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「歴史哲学への招待」

第一章 変動する歴史

 1914年6月18日に起きたサラエボ事件は、人類史上最初の世界大戦を引き起こした。記念日に皇太子とその妃が市庁舎に行く途中で車に爆弾を投げつけられ、急遽ルートを変更。たまたま運転手が道を間違え立ち往生していたときにそこに居合わせたセルビア人大学生に狙撃され殺害されたのである―――オーストリアセルビアに宣戦布告。同盟国であるドイツとイタリアも参戦した。この波はここで留まらず、オーストリア&ドイツと対立していたロシアも参加し、さらにドイツに対抗していたイギリス・フランスも参戦。日英同盟と日仏協商により日本まで参戦した。

 相互に連関した出来事はほんの些細なきっかけでその局面が急激に変わっていく。これはあたかも自然科学の分野で知られる「カオス」(変数同士が相互に連動している運動方程式の解のうち、予測不可能で複雑な振る舞いをする運動形態)に似ている。カオス理論で注目されるのは『初期条件に対する鋭敏な依存性』であり、すなわち、わずかな誤差が増幅されて予測不可能性をもたらす現象はさきほど見た歴史現象と実に似通っている。

 そこで、歴史を無数の出来事が相互作用し変動していくカオスとして捉えよう。歴史はつねに激動している訳ではない。安定状態においては同じようなことが繰り返され人びとの行動も既成の規範に従って行われる。しかしこのような安定状態はちょっとした攪乱でもきっかけさえあれば変動し、予測不可能な激動に見舞われる。もはやこの動きは誰にも止めることができない。カオス理論においても、安定状態では同じようなことが繰り返される中で規則性と構造が産生され、ふとしたきっかけで激動が訪れる。この『カオス的遍歴』はまさに歴史そのものだろう。このことが教えるのは、あるひとつの出来事に対して「原因はこれにある」と言ってしまう探究方法は歴史認識を誤るだろうという教訓である。

 ただ出来事だけが生起し、歴史は起こったことと起きることによって成り立つ。しかも起きることはそれまで起きたことのすべてを含んで立ち現れてくる。いわばひとつの出来事はあらゆる出来事の集結・結節点である。そしてその出来事は今度はまた別の出来事の要因となる。歴史を形成する出来事は継続的に更新され、現在はすぐに過去になり、記憶や記録だけでしか生きられない―――歴史とは、相互連関からおのずと自己自身を形成していく自己組織系である。自己組織系とは自己自身で秩序を形成する能力をもつ動的系である。

 

第二章 歴史と偶然

 わたしたちは、二つ以上の事象が因果性という必然的関係なしに出会うことを「偶然」と呼んでいる。ひとつの出来事を起こす複数の因果系列同士は必ずしも因果的に結びついてはいない。すなわち、どちらの因果系列からも片方から片方を予測することができない。出来事へ向かうドミノの列は突然に倒れ始める。この「偶然性」が歴史を形作っていく。第一次世界大戦はまさに皇太子夫妻とセルビア民族主義学生が鉢合わせたことにより起こった。ほんの少しなにかが変わっていれば、大戦はなかったかもしれない。そして一方、ほんの少し何かを変えてもやはり起こったかもしれない。

 歴史には多くの分岐点がある。分岐するまで、分岐することさえもわからない。決定論が主張するようには、歴史は単純でも理屈に合ったものでもない。歴史はマルクスの言うように「奴隷制」「封建制」「資本制」「共産制」と進むわけでもなく、トインビーの言うように「発生」「成長」「挫折」「解体」「消滅」と進むわけでもない。自然の猛威、外敵の侵入、支配者の権力欲、英雄の野望、民衆の熱狂……といった法則化できないものによって、偶然によって進むのだ。

 

第三章 進化する歴史

 近代市民社会の樹立としてフランス革命を高く評価する声は多いが、あの革命の経過は血なまぐさいものでまさに《嵐の時代》だった。古い秩序が崩壊し新しい秩序が樹立するためにはこうした時代を通過しなければならないのは歴史の常である。そして生命も、技術も、文明もすべて、創造と破壊を反復しながら「進化」してきた―――長い人類史の過程をみると何段階にもわたる革命的な飛躍があった。石器の発明や火の発見。農耕牧畜による生産性。人口の周密化と階層化。ソクラテス仏陀孔子などによって起こされた精神革命。それらを背景として古代帝国が出現。宗教。ユーラシアの商業革命。科学革命。産業革命。そして、情報革命。

 歴史には完成もなければ安定もない。だが変化してやまない歴史の流れのなかに「パターン」はある。古代ギリシアの最大の歴史家・トゥキュディデスはペロポネソス戦争を眺めながら、人間の性情が変わらない限り未来でも繰り返されるだろうと考えた。このパターンを見出すのも歴史家のひとつの役割だ。

 

第四章 歴史の認識

 多くの出来事が絡み合う歴史は今はもう史料を通してしか見ることができない。しかもそうした様々な「証言」は時には間違った情報である。しかも史料として残るものも少なく、残ったとしても情報として偏っている。もしも中国の歴史書のみから遊牧民を見るならば、彼らはいかにも好戦的な集団に移るだろう。しかも歴史のすべてを記述することはできずどうしても選択しなければならないが、それによって書き手の価値観が混入してしまう。歴史的史料そのものが①さまざまな事情によって滅失する・残る②記録すべきとされたことだけ記録されるという選択にかけられているのに歴史家によってさらに選択されたことだけが記述される―――歴史は歴史叙述を超えている。