もある。

 相対主義にはさまざまなバリエーションがある。主観主義においては、真理は個人に相対的である。合意相対主義においては、真理は集団に相対的である。主観主義の問題点は明らかに、誰も決して間違わないことになってしまう点である。合意相対主義も同様の問題を回避できておらず、その文化集団で地球が平らだと信じられているならばそれが真になるだろう。また、よく知られているように相対主義の主張自体が相対的なのかという問題もある。それに、Aさんが「Bは冷蔵庫に牛乳があると思ってる」と信じ、Bさんが「俺は冷蔵庫に牛乳があると思っていない」と信じていたら、相対主義において一つの正しい答えは存在しない。これはそもそも誰かから「いやそれは違うよ」と言われたら「いや俺にとってはこうだから」という破滅的な帰結を正当化する。

 反実在論は、真理値を見いだせないならいかなる事実も存在しないという。彼らの見立てではなにか主張が真であるというのは、それが真であると見出すのはどういうことだろうかと想像すること以外には何もない。まさに真理の概念=認識可能性の概念なのである。

 実在論者なら言うだろう。:恐竜は化石が最初に発見されたときに存在し始めたわけではない。つまり恐竜について何も見出すことができないとしてもそうであろうことがあると想定することは容易だ。それに、たとえば《最後の恐竜個体は一週間のうちどこかで死んだ》わけだが、これは七つの命題《最後の恐竜は〇曜日に死んだ》を∨で繋げたものである。各々の命題をチェックする方法などなくても一週間のうちどこかで死んだことぐらいわかる。古典論理を放棄するのと反実在論を放棄するなら後者のほうがましだ。さらに反実在論はアロンゾ・チャーチによる「認識可能性のパラドクス」を引き起こす。つまり、すべての真理は知り得るというならすべての真理はもうすでに知られている、というパラドクスである。このパラドクスの論証はやや複雑で、決定的に反実在論を論駁するものではないが、少なくとも反実在論者は完全に正常な文が真でも偽でもないという考えに踏み込んでおり、古典論理の二値原理を放棄しないといけないように思われる。というのも、チャーチによれば、反実在論者は彼の議論に含まれる次のいずれかを拒否しなければならないからだ。

  •  もしpが知られているならばp
  •  もし「pかつq」が知られているならば、pは知られており、1qも知られている。
  •  知られていない真理も存在する
  •  二値原理+「知られていない真理はない」と「すべての真理は知られていない」の同値性

 

 

真理と価値

 価値がその本質に組み込まれているような性質を「規範的性質」と呼ぶ。ここでの問題は、真理が規範的かどうか、つまり真理が或る種のよさとその本質に含むかどうかである。これを肯定的に論じるものを取り上げてみよう。『そもそも真であるというのは正しいということであり、正しいとは規範的なものなのだから、真であるも規範的だろう』がそれである。ただ、真であると正しいが同じかどうかはわからない。もちろん真であるときには正しいというのであるが、「皿の右にフォークがある」ときに「正しい位置にある」というからといって二つが同じ意味にはならない。前者は単にフォークの位置を記述し、後者はなんらかの一群のルールを適用しフォークの位置を評価している。これと同様に、真であるも主張を記述しており、正しいはルールに照らして評価しているのかもしれない。これ以外にも、そもそも正しいというのが規範的だというのも疑うことができる。「一週間は7日だ」「それは正しい」と言う時、単に同意しているのであってその主張がいいとか悪いとか許容できるとかできないとか規範的評価を行っている訳ではない。

 そうとはいえ、真理というものが気に掛ける価値のあるものだと私たちが考えているのは事実である。いったい何によって真理は気に掛けるに値するものとなっているのだろうか。

  1.  内在的な価値=信念が真であるということはそれ自体でよいことだ 真理はそれ自体で価値があるとする。なにしろ、実際に私たちはそれを気にかけているのだから。これはほかにも『現実とマトリックスを選ぶなら当然現実だろう』『必要とされるものが満たされる存在者がふたりいるとする。一方は全知、一方はそうではない。私たちは自分の必要が満たされるとしても全知のほうを選ぶ』と擁護される。ただマトリックスを選ぶと真なる信念以外のものも失うことになって比較にならないし、もし仮に全知の存在が必要なものを少しでも受け取れない風に設定を変えたなら選択が変化することを想像するのは容易である。早い走者のほうが遅い走者よりよいが、それはスピードの本性からして走ることの目的だからではなく、走ることの本性がスピードを目的とするからである。同様に、全知はいかもしれないが、それは信念の本性ゆえによいのであって、真理とは関係がない。
  2.  最終的な価値=合理的な存在者が真理を気にかけていること自体 切手収集家は売却などの目的のために集めているのではなく収集のために収集している。別に収集すること自体に価値があるわけではないが、コレクションの作成を望んでいるのである。カントは『合理的な存在が目的をもちそれ自体のために欲求している』ということ自体に価値をおいており、この見解はこの伝統に連なる。ただそれ自体のために欲求しているがゆえに真理がなんらかの価値をもつのだと想定することにはやや混乱がある。収集するという欲求が満たされることに価値があると想定すればよく、切手に特有の価値があると想定する理由はどこにもないからだ。
  3.  道具的な価値=真理は信念をより役に立つものにする 真であることが信念を役立つものにしているとする立場。だが当然のように信じていてはまずいこともこの世にはいくらでもあり、最終的には『行為の成功につながる』まで後退することになるだろうが、そうするともはや真理が本性上道具的な価値があると述べるのは無理だろう。丈夫なハンマーをすべて青色に塗っているとしよう。だが青く塗ること自体がくぎを打つ助けになっている訳ではないのだから。
  4.  構成的な価値=よい生を送ることの不可欠な部分であるがゆえに たとえ真理が道具的な価値をもつことが無理筋だとしても、正確な信念をもっていたほうが助けになるのは間違いない。マイケル・リンチは真理そのものを価値ではなく、それを気に掛けることの価値に焦点をずらした。真理を気にかけるに値するものとしているのは、それがよい人生を送るのに気にかけなければならないものだからである。
  5.  目的的な価値=真理を気にかけると私たちに恩恵をもたらす 登山者は頂上に到達することによってなんらかのよい感情が引き起こされる(道具的価値)。そして第二に、頂上に到達することを目的とすることによって他の仕方で恩恵を被る(目的的な価値)。

 

 

真理とはなにか①

「主張が真だというのは、真であるかどうかのテストをその主張がパスすることであり、そしてそれがすべてである」

 テストをパスすることと真であることの差はない。これを真理の認識説という。代表的なものは「整合説」と「プラグマティズム」である。前者は、その主張が適切なかたちで整合的で包括的な信念の集合に含まれるというテストを求め、後者は実践というテストを求める。たとえばパースは《十分に偏見のない人々が十分に長いあいだ探求すれば疑いのない合意に意見が収束する》として調査や観察が行きつくし全ての人が受け入れることになる主張を真と呼んでいる(収束すると考えるべき理由はないという欠点がある)。一方、ウィリアム・ジェイムズは真理を””都合のよさ””だと考える。すなわち、「真理」とはその信念にもとづいて私たちは行為すると成功するだろうという意味である信念が役に立つことがわかったときに適用されるラベルである(だが真なる信念が都合の悪いことはありうる)。

 また、真理の認識説は一般的には反実在論にコミットすることになり、反実在論に対する批判をすべて受け止めることになる。しかも場合によっては主観的相対主義に陥ることもある。牛乳が冷蔵庫にあるかないかということが私にとっては真だがあなたにとっては違うなどということはバカげている。認識説のメリットは真理の価値を拾い上げてくれるところだが、反実在論のデメリットをすべて受けとめなければならないし、そもそもテストを通ろうが通るまいが冷蔵庫に牛乳があることはありうる。テストはよい測定器ではあるかもしれないが、それがずばり真理そのものであるという根拠は薄い。

真理とは何であるか②

 真理の認識説がテストをする私たちを重視していたのに対して、「真理の対応説」は世界の側を重視する。「対応説」においては、真なる主張とはその主張が実在に対応するということに他ならないとする。””いかに実在に対応するか””に対して整合説では他の信念と整合していること、プラグマティストは探求の理想的な極限における一致というだろうが、ここでいう対応とはそのようなものではない―――真理とは関係的な性質であり、主張はなにか他のものに対して対応関係を持っている。

 「古典的対応説」は主張と事実の対応を考える。:ある主張が真であるのは、その主張に対応する事実が存在するときでありそのときに限る。だが主張は文であり、事実とは実際の状況なのだから””一致””などするわけはなく、いったい何をもって””対応””なのかは説明しなければならない。最も自然な回答は《主張は、世界を特定のあり方にあるものとして表象する》である。主張は世界のある場面を描きだすもので、その様が事実と一致しているならば真だという。だが100の正の平方根は10であるという主張はどんな事実に対応しているのだろう。この主張は世界の特定のあり方を描写しているはずではなかったか。

  1.  事態(描写されているもの)と事実について満足のいく説明は?
  2.  主張が事態や事実に対応するとはより正確にはどういうことなのか?

 「因果的対応説」は文の真理を指示によって定義する。まずは「グランドキャニオン」などの語をグランドキャニオンを指示するものとして、同様に他の語も順々に定義していく。それらを元に文をつくり、論理結合子を用いて複合文をつくる。「白い」という””性質””を表す語はある対象がその性質をもつときに白いを「充足する」という。まずは単文にでる語の充足を真と定義し、それを複合文へと拡大していくのだ。つまり、ある文が真であるかどうかというのは究極的には、ある対象がある性質をもつかもたないかという話になっている。この利点は、””事実””””事態””というものを導入しなくて済み、《ある対象が性質を持っているかどうかだけ見よ》と、「対応」という言葉さえなくて済ませられる―――だが「彼女が図書館にいたから、彼は公園に行った」という主張はどうだろう。たしかに彼女が図書館にいたことも彼が公園に行ったことも見やすいが、図書館に彼女がいたことが彼を公園に行かせることになったのかはまったくわからない。