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「ナラトロジー入門」②

 物語行為に焦点をあてることは、物語を「語り手と読み手のコミュニケーション」として捉えることである。ジュネット『物語のディスクール』においても、物語は「物語内容」「物語言説」(形式)「物語行為」という区別が採用されている。

 物語行為を考えるにあたって登場する語り手という概念は、作者とは異なり物語内部に存在する。最もわかりやすいのが夏目漱石吾輩は猫である』で、作者は夏目漱石だが語り手は猫である。では太宰治『思い出』という自伝的小説はどうだろうか。このときも物語論では、太宰治と”私”という語り手を区別する。文学批評では一般的に作者論に傾いてきたが、物語がいかに書かれているかという構造を主題にする物語論においては物語を作者から説明しようとはしない。したいのは時代背景や作者の研究ではないからだ。また、そもそも物語というものを【作者によって創造される】というほどに主体性に偏ったものだとは考えない。作者はむしろ様々な事柄に縛られなかば操られるようにして書いている(多くのものに影響を受けている)のだから、作者について研究しても物語に対する理解は深まらないのである。これをロラン・バルトは「作者の死」(神のような作者の死)と呼び、むしろ物語は無数の起源不明の引用たちからなる「起源不明のエクリチュールの織物」という。物語は既製品の複雑な結びつきで、できあいのもので作ったがゆえに作品内部にいろいろな矛盾も生じてくる。作品をひとつの正しい意味につなげるのは間違いなのだ。

 さて、物語はいまやたいてい文字で書かれている。バンヴェニストはなにかを語るときの「いま、ここ」な話し方をディスクールといい、誰もしゃべっていないかのように書かれるイストワールと区別した。話し言葉においては「昨日友達が来たんだけど、すごい大酒飲みでさ」というのに、小説においては「友人を家に泊めた。彼は大酒のみだ」というように書く。

 しかしそう区別してみると作者と語り手を異なるものとして置くのは不自然なようにも思える。『吾輩は猫である』の語り手は猫のようだが、現実の会話のような話し手ー聞き手というものはない。バルトは語り手も読み手もいないような物語はありえないといっているが、語り手を含め登場人物は紙の上の存在で、語り手というのは言語活動それ自体に近い。語り手は人格的なものではなく物語を維持するために存在している。では「読者」はどうなのか。先ほど物語は「起源不明のエクリチュールの織物」だとされたが、しかし受け手は統一されたメッセージを受け取っているように考えるだろう。まさにその統一される場こそが「読者」と呼ばれる。語り手を実在するものと考えるとあまりにも彼は知りすぎている。テクストを構成しているものがいるのだ。私たちは「作者」によって描かれつつあるところの物語を通して「内包された作者」「作者の像」を作り出し、それが糸を引くように感じる。だがそれがまさに「語り手」と呼ばれる言語活動、物語の機能そのものなのである。