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「歴史の哲学 物語を超えて」②物語論への批判

物語論への批判

 こうした物語論は、あったことをなかったことにしたり、なかったことをあったことにしたりするのではないか。そして物語の作者はまったく関係のない位置から当時の人びとのことを自分たちの枠の中で考えようとし、結局のところ、歴史事象をとらえきれないのではないか。歴史記述作者は自分を特権的地位におき、自分の立場や関心のみに気を配り、存在するかどうかも彼の思うままであり(存在する=物語の対象である)、そうしていながら決して自分の姿を見せようとしない―――こうした姿勢は、コギト(自我)に存在の確実性の根拠をおくというデカルトの姿勢と同じであり、自然というものを表象可能で、法則によって説明され人、間によって操作支配可能なものに縮減している。この意味で物語論は西洋近代の知の嫡流なのだ。

 歴史学は分散した出来事のあいだに共通性や因果性などをつうじて連続性の外見を与える。単なる相似や反復をひとつのなにかとしてまとめあげ、逆に個々の現象の説明原理にすらなり、明確な一本の線により過去は現在へと同化され、現在を正当化・正統化する。こうした歴史学の手法はまさに物語的だ。これに対してフーコーブローデルは「非連続性」を描こうとする。そこでは””長い伝統””なるものは自分自身の過去に対して自分で作った幻影にすぎない。この学においてはむしろ個々のものがその主体性を剥奪され、諸要素のうごめきのなかに戻って行くのである。

 具体的にはブローデル『地中海』にその例をみることができる。この著作が描くのは十六世紀後半の地中海世界だ。だがよく見られるような「~が~して~」と物語的歴史記述のようにははじまらない。まずは地中海世界の地形や交通路・気候などの「環境」からはじまり、商業通路や穀物生産・船舶運航状況・文明・社会状況といった「集団」の動きにうつり、ようやく「出来事」が最後に扱われる。集団までに八割弱を消費しており、物語歴史記述を見慣れた人間には散漫にみえるかもしれない。この『地中海』で描かれるのは、『地理的環境が人間活動を制約すると同時に可能とし、より巨大な世界システムの変動が人口や産業など諸条件を変化させ、そのなかでのわずかな地政学的条件や制度的条件の相違が各地域単位の盛衰をもたらして地中海全体の構造を変える』という様である。

 なるほどブローデルの記述は物語には到底見えないが、リクールは「表面上のことにすぎない」と批判した。すなわち、ドラマの舞台設定をはじめにしただけ、というわけだ。だが、そうではない。リクールにとってはプロットによって歴史記述が統合されるが、ブローデルは構造を重視する。それは時間を経てもほとんど摩耗せずゆっくりと伝達していくひとつの現実であり、その流れのうちに無数の世代にとって安定した要素がある。たしかに「舞台設定」が出来事に影響を及ぼすさまを見て取ることができ、そのためにこそ構造について長たらしい説明があったようにもみえるだろうが、現実には構造史こそが出来事史に先立つのだ。なぜなら、①出来事は単なる指標にすぎずその後の過程に決定的意義はもたない、②構造は出来事に還元されない。人間の営為は長期の地理的構造や中期の諸変動の力を借りてはじめて可能となる。③物語的歴史記述がもたらす物語的理解とは対照的に、『地中海』は複数の構造と錯綜した変動についての構造的理解をもたらす。

 彼の企ては「全体史」であり、それまでの歴史学において目指されていた「普遍史」とは異なる。これは物語=出来事史には回収しえない別個の歴史メカニズムなのだ。